あぢさゐ

あぢさゐ

 とろとろと、浅い眠りから徐々に意識が覚醒していく。辺りは薄暗い。何時もと何ら変わらない光景に、寝起きの頭で先ずはほっと一安心。

 仲間内には、眠っている間に家を壊され死んでいった者もいるのだ。此の世は弱肉強食。姿かたちは愚か、其の能力さえ異なる様々な生物が共存している。うして無事に毎日を生きていられるだけでも、正に奇跡といっていい。

 のっそりと家から出ると、夕べから降っていた雨は止んでいた。湿った空気が心地良い。此の季節は過ごしやすく嬉しいのだが、極僅かのこと。もう少しするとカラッと乾燥した季節が長く続くのだ。其の訪れを思うと、途端に憂鬱になる。

 青紫色の屋根の向こうに見える空は、相変わらず厚い雨雲で覆われている。随分と向こうの方に、晴れ間が覗いているのが見えた。此の分だと、昼過ぎには晴れるだろう。

 家を包み込む色とりどりの屋根も、いま我々が立っている濃緑の地面も、あまり丈夫な素材で出来ているわけではないようで、昨日の雨による滴が上から順に落ちてくると、壊れはしないが大きくたゆむ。ばしゃり、と大きな塊が目の前に落ちてきた。

 衝撃でぐらぐらと揺れる地面が落ち着くのを、振り落とされないようにしがみつきながら只管ひたすら待つ。此れもよくあることなので、今更酔いはしない。其の辺の軟弱な生き物とは違うのだ。

「おう、お早う。今日は随分と行動が早いんじゃないか?」

 ようやく揺れが落ち着いてきた頃、昔から此の辺りに住んでいる、古い付き合いの仲間が声を掛けてきた。先ほど水浸しになった緑の道を、歩きにくそうにして進んでくる。水があると粘着が減るので、滑って落ちやしないかとはらはらするが、流石に相手も慣れているらしく、其の態度は至極落ち着いていた。

「お早う。偶には早起きってのも乙なもんだよ」

「然し相変わらず、此の辺りは安定が悪いね」

「されど安全ではある」

「まぁ、確かにな。此の世には危険が山程存在する」

「分かっているさ。仲間の無残な死を見ただろう、幾度となく」

「外部の力によって、壊された家の破片が、柔らかな此の身に突き刺さって……嗚呼、想像しただけで身震いする」

「あんな死に方は御免だね」

「其れに比べたら、今の生活は幾分ましだ」

「我々は恵まれている」

「どうせ生きられる時間は短いんだ。次の梅雨を迎えることはないだろう。だからこそ身一つで、安全に生を全うするのが一番の幸せだよ」

 そんな会話を交わしながら、互いにゆっくりとした足取りで移動する。時折落ちてきた滴が幾度か地を揺らすが、すっかり慣れたもので、勿論対処は完璧だ。

 また軽く雨が降ってきたようで、心地よい滴が我々の身をしっとりと濡らす。不安定な地を進んでいくと、向こうに何やら人の姿が見えた。

 我々が馴染んでいるのとは違う素材で出来ているらしい、丈夫そうな屋根が一つ。鮮やかな紅色の其れは、丸いような四角いような、何だか可笑しな形をしている。

 二人の人間が、其の下で笑い合っていた。周りは自然に囲まれており、花々を鑑賞しながら楽しそうに何かを話している。

 一人は背が高くがっしりとしていて、もう一人は其れより小柄で丸みを帯びた体型をしている。我々とは異なり、個体別で大きな違いがあるのが気にかかった。

「雄と雌の差だよ」

「オスとメス?」

「雄の方ががっしりとしていて、雌の方はたおやかで丸みを帯びている」

「成程。我々の中にも時々性別を持つ者がいるが、あそこまで見た目に個体差があるのは珍しい。人間ならではだね」

 二人の人間は互いの身体をくっつけ、口を触れ合わせた。「あれが愛情表現だ」と仲間は言う。

「アイジョウヒョウゲン?」

「人間は雄と雌の間でなければ子孫を残すことができないんだ。だから、まぁ……言わば其の、足掛かりのようなものさ」

「七面倒臭いね。自分と異なる性の相手を探さなきゃなんない上に、子孫を残すにも手順がいるってか」

「其れも、雰囲気を高めてからでないと其処まで至れないらしい。先ずは互いが其の気にならないといけないんだからな。流石、我々の何倍も長い生命を御持ちである、天下の人間様は違うよ。何するにも余裕がある」

「其の分、我々なんかは楽だよな。其の辺に同じ種類の奴がいたら、其の場で子孫を残せるし……まぁ、あまり推奨はできないが……此の身一つで子を成すことも可能だ」

「嗚呼。極端な話、今やろうと思えば出来る」

「流石に其れはちょっと……」

「何だい、君。意外と我が儘だね」


 長い時間を掛けて、互いに想いを通じ合わせた一組の男女は、傘の下で幾度となく接吻を繰り返す。

 雨を受け、色鮮やかに咲く紫陽花の下。其の様子を珍しげに眺めていた二匹の蝸牛は、やがて音もなく其の場を後にした。

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あぢさゐ @shion1327

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