前編 ③揺れる思い


「お前、マラプロピズムって知ってるか?」


 ミキが唐突に尋ねる。


「知らない。」


「喜劇的に似たような言葉を言い間違える事なんだけど……。」


「キシレンをキセノンって言い間違えた事ならあるよ。」


「それが時に深刻な事態を引き起こす原因と考えられてる。」


 ルカがウィンカーを出してスタンドに寄った。


「っしゃーせー!」


 店員の大きな声が響く。車が停止位置にくると、すかさずミキが早口で連呼した。


「ハイレグまそりん元旦、ハイレグまそりん元旦、ハイレグまそりん元旦!はいっ!」


 店員が運転席側のドアを開けた。ルカが注文する。


「ハイオク満タンで。」


「ハイオク満ターン!」


 店員の声が響き渡ると、ミキが体を小刻みに震わせながら笑いを堪えていた。


「この車、レギュラーだけどね。」


「!」


 後ろを振り返ったと同時に、給油口にノズルが刺さる音がした。


「全っ然っ、関係ないじゃん!手持ち少ないって言ってるだろ!」


「俺だって満タンにしろとは一言も言ってないからな。」


 ミキは腹を抱えて笑い続けた。





「先程のアクセスはブロックリストに追加されました。」


「違う……二度と同じ手なんか使ってこないと思うわ……。」


 少女はどこか落ち着かない様子で、左手の親指を唇に当てながら、体を丸め込むように椅子に腰掛けていた。ただ単に揺さぶりをかけられただけなのか、何を考えるべきかが定まらず、イラつき始めていた時、初老の男性が報告を受けて少女の居室を訪ねてきた。


「ハッキングなんて珍しい事じゃない。わざわざやりましたって言ってくる人が少ないだけで。プログラムは動作してる。システムに異常はない。大事は起こってない。」


「ヘンリー……。」


「そろそろだね。少し休養を兼ねてまた旅行でもどうかな。まだ君にはやってもらいたい仕事があるからね。」


 少女は最も聞きたくない言葉が続くとわかって、目を閉じて顔を背けた。





 業務を終えて自室に戻ると、少女は洗面台の鏡の前で、じっと自分の顔を見つめた。意図はわからないにしても、覚えていてくれた事だけは確かだった。何度も何度も回想を重ねては、ため息をこぼした。


 髪を纏めて何通りかの髪型を試してみた。クローゼットの衣装を確認しようと、扉を開ける手前で我に帰り、扉に手をついたまま、床に座り込んでしまった。目を閉じて鏡台に収納された化粧品を思い浮かべては、首を横に振ってため息をついた。


 気を取り直してシャワーを浴びようと、着替えを取るためにクローゼットを開けるが、手持ちの衣装の組み合わせばかりを意識してしまい、支度が進まなかった。


「いかにも過ぎてもアレだし……。」


 新しい服を見に行く手配を考えた瞬間、飛び出した自分の言葉に再び我に帰り、何をしようとしているのか考え出してしまった。


「いかにもって何よ……。」






 7月4日 月曜日 午後2時


「……このように、ユーザーを獲得してから更新を悪用して一斉にアプリケーションを有害化させる手法の増加が予測される問題点についてですが、ご助言頂ければと思いまして……。」


「…………。」


 女性がモニターを使って資料の説明をしていたが、少女は頬杖をついたまま遠い目をしていた。


「クイーン?聞いてますか?」


 女性の問いかけにハッとして少女は聞き返した。


「ごめんなさい、もう一度いいかしら?」


「……だいぶお疲れなんじゃないですか?今日はもう、お休みになられては……。」


 少女は長い空白の時間を埋める会話をごちゃごちゃ妄想していた自分が恥ずかしくなって一瞬顔を伏せたが、気を取り直して表情を引き締めた。


「大丈夫よ。もう一度聞かせて。」


「それ、何度目だと思います?」


「……え?」


 女性は冗談のつもりで聞いたが、少女は完全にわからなくなっている様子で、考え込んでしまっている姿を見て、ただ事ではないと判断した。


「また日を改めて参りますので、今日の所はこれで失礼します。」


「…………。」


 女性は少女の部屋を退室すると、直ちに上役へ電話連絡を入れた。


「……私です。クイーンの様子で気になる点がありましたので、ご報告申し上げます。回路か伝達に支障をきたしているようで……。」


 女性の報告が遠ざかっていくと、少女は恥ずかしさが抑えきれなくなり、大声をあげた。


「なんなのよ!もう!!」





 7月5日 火曜日 午前1時


「失礼します。」


 ルイスが少女の部屋を訪ねた。少女が呼び出していた。


「……24時間だけ、私と契約してくれないかしら。24時間だけでいいの。」


「…………。」


 ルイスもすぐに答えることが出来なかった。少女の様子がおかしいと報告を受けていて、警戒するよう、通達が出ていた。少女は食事を摂らない日が続いていて、パフォーマンスが著しく落ち、自室に籠る日も増えていた。


 少女はベッドの上で膝を抱えながらルイスに問いかけた。


「あなたにもある?忘れたい訳でもないのに、ずっと同じような事ばかりがちらついて何も考えられなくなる事。何も手につかないのよ。どうかしてるわ……。」


「所在がわからなくなるのは困ります。」


「所在がわかれば時間帯は問わないと解釈していいのかしら?」


 ルイスは少女の言葉を理解したが、少女の状態を案じた。


「……必ず戻ると約束してくれますか?」


「あなたの迷惑にはならないようにしたいわ。薬の調製を頼みたいの。研究機関に予約を入れて。どこかおかしいのよ、私。用事が済んだら検査に行くわ。そしたら、ヘンリーが選んだイギリス人にも会うから。本気よ。ヘンリーにはそう言って。」


「……まず、あなたへの警戒を解かなくてはなりません。明日は食事がとれますか?」


 少女はルイスの進言を受け入れた。


「ごめんなさい。わざとじゃないの。努力はするわ。」


 少女は指先をいじりながら消え入りそうな声で言った。


「お願いよ……一度きりでいいの……。」


 ルイスは少女の肩に手を置くと、YesともNoとも言わずに部屋を出た。



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