山形県鶴岡市は学校給食発祥の地です~給食あれこれ

星村哲生

   

ダ・ヴィンチに掲載されるというならば話は別、さてどんな文章が

なぜみんな 第1話 とするのか理由を知って納得

 私の出身地山形県鶴岡市は、日本海に面する市で市町村合併に伴い広大な面積を誇ります。

 交通は、東京からだと上越新幹線で新潟まで二時間。

 それから羽越本線特急でさらに二時間。よく韓国より遠いとか言われます。

 旅客機なら四時間切りますが、交通費が2万5千円前後、悩ましい所です。


 主要産業は稲作。庄内平野で収穫される各種銘柄、ひとめぼれ、はえぬき、どまんなか、それにつや姫などが主力です。


 山形県ならではのご当地食、と言えばやはり芋煮。

 江戸時代、県内を治めていた大名が、領地替えをする際、蔵に俵に入れて保存してあった大量のサトイモを領民に対して振る舞ったのが起源とか。

 土地ごとに具材と味付けが異なり、内陸では牛肉と味噌、庄内では豚肉に醤油がメインで他には厚揚げ、ごぼう、糸こんにゃく、しめじなど山の幸をふんだんに入れます。

 休日に、町内会で河原で芋煮会をするのが恒例行事。

 カレールーとうどんを入れるのがシメのメインですが、トマトやホワイトソースにパスタなどでアレンジする方もいるとか。

 夏には野菜を細切れにして、だし醤油で漬ける『山形のだし』や冷やしラーメン。

 観光地の定番軽食には、串に刺さった玉こんなどがあります。


 本題。鶴岡市には日本で初めて実施されたものがあります。

 場所は、鶴岡市家中新町にあるお寺大督寺だいとくじ

 山形出身の歴史作家藤沢周平『義民が駆ける』の舞台です。

 なにかというと、懐かしむ方も多いでしょう、学校給食です。

 その始まりは、寺で読み書きを教えていた学校は弁当持参が主でしたが、弁当が盗まれる事件が多発。

 弁当持参どころか、朝晩の食事にも事欠く子が、止むにやまれず手を出したとか。


 鶴岡市のホームページでは、明治22年 1889年、130年近く前。

 貧しい家の子供たちのために、住職たちが読経しながら近所の家々を回って托鉢して米を集め、子供たちに食事を与えた、というのが給食の起こりだったとか。


 その献立は白米の丸いおにぎりが二つに、鮭の塩漬け、地元では塩引きがなまって『しょんびき』と呼ばれている切り身を焼いたもの。それに漬け物が小皿一皿。

 現在からするとだいぶ質素ですが、当時の子供たちにとっては貴重な栄養源だったはず。

 鶴岡市では記念日12/7には食べ物や給食に感謝を、ということで実際の初めての給食を再現して出しています。

 このメニュー、食べる側は手づかみでそのまま食べられますが、おにぎりは全て手作り。

 そのためこの日はパートさんもフル稼働で作って提供するとのこと。お疲れ様です。


 で、このエッセイの本題ですが、

『私が通っていた小中学校は、都内よりメニューがものすごく少なかった』

これを皆さんに伝えたいと思います。

 まず主食。前述した通り山形県はコメどころです。そのため、変わりご飯はそれなりに種類が多かったように思います。

 覚えているのはわかめごはん、ひじきご飯、豆ごはん、季節のものでは栗ご飯などでしょうか。

 逆にパンものが貧弱でした。ごく普通のコッペパンと、二枚切り四枚切りの食パンがせいぜいでした。その上、小学五年生くらいに(うろ覚え)古米、古々米の余剰が多すぎるため、パン給食が週一回水曜日のみになるという、米どころならではの通達もありました。

 世間一般で給食を懐かしむとき、よく話題に上がるのが揚げパンです。

 元は手軽にハイカロリーなものを提供できるように、と開発されたのだとか。

 が、鶴岡市の、田舎を通り越して魔境(平均日照時間10時間程度)の小学校で、揚げパンが提供されたことはただの一回もなく、話題に乗れないのも含めて悔しい思いをしたことが何度かあります。

 現在はコンビニで手軽に買え、きな粉、ココアなど種類も豊富です。

 でも成人して背も伸びない、部活動で汗を流すこともない今、中性脂肪の塊をわざわざ摂取しようという気にもなれず、手近にあっても手の届かない存在です。

 献立表で予告され、午前中の授業を乗り切り、みんなと一緒に食べるからこそおいしいのでしょう。

 同様にミルメークもコーヒー一択。

 スーパーでもメロン、イチゴ、ココアなど豊富に揃っているというのに!


 少々それました。続いてソフト麵。透明のビニール袋に詰められた麺です。

 ビストロスマップで、料理の不得手な中居さんがモーニング娘。に振る舞っていたのを覚えていますが、これも出ませんでした。

 かけるソースも多いそうですが、それも当然ありません。

 今ではそう呼ぶ方が少なくなりましたが、ミートソース・・・・・・スパゲッティ・・・・・・の時は、金属製の蓋つき容器に、柔らかめに茹だった麺にまんべんなくソースが絡まったものがきました。

 麵とソースが馴染んで、個人的に好きな一品ですが。


 あと、カレー。他ではどのように出されていたのでしょう? 当時はアルマイト製の食器に、ご飯とルーが別で供されていました。

 で、食べ方。

 最初は家と同じようにご飯にルーをかけて食べていましたが、のちに給食センターの方から『油汚れが倍になるから、ルー側にご飯を』というお達しが出たので、私は先割れスプーンでご飯を取ってルーに浸けるスープカレー方式で食べていました。

 他の地域、時代ではどうだったのでしょう。気になります。


 他にも、地元の名産赤かぶの甘酢漬けが二切れ出てきたのを、子供だった当時、辛くて苦手だったので他の子にあげたりとか。

 牛乳(瓶でした)の正式な飲み方は

『立って左手を腰に当てて一気飲み』

でクラスの男子で速さを競争したとか。

 大好物のチキンタツタは一番最後に取っておいて、好きじゃないワカメときゅうりの酢の物は一番最初に食べてしまう。

 隣のクラス、下級生の子がその酢の物を食べ終わるまで帰れず、廊下に机と椅子ごと出されて、放課後まで酢の物を凝視し続けたのを不憫に思ったりとか。

 最後の方は山形全く関係ありませんが、給食という単語を聞くとなぜか思い出します。


 これを読まれた方、給食にどんな思い出がありますか? 教えていただければ幸いです。

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