秋の夜の夢

小鳥遊

第1話

 今でもときどき夢に見るのは月の光に照らされた君の後姿。

 それはとてもきれいな満月の夜で―――


  ***


「ねぇ、ねぇったらぁ。こんな夜中にどこ行くの~?」

 目の前を歩く背中に問い掛ける。

「もう帰ろうよぉ~」

 君は振り向かないで、まっすぐ前を見つめたままそれに答えた。

「も~勝手に付いてきといて…帰りたかったら、一人でどーぞ」

「え~!」

「まだこれくらいの距離なら大丈夫でしょ?」

 言われてあたりを見回す。家を出てからそんなに経っていない。まだ知ってる場所だし君の言う通り僕一人でも充分迷わず家には帰れる、けど、でも…

 う~と唸って、それでも僕は続ける。

「じゃあ、じゃあ、どこ行くのかくらい教えてよ」

「ん、お散歩」

「な、なんでこんな夜おそくに…あぶないよ…」

「今夜は、月が綺麗だからね。ほら。満月」


 高いブロック塀のせいで見通しの悪い曲がり角を一歩先に曲がった君の腕が空に伸びる。その指差した先を見上げると、まるいまるい月が、やわらかな光で夜空を照らしながら浮かんでいた。

「わぁ…ほんとだぁ…」

「ね、綺麗でしょ?」

「うん…!」


 夜遅くに出歩くことなんて初めてだからなんだかドキドキする。しかも家をこっそり抜け出してこんな月のきれいな夜に。

 住宅地を抜けて、交差点を真っ直ぐ。黄色い点滅信号のぼやっとした光が道路に淡く反射を繰り返しながら僕らを見送る。涼しい夜風に吹かれながら、君は、車なんてそーんな来ないって~。と言って、歩道があるにもかかわらず県道のど真ん中を軽やかに歩いていった。月を目指すように。



 しばらく歩くとあたり一面、田んぼが広がる。収穫前の稲穂は月明かりに照らされてさらさらと波打っている。

 稲穂が揺れる音。虫の声。僕らの足音。それ以外、何も聞こえなくて、あたりはとても静かで。静か過ぎて。

 僕は黙って、月に向かって歩く君の後ろについて歩いた。

 僕よりもずっと背の高い後姿は、月の光の中で凛としてどこか、どこかカナシイ感じがした。

 なぜだか分からないけれど、そんな気がした。

 君の悲しそうな顔を見たくはなかったから、だから僕は、君の横に並んで歩くことも、君の前を歩くこともできなくて…。

 ずっとずっと、アスファルトに落ちた君の影を追うように、君の後姿を見つめながら。



 どれだけの時間を君とそうやって歩いたのか、気がつけばもうずいぶんと遠くまで来ていた。

 川の音が聞こえる。水が流れる音が。緩やかな坂を登れば、街の終わりの大きな橋。

 家から離れれば離れるほど、さっきまでのドキドキはだんだんしぼんで、替わりに別の感情が広がる。

 手を伸ばせば君に届くのに、こんなに近くにいるのに、君がどこか遠くへ行ってしまいそうで。君の後姿は消えてしまいそうなくらい儚くて。怖くてたまらなくて、不安で、いっぱいになる。


「…ねぇ…………」

 ぼくはもう泣きそうになるのを必死でこらえて、声を絞り出す。

「なぁに~?」

「あの…………」

「ん?もう疲れちゃった?」

「…うん」

 本当はそんなことはないけど、頷く。家に帰るための理由が、何でもいいから必要だった。

「あ。もしかしなくても眠い?」

「うん」

「ん~、じゃあ仕方ないなぁ~」

 本当に仕方なさそうな声で、くるりと振りかえる。


「そろそろ、帰ろっか」

 君は満月を背に、きれいに笑った。

 僕はその笑顔に少しだけ、安心して、笑い返した。

 ――つもりだったのに、まぶしすぎて涙がこぼれた。それまで必死にこらえていたものがとめどなく溢れだす。

「ちょっ…」

 君は目に見えてうろたえてその白い手で僕の頭を優しくなでる。

 そのまま少ししてようやく僕が落ち着くと、君は僕の手を引いて、もと来た道を戻った。

 行きとは違って、横に並んで、取り留めのない会話を途切れることなくずっとずっと、家に帰りつくまで続けた。

 君の手はひんやりと心地よくて、あの月みたいだと思った。

 冴え冴えと澄んだ、あの月みたいだと…。


 僕らは寝ている両親を起こさないように、そうっと家に忍び込み僕のベッドに潜りこんだ。

 あたたかい…。

「…ってなんで僕のフトンにくるの?!せまいよぉ…」

「まぁ、いいじゃん。今日くらいはさ。気にしない気にしない~」

「や、でもぉ…」

「ほら!もう寝ないと明日起きられないでしょ~?」

 僕はむぅっとふてくされて目を閉じる。

 それでもかなりの距離を歩いたせいか疲労がどっときて、すぐに眠ってしまう。

「おやすみなさい…」

 眠りに落ちる瞬間に、君の声が聞こえた、気がした。



   ***




 はっと目が覚める。また、あの夢。


「姉さん…」


 呟きが、薄暗い空間に吸い込まれる。

 あの満月の夜の翌朝、目が覚めたときにはもう、君はいなくなっていた。

 部屋にも、家にも、街にも、どこにも…。世界から消えていなくなっていた。

 皆で探しても探しても見つからず、そのまま…。

 僕にとってたった一人の姉。8つも歳の離れた。

 消えた理由なんて分からなくて。分かるはずもなくて。分からないまま、僕はいなくなった時の君と同じ年齢になり、そしてもうすぐ、追い越そうとしていた。


 ベッドから身を起こし、カーテンを開けると優しい、ほのかな光が部屋をつつみ込んだ。


 あぁ、今夜は満月か――


 窓を開け、手を伸ばす。

 あのとき君がそうしたように。

 吸い込まれそうな夜空。



 月明かりがどこまでもどこまでもきれいな夜。

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秋の夜の夢 小鳥遊 @kotoriasobi

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