相模原の歴史?!それは2万年前に!

藤堂 和弘

第1話 相模原の歴史、それははるか旧石器時代まで?

「米軍相模補給廠・相模原住宅・キャンプ座間」等多くの米軍施設(私が子どもの頃には、「陸軍医療センター」〔81年返還〕や「キャンプ淵野辺」〔74年返還〕もあった)を要する本市には、「軍都相模原」と言ったイメージが多くの人々に、定着しているのではなかろうか?つまり、戦後急速に発展してきた街というイメージである。しかし、歴史の教科書には、市内南区磯部にある勝坂遺跡は、縄文時代中期前半頃(約5000年前)の遺跡で、(平成21年度に「勝坂遺跡公園」として整備、現在、土葺きと笹葺きの竪穴住居が復元されて、縄文時代を体感できる場となっている)装飾的な文様や顔面把手などの特徴を持つ土器は、「勝坂式土器」と命名され、国の史跡の指定を受けており、又、近年、史跡田名向原遺跡(中央区田名塩田)が発見され、旧石器時代の史跡として平成11年に国の史跡指定を受けています。隣接する「旧石器ハテナ館」は、旧石器時代をテーマにした施設で、縄文土器や古墳の副葬品などを展示しています。野外展示では旧石器時代の住居状遺構、縄文時代の竪穴住居、古墳時代の小円墳が復元され、展示されています。2万年前の建物の跡がみられるのは全国でここだけです!

そこで、2万年の歴史がある「相模原」と、これからはアピールしていきたいと思います。ただ、歴史上に有名な人物や出来事がなかったため、あまり取り上げられていなかっただけで、今度NHKの大河ドラマにでも取り上げてもらえないかと思っています。新作大河ドラマ「旧石器人」なんてタイトルで、自然界の生き物のひとつとして暮らしていた旧石器時代の人々の当時の暮らしや自然環境などを取り上げるドラマにしてはいかがでしょうか?斬新なアイデアだと思いますが、同意してくださるNHK関係者の方はいらっしゃいませんか?面白いと思われた方は、どうぞご連絡ください。アイデアはいくらでも出します。

さて、有名な人物がいないと先程述べましたが、「淵辺伊賀守義博」伝説は、皆さんご存知でしょうか?淵野辺村に居館があった足利直義(足利尊氏の弟)譜代の家臣で、建武2年(1335年)7月22日、『太平記』には次のような記述があります。

『佐馬頭(足利直義)既に山ノ内を打過給ける時、淵辺伊賀守を近づけて宣ひけるは、「御方無勢によって、一旦鎌倉を引き退くと云へども、美濃、尾張、三河、遠江の勢を催して、やがてまた鎌倉へ寄せんずれば、相模次郎時行を滅ぼさん事は、踵を廻らすべからず。なほもただ、当家のために始終敵をなさるべきは、兵部卿親王(護良親王)なり。死罪に行い奉れと申す勅許はなけれども、この次でに、失ひ奉らばやと思ふなり。御辺急ぎ薬師堂谷へ馳せ帰り、宮を刺し殺し進らせよ」と、下知せられければ、淵辺、畏まって、「承り候ふ」とて、山内より主従七騎引つ返して、宮の坐ける籠の御所へ参りたれば、宮は、いつとなく闇夜の如くなる土籠の中にて、朝になりぬるをも知らせ給わず、なほ燈を挑げ、御経を遊ばして御座ありけるが、淵辺が御迎ひに参り候由を申して、御輿を庭にかき居ゑたりけるを御覧じて、「汝は我を失わんとの使にてぞ有るらん。心得たり。」と仰せられて、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸からせ給いけるを、淵辺持ちたる太刀を取直し、御膝の辺りをしたたかに打ち奉る。半年ばかり籠の内に居屈らせ給たりければ、御足も快く立ざりけるにや、御心は弥猛に思召しけれ共、うつ臥しに打ち倒されて、起き上がらんとし給ひける處を、淵辺、御胸の上に乗懸り、腰の刀を抜いて御頸を掻んとしければ、宮御頸を縮て、刀のさきをしかと咥させ給ふ。淵辺したたかなる者なりければ、刀を奪われ進らせじと、引合いける間、刀の鋒一寸餘り折れて失せにけり。淵辺その刀を投捨、脇差の刀を抜いて、先ず御心もとの邊を二刀刺す。刺されて宮少し弱らせ給ふ體に見えける處を、御髪を掴で引舉げ、則御頸を掻き落とす。籠の前に走り出でて、明き所にて御頸を見奉るに、噬切らせ給ひたりつる刀の鋒、未だ御口の中にて留まって、御眼猶生きたる人の如し。淵辺これを見て、「さる事あり。加様の頸をば、主には見せぬ事ぞ」とて、側らなる藪の中へ投捨てぞ歸りける。』

と非常に「ぞっと」するような生々しい場面です。

その後、義博は翌24日に主の直義を追って駿河の手越河原で、時行勢に包囲され、義博はただ一騎踏みとどまり、直義の身代わりになって討死したと記されている。

しかし、淵野辺の人々には、義博については次のような伝承が伝えられてきた。

「親王を殺害したかのように装い、ひそかに鎌倉道を通って淵野辺村に連れてきた。いったん龍像寺の裏手の洞穴に親王をかくまった後、ともに陸前石巻へと逃げ延びたという。その際、義博は境川のほとりの榎の木のところで妻子と縁を切ったので、今もこの木を縁切り榎という。また、榎の傍らにある橋は別れを惜しんだ場所だというので、別れ橋あるいは縁切り橋といった。」現在の中里橋だそうである。東淵野辺の男性(1924年生れ)によると、かつてここには橋が2つ並んで架かっており、夫婦橋と呼ばれていた。淵辺伊賀守が夫婦別れをしたところなので、近年まで婚礼の行列はこの橋を避けて回り道をしたという。(現在も、中里橋下流30m程のところに、車の通れない名もない橋があるが、これがそうか?)

宮城県石巻にも同様な伝説があり、義博に随った家臣の子孫だという家々もあり、御棲居、殿原小路、御隠里など親王に縁のある地名が残っている。

なお、親王はその年の9月に病死されて、同所の一皇子神社にお祭りしたといわれ、また、親王が後醍醐帝の冥福を祈った碑もあるという。(以上、「相模原市史 民俗編」、「相模原歴史人名事典」、「相模原の民話伝説」より一部抜粋)

ほかにも、義博の「大蛇退治の話」などもあるが、それはまたの機会にしたいと思います。

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