星の夜空と泥の海

竜宮世奈

瞼を閉じれば見えてくる、白い灯台と、青い海。

 


 ベージュ色のミニ・クーパーから降りると、冷たい風が頬をなで、その風にのって潮の香りがした。


 水谷菜々子は、車のドアを閉め、スマートキーで施錠をすると、潮の香りがする方へ歩き出した。菜々子が車をとめた駐車場のすぐ隣は、もう海だ。


 軽く盛られた土の上に立つ。


 足元を見下ろすと、すぐ下は砂の斜面になっており、綺麗なさらさらの砂浜が白いヴェールのように横たわっている。その先には、無限の青い海と空の世界が広がっている。


 季節はもう冬だというのに、黒いウェットスーツに身を包んで海水に浸かるサーファーの姿が見える。


 見てるだけで寒くなるよ。


 菜々子は少し身体を震わせ、首に巻いたマフラーで口元を覆った。それでもなお、菜々子は海をじっと見つめ続ける。その海原の向こうに、大事な落し物を探すみたいに。



 大きな海を挟んだ向こうには、陸地が見える。知多半島だ。ここは、愛知県の最南端、渥美半島の先端、伊良湖岬。そこに、少し荒い海の風を受けながら、水谷菜々子はひとりで海辺に立っていた。青くきらめく海、白い鳥、高く透き通る冬の空、あの頃は何もかもが輝いて見えたのに、今では全ての景色が色彩を失ってしまった。



 彼とここに来たのは、ちょうど1年前の、少し肌寒くなった時期だった。波を立てる海や、大きな風力発電のプロペラ、海沿いの道の駅やフェリーの発着場など、あの時と全く変わらずそこに存在している。その変わらない景色は、菜々子の心を幾分か安心させた。そして、切なくもさせた。



 1年前ここに来た時は、彼の車だった。


 私が助手席に座り、彼がハンドルを握る。彼が海を見たいと言い出したので、折角だから愛知県の先端まで行こうと、伊良湖岬へのドライブデートとなった。名古屋から、有料道路を使っても2時間以上はかかる、短くないドライブだった。お互いに音楽の趣味が一緒だったので、好きな曲も聴けるし、彼のとなりにいられるということもあって、長い距離も気にはならなかった。運転手である彼も、車が好きで運転が好きだったので、長時間の運転に疲れるどころか、終始楽しそうにハンドルを握っていたのを覚えている。


 高速道路を走り都心部を抜け、国道のバイパスに出る。南下するにつれて、次第に周りの建物の密度と高度が下がっていき、緑が増え、田んぼが現れ、そして山の中に入る。


 山に入る前に、どこかの道の駅に寄ったっけ。そこで少し休憩し、抹茶のアイスを食べたような気がする。寒くてもアイスは食べたくなるものだ、と彼は笑って言っていた。


 山を越えてもまだ海は見えてこない。暫くは街中を通るので、平凡な街並みが続く景色と、車の心地よい揺れも相まって、少しウトウトしてしまった。でも、突然現れる勾配の急な坂の道を越えると、なんの予告もなく、太陽の光を反射させて、まるで一面にラメが散りばめられたようにキラキラと輝く青い海がその姿を現す。


 突然現れた青い海に、一気に気持ちが昂る。あまり海を見る機会がなかったわたしは、そのなんでもない海の景色が、とても特別な、普段住んでいる世界とは全く別の素晴らしい世界に入ってしまったような感じがした。


 海のそばには大きな観覧車が見える。ラグーナテンボスというテーマパークだ。冬になるとイルミネーションも開催しており、彼に連れてってと頼んでいた。今では、その願いは叶うことはなくなってしまったけど。


 そこで見た海は、三河湾といって、知多半島と渥美半島に挟まれた湾だ。マップ上で見る愛知県を恐竜の形に例えると、ここのラグーナがある場所は恐竜の腹の部分に当たる。目指す伊良湖岬は、恐竜の足の先、つま先部分。目的地はまだ遠い。ドライブは続く。



 三河湾をぐるっとまわり、渥美半島に入る。


 渥美半島に入ってからは、一旦、海が遠ざかる。比較的自然が多い下道を進んで行くと、めっくんはうすという可愛い名前の道の駅が現れた。道の駅を見つけるとすぐに寄りたがる彼は、案の定めっくんはうすの駐車場に車を止め、ちょっと休憩しようと言った。


 渥美半島にある田原はメロンが名産で、お店の中にはメロンが沢山並んでいた。彼はここでホットの缶コーヒーを買って、わたしはホットミルクティーを買った。彼に缶コーヒーを一口もらったけど、コーヒーの美味しさというのはあの時のわたしにはまだ分からなかった。



 めっくんはうすを過ぎると、いよいよ建物は減っていき、視界の大半を緑の自然が占める景色に変わっていく。建物は道路沿いにポツポツと存在するが、その中にはもう人が住んでいないまま放置された、廃墟になってしまった建物も多い。彼は廃墟が好きだという変わった趣味をもっており、その廃墟が立ち並ぶ光景を、目を輝かせて眺めていた。わたしには、その廃墟たちは気味が悪いだけだった。


 そして、緑の道を抜けると、道路は海岸沿いを走るようになり、青い海原との再会になる。道路沿いに植えられたヤシの木が、いかにも海らしい雰囲気を演出する。海と言えば夏だけど、高く澄んだ冬の青空に見る海も、とても綺麗に思えた。


 その美しい海岸通りを進んでいくと見えて来るのが、波をデザインしたような外観の2階建ての道の駅、伊良湖クリスタルポルトだ。その道の駅の前に広い駐車場があり、そこに車を停めると、すぐ目の前にある海に向かう――のではなく、例のごとく彼は道の駅に入って行った。


 道の駅の中に入ると、まずはお土産物コーナーが現れる。そこは他の道の駅と一緒なのだけど、この伊良湖クリスタルポルトはフェリー乗り場にもなっており、フェリーを待つお客さんの姿も見られる。また、下の階に行くと、やしの実博物館という展示施設もある。椰子の実から人骨まで様々なものが展示してあり、若干カオスな雰囲気が味わえる。


 正面のエスカレーターで1階に降りるとゲームコーナーがあり、レトロなゲーム機が置いてあった。彼は懐かしいと言って喜んでいたが、わたしは知らないものだった。でも、クレーンゲームの中の景品のぬいぐるみが、わたしが幼稚園の頃に流行った、かなり流行遅れのアニメのぬいぐるみだったのにはふたりで笑ってしまった。ここはまるで、時間が止まってしまっているようだ。



 菜々子は、今、ひとりでクレーンゲームの前に立っている。クレーンゲームの景品の中には、今流行っているゲームアプリのキャラクターのぬいぐるみが並んでいた。あの時見たぬいぐるみはもう、そこにはなかった。



 道の駅を出ると、海沿いの遊歩道に向かった。石のタイルが敷かれた綺麗な路面に、路肩には様々な形をした岩が整然と並んでいる。左手は山ですぐ崖になっており、右手には路肩に並べられた岩、そしてその岩を越えるとテトラポットが組まれており、すぐそこは海になっている。眺めは良いが、風が強く、肌寒い。わたしは、ぐっと彼の腕に抱き着いた。


 遊歩道を暫く歩くと、この伊良湖岬のシンボルとなっている真っ白な灯台が見えてくる。この辺りが、愛知県のつま先、渥美半島の先端になる。ここでわたしはスマホを取り出し、灯台をバックにして彼とふたり並んで写真を撮った。


 笑顔のわたしと、少し恥ずかしそうに笑う彼。スマホの液晶画面の中のふたりは、幸せそうに微笑んでいる。しかし、となりに彼の温もりはなく、冷たい風が菜々子の心と身体の温度を奪っていくだけだった。


 灯台を過ぎると、ココアパウダーを振りまいたような、綺麗な砂浜が見えてくる。恋路ヶ浜だ。恋人の聖地とされており、砂浜の向こうには、永遠の愛を誓う鐘なんていうものも設置されている。その鐘のすぐ傍には、願いの叶う鍵という、カップルで名前を書いて鍵をかけると結ばれるという、よくあるモニュメントもある。


 彼がいなくなってしまったのは、鍵をかけなかったせいなのかな――なんて考えると、あの時無理やりにでも恥ずかしがる彼に名前を書かせ一緒に鍵をかけておけばよかったと、思ったりもする。


 その時、ふと、鐘の音が鳴り響いた。菜々子が顔を上げると、永遠の愛を誓う鐘を鳴らす大学生と思われるカップルがいた。とても仲良さげに寄り添いながら、笑い合っている。菜々子はそこから離れ、また砂浜の方に歩き出した。そして、砂浜に半分埋もれている大きめの石に腰を下ろした。波打ち際で、はしゃぐ子供とそれを見守る親の姿が見える。穏やかに、時に激しく押しては引いていく波。その動きは、永遠に続いていくように見える。そう、あの頃は永遠があると思っていった。しかし、永遠なんてものは、存在しない。この波だって、いつかは途切れるのだ。菜々子の目から、流れ星のように、一筋の光がこぼれ落ちた。それは、誰にも気づかれる事はなかった。


 波の音を聞き、途方もなく続く水平線を眺め、長い間、そこにいた。目の前を、何組かの家族連れやカップルが通り過ぎた。ふと気が付くと、青かった海は朱色に染まってきている。


 もう帰らなきゃ。


 家に着く頃には、真っ暗になってしまう。夜の運転は、まだ苦手だ。


 石から立ち上がり、後ろを振り返る。海と反対の山側には、大きめの駐車場があり、その奥には2階建の縦長なお土産屋さんや食堂が可愛らしく並んでいる。確か、あの時は、右から2番目のお店に入り、おおあさりとラーメンを食べたっけ。それを思い出すと、急に空腹感が湧いてきた。しかし、お店には寄らず、菜々子は遊歩道に戻って行った。


 灯台のところまで戻ってくると、熱く燃えるガラス玉のような太陽が朱く染まった海に姿を消そうとしていた。灯台の前で、夕日を見ながら寄り添っているカップルがいる。菜々子は、灯台の後ろで海に溶けていく太陽をじっと眺めていた。灯台が、黒いシルエットになり、朱い空に浮かび上がる。菜々子の前を、小型犬を散歩させている女性が横ぎった。夕日の朱が、菜々子の心にしみる。傷口に薬品を塗った時みたいに、菜々子の心はじんわりと痛んだ。


 道の駅、クリスタルポルトまで戻ってくると、菜々子はお店の前に設置してある自動販売機でホットの缶コーヒーを買った。


 缶コーヒーを自販機から取り出し、両手で包み込むように持つと、冷えた身体をほんのり暖めてくれた。菜々子は缶コーヒーを持ったまま、車のもとへ向かった。広い駐車場に止まっている車はもうまばらで、菜々子のベージュ色のミニ・クーパーはすぐに見つける事が出来た。


 菜々子はミニ・クーパーのそばまで来ると、車には乗らず、その後ろの縁石にゆっくりと座った。そして、コーヒーの缶をそっと頬にあてる。気が付くともう、辺りは真っ暗になっていた。菜々子は、缶コーヒーのフタを開け、一口飲んだ。


 美味しい……せっかく飲めるようになったのにな。


 ぽっかりと口を開けた缶コーヒーのフタを見つめていると、突然目の前が明るくなった。見上げると、道の駅の建物が、白と青の鮮やかな光に包まれていた。冬のイルミネーションだ。


 もう、そんな時期なんだ。


 道の駅は光の装飾に包まれ、入り口の前のスペースには、波の上にフェリーと灯台の形がデザインされたイルミネーションが可愛らしく輝いている。キラキラと鮮やかな光りを放つイルミネーションは、氷のように冷たく、とても空虚なものに見えた。


 菜々子は立ち上がると、ドアのロックを解除し、車に乗り込んだ。飲みかけの缶コーヒーをドリンクホルダーに収め、エンジンのスタートボタンを押す。鮮やかな赤い光が、メーターを照らす。オーディオから、アコースティックギターのイントロが流れ始める。徐々にスネアドラムの連続的な音が響いてくる。菜々子は、ゆっくりと車を前進させ、道の駅を後にした。


 彼女を乗せた車は走り続ける。


 もう決して見る事が出来ない景色を探し求めて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星の夜空と泥の海 竜宮世奈 @ryugusena

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ