第2話 七日目の夜

「これでよかったのかしらと後悔するようなもの、私は何もなかったのよ」

 薄暗い部屋の中で彼女の透き通るような肌が白くぼんやり浮かび上がっている。

「似た者同士ってことなのかな。僕にもそんなものはなかったし、きっとこの先、生きていても同じだと思うよ」

 唇が渇いて話しづらいが、布団から出て台所までいくのが、どうにも億劫だし、もはやそんな体力すら残っていない。

「なにこれ。傷のなめ合いってやつ。なんだかチープね」


 そういえば昔聞いたことがある。幽霊を見る人は、その幽霊と霊的な波長が合うからなのだそうだ。

 別に幽霊を信じてはいなかったが『そういうこともあるのかなぁ』という程度の記憶に残っている。なんでも幽霊を見る、見ないというのは、観察する側とされる側――この場合、僕と"なんちゃって人妻AV幽霊女優"の関係をいうのだが……、そう、僕はまだ彼女に名乗ってないし、彼女の名前も聞いていない。人妻なのか、人妻だったことがあったのか、そういうことは聞いていないし、訪ねてもはぐらかされるし、嘘を言われてもわかるはずもない。


"知らないことは知らないでいればいい"と言う点で、二人の波長は合っているということなのか。もし彼女が生きているうちに出会えていたら……。


「ねぇ、いろいろと疑問に思うこととかないわけ? たとえば、なんで私があなたに取り憑いたとか、そういうこと」

 文字通り僕はハトが豆鉄砲を食らったような顔で彼女を見つめた。

「聞けば……、知りたければ教えてくれるわけ? そういう……個人情報?」

 彼女は笑う。

「何そのコンプライアンス? 現世のルールをこっちの世界に持ち込んでどうするつもりよ」

 あっちもこっちもないだろうと思いながら、僕は考える。


「そっちの世界って、どうなのさ?」

「生きにくいわよ」

「死んでいるのに?」

「だからこそ、生きにくいのよ」

 僕はまるで回らない頭をフル回転させて問いただした。

「冗談じゃなく?」

「真面目よ。私が真面目じゃなかったことなんかあったかしら?」

「ごめん、真面目に冗談かと思った」

「冗談良子ちゃん」

 可愛い。本当に彼女は可愛い人妻AV幽霊女優だった。


 僕は彼女をギュッと抱きしめ、自分の中の"生に対する執着"をつかさどる大事な部分を"精を放つ大事な部分"に転換し、最後のランデブーを試みようとした。

「ねぇ、私がいなくなったら悲しい」

「ああ、とても悲しい」

 もっと彼女をきつく抱きしめたいと思ったが、これ以上どうやっても力が入らない。いよいよ僕の身体は生殖以外の機能はまるで役に立たなくなったようだ。

「私、あなたの精を吸い尽くしたら、もう一度あの人に会いに行くの。そしてやり直す。それができなかったらあの人を殺して、そしてもう一度私も死ぬの」


 彼女が何を言っているのかまるで理解できなかった、僕の脳はすでに機能していない。

「さぁ、ちょうだい。あなたのその――」

 彼女の手が僕の性器を握り、奈落の底へと導く。

「君の名前は……、どこで生まれて、どこで育って、そしてどこで死んだの」

 それは他愛もない、そして答えを得られずとも構わないような"気になること"だった。口に出して言おうとしたのではなく、勝手に口がそう動いてしまった、言葉が出てしまったという程度のことだった。

「何よ、今更……」

 彼女の手が止まり、そして震えだす。

「なんとなく気になっちゃって……」


 何もかも諦め、無我、無欲になったつもりだったが、僕の中の生きたいという衝動をすべて性欲に振り替えたときに最後に僕の中にのこったもの――それは好奇心だった。


「どうでもいいって、思ったら、聞いてもいいかなって、なんとなく、そう思っちゃったみたい。なんでだろうね。不思議だ。今僕は無性に君のことが知りたい」

「ダメ……、ダメ、なんだから、そういうの、機微な情報っていうのよ。どうやって死んだかなんて、Pマークに抵触して、『ピー』ってなっちゃうんだから」

 僕の性欲はすっかり萎え、急にいろんなことが気になりだした。

「あれ、さっきの話、あの人って誰? 殺すってどういうこと?」


「殺すっていうのはね……」

 彼女は僕の痩せ細った身体に馬乗りになり、全体重をかけて首を絞めてきた。

「殺すっていうのは、こういうこと、どう、苦しいでしょう。痛いでしょう。悲しいでしょう。辛いでしょ」

 幽霊だからこその悲しさか、彼女の全体重は1グラムもなかった。僕にはそれが悲しかった。彼女の感情が僕の中に流れ込んでくる。彼女が見た物、感じた物が僕の頭の中で再生される。まるでAVを見ているようだった。


「そっか、僕なんかより、ずっと、ずっと大変な思いをしてきたんだね。似た者同士だなんて、お笑い草だ。だって僕はまだ、生きているのだから」

 カーテンの隙間から朝日がさす。彼女の姿はその朝日に溶けるように消えていった。

「そっか。そうだよな」

 結局僕には何もわからなかった。彼女がいつ、どこで生まれ、どう育ち、どう死んだのか。彼女の名前も、彼女が『あの人』と呼んだ人のことを。


 ただ一つわかっていること。

 それは僕が、生きているということ。

 今は、それで、十分だった。

 だから僕は生きなければいけない。


 僕は這うようにして台所まで行き、命の水を口に流し込んだ。

 それは今まで飲んだどんな水よりもおいしく、冷たく、そして温かかった。


 数日後、僕は、彼女のDVDをネットオークションで売り払った。

 彼女が向かった先は――


 おわり

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人妻クリスマス めけめけ @meque_meque

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ