第41話 約束の短刀

「だいぶ・・落ちましたな」


 同行している戦士の1人が呟いた。

 上空で旋回する特務艦の下方で、おそらくは6割近くが崩壊してしまった、元空中庭園が幾つもの断片となって浮遊している。わずかに残って見える建造物も無事な物は一つも無い。石柱も壁も崩れて半壊していた。


「王宮らしいのは残ってるか?」


 トリアンに言われて、戦士達、影衆達が特務艦の丸窓から目を凝らす。


「空中戦艦・・4隻」


 シンノが彼方を指さした。まだ誰の目にも見えていない。


「レンカ、任せる」


「分かりました」


 レンカ・トウドウが頷いて搭乗口へと向かった。白銀龍はすぐ近くを飛行している。


「あれかな・・」


 トリアンは左下方に浮かんでいる岩塊を見つめた。

 直径にして約2000メルテ。浮かんでいる残骸の中では3番目くらいの大きさだが、周囲に破片のような岩塊を漂わせて、護られるような位置へ引っ込んで見える。


「形も良い。殲滅してあれをルナトゥーラに牽引して帰ろう」


「師匠?」


「海側に浮かべて砲台にする。もう山側を通って来ることには懲りただろうからな。次は迂回して海だろう」


「なるほど・・」


 サイリが頷いた。


「でもでも・・どうやって引っ張りますか?」


 シンノが曖昧な笑顔で訊ねた。


「ん?」


 トリアンがシンノを見た。シンノが人差し指で×印を作っている。


「なら・・・あれに牽かせよう」


 丸窓の外を通過して行った白銀龍を顎先で指した。


「接近を試みますか?」


「いや、この船はあれを追って撃滅しろ」


 やや離れた街道筋を土埃を上げながら移動していく甲車が50台近く見えていた。


「シンノ、グレイヌ、サイリは、おれと岩塊に降下する」


 トリアンは搭乗口へと向かった。


「上空へ。我々が降下後は指南役のご下命のとおりだ。あの車両群を殲滅しなさい。一台に20名とすれば、1000名以上を相手にすることになる。油断するな!」


 グレイヌ王女の言葉に、戦士団、影衆が鋭く返事を返した。グレイヌは騎士服に長靴、長手袋、胸甲を着けた姿でマントをつけている。鉄兜を被りながら指示を出していた。


「わたしが一番後ろから行きます」


「よろしくお願いします」


 黒光する革鎧姿のサイリが頭を下げた。すでに目元を残して黒い鉄面を被っていた。


 ・・ゴウッ・・・


 いきなり風が機内に吹き込んで激しい音を立てた。搭乗口を開けて、トリアンが下を覗き込んでいる。

 その視線がちらとシンノ達に向けられた。


「行く」


 言葉と同時に、トリアンの体が機外へと消えた。

 すぐさま、サイリが飛び出す。続いて、グレイヌが飛んだ。


「帰りは、機内に転移しますから」


 言い残して、シンノがふわりと舞い降りて行った。


「ご武運をっ!」


 吹き込む風に負けじと声を張り上げて、影衆の女が二人がかりで搭乗口を閉じた。


 耳元を斬り裂くような風の中、頭からトリアンが落ちて行く。サイリとグレイヌがそれぞれ手足を拡げて速度を落としながら続いていた。最後尾を、銀毛の尻尾をふわふわとさせながら降りてくる。

 紅色の瞳は、空中戦艦に襲いかかる白銀龍を眺めていた。

 火炎息を浴びながらも、わずかな白煙を立ち上らせるだけの空中戦艦に急接近して踏みつけ、尾の一撃をたたき込み、火炎息を浴びせる。


(へっ!?)


 シンノの耳と尻尾の毛が逆立った。

 ごくりと唾を飲み込んで眼下に目を凝らした。

 シンノの師匠が魔法を使おうとしていた。いつもは、いつ使っているのか、それが魔法なのか、体術なのか分からないほど予兆無く使用しているのだが、今回のはシンノが初めて見る、ゆっくりとして見える魔力の流れであった。


(ま・・ままま・・まさか!?)


 シンノは大急ぎで飛行して、サイリとグレイヌに追いつくと、二人を両脇に抱えるようにして魔障壁で包み込んだ。多重、多層化をして、どんどん厚みを増して行く。


「助役?」


「シンノ様?」


 サイリとグレイヌが銀狐娘の焦った様子に緊張感を漂わせる。


「師匠が・・ヤバイです。いえ、いつもヤバイんですけど、今度は飛びっきり危険な感じです」


「そ・・それは・・」


「そう言えば、指南役が魔法の準備をするところなんて初めてみた」


 グレイヌが呟いた。


 その時、空が揺れた。


 そうとしか表現のしようがない。

 まだ午前中だというのに、黒々とした闇が世界を包み込むようにして大空を覆い尽くして行った。


「結界に集中します。飛んでいられる自信がありません」


 シンノが青ざめた顔で呻くように言った。


「分かりました。飛行は私達が・・」


 グレイヌとサイリが同じく血の気の失せた顔で頷いた。


「・・来ますよ」


 魂が抜けたような、呆然とした口調でシンノが呟いた。

 グレイヌとサイリが弾かれたように上空を見上げた。


 そこに、それは居た。

 見えていたのは、真っ黒い爬虫類のような鉤爪のある足の裏側だけだ。いや、鱗に覆われた長大な尻尾も見えていた。

 先の空中要塞を片手で掴みそうなほどの、巨大な何かが闇の中から顕現しようとしていた。


「巨人・・」


「レンカの銀龍が蠅みたいだわ」


 サイリとグレイヌが呆けたように呟く。


 巨龍のような翼を左右に拡げて、鱗に覆われた真っ黒な腕を胸元で組んで地上を睥睨しているのは、神話の世界の悪魔を想わせる捻れた双角と血のような赤い双眸が特徴的な異相をしていた。鳥の羽のような細長い鱗が頭部を覆った中に、鋭く尖った長い耳が伸びている。


『虫けら共の巣か・・』


 漆黒の巨人が、異様に指の長い手を軽く振った。

 新緑の緑で色鮮やかだった平野や丘陵地、そして高い城壁に囲まれた巨大な城塞都市が、目に見えぬ風に嬲られるようにして、一瞬で白と黒しかない死地になっていた。生きとし生けるもの、動物も植物も、無論、人間もすべてが塵となって消え去った。

 

「戯れるな・・あれだ」


 トリアンの鋭い声が飛んだ。


『ふむ・・』


 漆黒の巨人が血色の双眸を向けると、カイナードが国力を結集して造り上げようとしている超巨大要塞が建造用の建築物に囲まれて見えていた。先ほどまで、強力な魔法によって山に偽装されていたのだ。


『主よ・・』


「我が臣民はすべて我が後背にいる」


『承知した』


 漆黒の巨人の口元が、三日月の形に引き裂けた。

 笑っているのだ。

血の色をした双眸が細く長く弧を描いている。


『我が主のご下命である。宴を催そう』


 ゾワッ・・


 生ぬるいような嫌な感じが詰まった大気が、周囲から遠方へと遠ざかって行った。寒気を感じたように、サイリとグレイヌ、待避してきたレンカが自身の二の腕をさする。

 

「・・師匠に、逆らったら駄目です」


 一人、銀狐の少女だけが、諦観したようにポツリと呟いた。


 一瞬にして大地が漆黒に染まった。

 目に見えているカイナードの国土が黒々とした煙のような物を地面から噴き上げている。


『舞え・・踊れ・・我が主の御前ぞ!』


 背中を擦り上げるような漆黒の巨人の声に、ルナトゥーラの面々が思わず背を丸め身を縮めた。


 直後、地面から噴き出ていた黒煙が人の形を取り始めた。

 いや、"人"という表現は正しくは無い。

 "元"人だった者と言うべきか。

千切れた衣服をまとった死人が次々に生み出されて顎を鳴らすようにして笑い、体を揺らして騒ぎ始める。大地に、何千、何万という数の死人が出現していた。


『宴ぞ・・・踊れ、狂え・・』


 巨人の声と共に、死人達が怪しく蠢きながら、ぎこちなく踊り始めた。


 カイナードが建造中の超巨大要塞に向けて、漆黒の巨人が手の平を差し伸ばすと玉でも握るかのように長い指を握り閉ざした。

 それだけで、巨大要塞が黒い胞子のようになって崩れ去った。

 あまりにも儚い最期だった。

 削られた両側の山を残して、ぽっかりと不自然な空き地が見えている。

 それを見届けて、トリアンは片手を振った。

 漆黒の巨人が巨大な翼を拡げて高空へと飛び立ち、大気を包み込んでいた闇を吸い尽くすようにして球状の塊に変じると、そのまま薄れて消えて行った。


「行きますよ?」


 シンノが、未だに硬直したままのサイリとグレイヌ、レンカに声を掛けた。

 トリアンは何事も無かったかのように、浮遊する空中庭園の残骸めがけて降下を開始している。


(もう、もう・・大変なことになっちゃってます。師匠、ヤバイです。サイリさんとグレイヌさんが再起動しないです)


 呆然となったままの二人の腰を両脇に抱き、シンノは巧みに速度を調節しながらトリアンとの距離を詰めた。


「シンノ様っ!私は地上へ降りている戦士さん達の援護に行きます!」


 白銀龍で追いついてきたレンカ・トウドウが、風切り音に負けじと声を張り上げた。芯のしっかりした声音がよく通る。


「任せます!」


 シンノは笑顔で頷いた。

 繊細そうな美貌に反して、なかなか度胸が据わっているらしい。シンノの中で、レンカのポジションが少しランクアップした。まあ、連れのアレが酷い評価なので、まだまだ水面下なのだが・・。

 

「師匠」


 シンノは尻尾を膨らませるようにして、ふわりと減速しながらトリアンの近くへ着地した。


「皆、無事か?」


「はい、まあまあ大丈夫です」


(・・・心が逝っちゃいましたけど)


「そうか」


 頷いて、トリアンは空中庭園を見渡した。

 空から見下ろしていた時は、小さな残骸のように見えていたが、こうして着地してみると、なかなかの広さである。植栽も鮮やかで薔薇らしき花もあちらこちらに咲いている。人の起こした騒動など知らぬげに、真っ白な蝶がひらひらと舞っていた。


「まだ何人か残っているようだな」


 かなり距離があるが、危険感知マーカがぼんやりと遠く灯っている。当然だが、色はすべて赤い。


「捕虜は取らない」


「はい」


 シンノは頷いた。

 師匠に逆らってはいけないのだ。


(だって、怖いんだもん)


 逆らったら国どころか、大陸中の生物が死滅させられるかもしれない。


(どう考えても禁呪です。涼しい顔で、禁呪を使っちゃってます。危険人物ナンバーワンです)


 シンノが萎れ気味の尻尾をふりふりしながら考え込んでいると、両脇に支えていたサイリとグレイヌがようやく再起動したらしかった。


「あ・・えと、シンノ様?」


「・・申し訳ありません。助役・・」


 二人が代わる代わる頭を下げて謝った。


 庭園にある城館は半壊していたが、まだ人が住み暮らせる程度には無事なようだ。地下にも施設があるなら、100人近い人間が生存しているかもしれない。


(抵抗せずに、逃げちゃってくれないかなぁ・・)


 シンノは祈るような気持ちで館の方に感じる大勢の気配を見つめていた。

 しかし、人数が多いので気が強くなっているのだろうか。

 城館を護ろうとする使命感だろうか。

 待つほども無く、城館の玄関扉を押し開けて、武装した集団が外に飛び出してきた。


「・・撃て」


 そこに、80センチ列車砲が榴弾を撃ち込んだ。

 

 恐らくは魔導装備を着けていただろう騎士だか、戦士だかが粉々になって館の玄関ごと飛び散った。

 周囲の薔薇やら緑色の植栽やらも吹き飛んだ。

 発射の爆風で髪を振り乱し、煤煙を浴びたグレイヌ王女とサイリが呆然と巨大な列車砲を振り返った。いつの間に召喚していたのか。シンノが魔法で防御しなければ二人とも爆風と熱で吹き飛ばされていただろう。


「次弾装填、榴弾」


 聳え立つ巨大な列車砲の台座らしき辺りで、赤色灯が回転し始めた。ジリジリ・・と警報が鳴り響く。


「撃てっ!」


 正確に撃ち込まれた榴弾が館の中で炸裂した。

 半壊だった城館が全壊した。


「次弾装填、ベトン弾」


 分厚い石壁をも打ち砕く巨大砲弾が装填やれてゆく。


「撃てっ!」


 城館の地下施設が崩落した。

 地下にあった下層部の居住施設が剥き出しになった。


「次弾装填、榴弾」


 トリアンの声が無情に響く。


「撃て」


 内に籠もった重たい爆発音が地面の下を揺らした。

 シンノは耳を押さえ、目を閉じていた。

 見ざる聞かざるの構えである。


(お願いだから降参して・・と言うか、さっさと裏口から逃げちゃって)


 間違っても、師匠を攻撃しようとか止めて欲しい。そういう意地とか、要らないので全力で逃げて欲しい。


「・・あ」


 思わず声が出た。

 止せ止めろ・・と、グレイヌやサイリまでが呟いていた。

 剣と盾を持った騎士風の老人が崩落した地下から這い上がるようにして出てきたのだ。城館の主人というわけではなく、おそらくは守護を担っていた者達の誰かだろう。

 剣でトリアンの方を指し示して、何やら叫んでいる。

 そこに、ベトン弾が撃ち込まれた。


「次弾装填、ベトン弾」


 何らかの強化をされた騎士だったらしく、おかしな形に圧壊したまま、なんとか動こうとしていた。

 続けて、巨砲弾が撃ち込まれた。


「・・あいつには劣るな」


 トリアンは呟いた。

 比較対象は、一騎討ちで討ち取ったゴルダーン・オルゴスだ。

 当然だが、なかなか、あれほどの怪人は存在しない。


「撃て!」


 幾重もの魔法を付与されて強化された巨大な砲弾が、もしかしたら名の知られた猛者かもしれない老騎士にとどめを刺した。


「・・逃げ出したか」


 トリアンの視線が何かを追って左から右へと追随する。


「まあ・・賢明な判断だ」


 背後で、機関車が駆動音を鳴らし、80センチ列車砲が重々しいきしみ音を立てて魔法陣の中へと戻ってゆく。

 

「おれに探知できない敵が潜んでいる可能性もある。油断するな」


 シンノの師匠が何やら言っていた。


(・・そんな人、居たら会ってみたいです)


 シンノは、風を舞わせて尻尾に着いていた煤汚れを吹き払うと腰のポーチから櫛を取り出して乱れた銀髪と尻尾の毛を整えた。


「あら・・」


 ちらと見上げた空から、どうやら先ほどの老騎士が持っていたらしい大盾が降って来た。重々しい金属音と共にトリアンの目の前に突き立った。

 表面に黄金の模様があり、無数の宝玉がはめ込まれている。


「それは、ラケルスの聖・・」


 サイリが瞠目して何かを言いかけた。

 その目の前で、トリアンが手刀を左から右へと振り抜いた。

 分厚い大盾が二つに切断されて地面に転がった。


「・・ん?」


 トリアンがサイリを振り返った。


「いえ・・」


 小さく頭を振って、サイリが低頭した。

 大陸広く喧伝された通りなら、ラケルスの聖盾は絶対に破壊できないはずなのだ。形が似ているだけの偽物だったのだろう。そうに違いない。


「サイリ・・指南役を味方につけた貴女を尊敬するわ。もう・・心の底から感謝します」


「・・光栄です」


「あら?カイナードが攻めて来ちゃいましたから、もう指南役でも助役でもありませんよぉ?」


 シンノが笑みを含んだ表情で二人を振り返った。


「ちょ・・ちょと、シンノ様?」


 グレイヌ王女が慌てる。


「国境を越えていないようだから、まだ継続中・・・とも言えるが?」


「そうなんですか?」


 シンノはトリアンを見た。


「ルナトゥーラに縛り付けようなどと思い上がったことは申しませぬ。ただ、我ら山岳の民にとっては、お二方は永久に指南役と助役です。どうか・・」


 必死の顔で言いつのるサイリを宥めるように、


「心配しないでくれ。ルナトゥーラには、おれの・・おれとシンノの家がある。なにせ、おれは家を出された身だからな。帰る家は、あそこだと思っている」


 トリアンの言葉に、サイリやグレイヌ王女だけでなく、シンノも表情を明るくした。


「当面は、ルナリア学園都市との行き来をしながら・・という事になるか」


「転移できますから、楽ちんですね」


「そうだな。ルナリアで宿を取らなくて良いか・・・ああ、駄目だな」


 トリアンがぽつんと呟いた。


「え?」


「落ちてる。これは運んでも意味が無い」


「あ・・本当です。どこか壊れましたか?」


「さあな・・まあ、帰るか」


「ちょっと、レンカさんを呼びますね」


「うん?」


「距離があっても龍さんと話せるんです」


「ほう」


「ルナトゥーラの人達も任務を終えたようです」


「飛空艦は・・・無事だな」


「はい」


「グレイヌ、サイリ、レンカを護衛にルナトゥーラに戻り、王と王妃に報告を頼む」


「畏まりました」


「指南役は?」


「おれは、シンノのところに婿入りだ。義理の親兄弟に挨拶くらいはしておかないとな」


「し・・師匠!?」


 狼狽えた顔で、シンノが声をあげた。


「なんだ?」


「えっと・・その、あれって・・ちゃんとしたお話しです?」


 上着の裾をいじりながらシンノが俯いた。


「行って訊いてみれば分かるさ」


「・・そう・・ですよね。うん・・でもでも、当時の事って、誰が?」


「誰か知っているさ。カラスだと困ったが、カルーサスだったからな。あの家の名は無駄に広く知られている。当時の大人達や長老連中なら覚えている。何しろ、魔導の契印書まであったくらいだ」


「あのあの・・」


「不安か?」


「えっと・・誰か知ってるとか、そういうのは心配無いんですけど・・そのぅ」


「どうした?」


「し、師匠はっ・・」


 言いかけて、自分の声の大きさに驚いたように、シンノが俯いて口を閉じた。


「師匠は・・それで良いです?」


「シンノの婿になることか?」


 トリアンは、ようやく銀狐娘の不安げな様子の理由に気づいた。

 荒事には鋭敏な思考が巡るくせに、こういった事には随分と疎い。


(不安がってるのは、書類や約定の事じゃ無いよな)


 さすがに、そのくらいは思い当たる。


「長い間・・なんというか、親のような・・まあ、妹が出来たような気持ちだったからな。正直、いきなり妻として見ろと言われても無理だぞ?」


「妹・・つ、妻とか・・わたしも、早いかなって、ほら・・子供ですし、まだ・・」


「永遠たる妖精族のカルタナ領主が公に認めた間柄だ。おれとおまえは紙の上では立派に夫婦だ。何しろ、かの有名なカルーサス家が帝室にも届けた話らしい」


 いつもと変わらない淡々とした口調で言ってから、不意にトリアンは俯いて服の裾をいじっているシンノの前に片膝をついた。


「・・師匠!?」


「7歳の頃に知り合ったからな。家族を見るような気持ちがあるのは確かだ。正直、カラスがどうとか、きれいに騙されていた感じだしな」


「あ、あれはっ、なんというか・・小っちゃかったから聴き間違えたんですっ!」


 赤い顔をして尻尾を逆立てて騒ぐシンノを見ながら、トリアンは小さく笑った。


「おまえを大切に想っているのは間違い無いが・・・やはり、まだ妻として見るのはなぁ」


「ちょ、ちょっと時間を貰えれば、ばっちり大人の女の子になりますよっ?獣人は成人が早いんですからねっ!もしかして、明日には、ポンッと大人になってるかもですよ?」


「せいぜい期待しておこうか。できれば、おれが年老いて枯れる前にお願いしたいものだ」


 珍しく冗談めかして言いながら、トリアンは宙空へ右手を差し伸ばした。その手に、どこからともなく、白銀色をした鞘に煌びやかな意匠を施された小さな短刀が出現して握られていた。


「昔、母親から聞かされた時は、つまらん作業だと笑い飛ばしていたが・・・」


 トリアンは短刀をしばし見つめてから、両手に捧げ持つようにして、きょとんと目を見開いている銀狐娘に向けて差し出した。


「え・・えと?師匠?」


「これの意味するところは、サイリあたりに訊け。男が妻にと決めた女に渡す・・まあ、儀式のようなものだ」


「つま・・妻っ!?」


 三角の耳と尻尾の毛を逆立てて、シンノがそわそわと影衆の長をうかがい、すぐに銀の短刀へと視線を戻す。

 すぐに思い決めた表情で、きゅっと唇を引き締めると、微かに震える手をそっと伸ばして、小さな手でひんやりとした白銀の短刀を受け取った。


「今は、小っちゃいし、こんなだけど・・絶対に、すぐに大きくなって、ちゃんと大人なレディになるんですから!それまで、ちゃんと待ってくれないと駄目ですよ?よそ見は厳禁ですからね?」


「ふん・・」


 トリアンは小さく鼻で笑って立ち上がった。これで、話は終わりだと言わんばかりの素振りである。


「ちょ・・サイリさん、この刀の事を詳しく!」


 シンノが大急ぎで影衆の長に近づいた。

 涙ぐんだサイリが身を折って、シンノに囁くようにして教える。

 たちまち、銀狐娘の顔が朱に染まった。

 握りしめた銀刀を幼い胸にかき抱き、あくまでも尊大な姿勢の婿殿を見つめる。瞬きしない紅瞳にじっと見つめられて、トリアンはまだ幼い銀狐娘に向き直った。


「シンノはずうっと離しませんよ?」


 銀刀を大切そうに抱えてシンノが宣言した。大きく膨らんだ銀毛の尻尾が忙しく振られている。


「おれという化け物を知って、それが言えるのはおまえくらいのものだ」


「いいえっ、世の中、油断大敵です。なんだか、師匠の周りは綺麗な人ばっかりなんです」


 炯々と煌めく紅瞳が、グレイヌ王女とサイリを等分に見つめ、すぐに今度は上空を旋回する白銀龍のレンカへと向けられる。いずれも、世の美人の尺度を大幅に引き上げるレベルの美貌と肢体の持ち主だった。

 

「断固、阻止です!」


 膨らんだ尻尾が振られる度に、バシン・・バシン・・と、落雷が降り注ぎ始めた。

 すでに、カイナードという国に居ることすら忘れてしまった一行を見下ろし、事情が分からないまま、銀龍の背でレンカが不安そうにシンノの様子を見下ろしていた。


(何か、良くないことがあったのかしら?)


 まさか、"良くないこと"に自分が関わっているとは知るよしも無く・・。


 ともあれ、数万の死人が蠢く廃墟の上空で、略式ながら婚約の儀は成された。銀の短刀は真なる心。男が差し出した銀刀を受け取ることは、女の側が気持ちを受け入れたという証になる。


「さて・・どうであれ、おまえの家族に会いに行こうか」


「・・はい」


 銀刀を抱いたまま、シンノがおとなしく頷いた。


「飛べるな?」


 トリアンはシンノに向かって手を差し出した。


「大丈夫です」


 シンノがそっと手を握った。ちらっと眩しそうにトリアンの顔を見上げて、すぐに視線を伏せる。


「森へ行ってくる」


「行って来ます」


 トリアンとシンノが転移をして消えて行った。


「涙はともかく、鼻水はお拭き下さい」


 サイリが、グレイヌへ手ぬぐいを差し出した。


「だって・・シンノ様、お幸せそうで・・良かった、本当に」


 グレイヌ王女が、目から鼻から色々流しながら肩を震わせて泣いていた。


 カイナード法国が死人の大群に呑み込まれた。

 衝撃の情報が大陸中を駆け巡るまで、まだ少しの時がかかる。


(お二方に逆らったら死罪・・・早く、国法を施行せねば)


 泣きじゃくるグレイヌ王女の背を擦りながら、サイリは二人が向かったであろう樹海の方角を見つめて決意を新たにした。



第一章 < 完 >






 

( 第二章は忘れた頃に、突然やってきます。 by ひるのあかり)

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真っ黒な師匠と銀毛の狐少女 ひるのあかり @aegis999da

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