プロローグ ④彼女の事情


「忘れるってどんな感覚ですか?」


 ルカは少女の思い詰めたような表情を見なかった振りをして、勢い良く言い切った。


「そんな事!超簡単!誰でもできる!」


 少女は呆気に取られた顔をした。


「ミキは頭切れるけど、時々超バカやらかすんだ。あいつ、自転車乗ってて突然吹っ飛んだ事があって……。」


「???」


 少女が何の話かと思っていると、ルカがゲラゲラ大笑いし始めた。


「スポークがバリバリバリって外れてガッシャーン!何が起こったのか解らなくて……大丈夫かって聞いたら……超真剣な顔で……ブレーキより強烈な制動がかかって、ビタッと止まれるんじゃないかと思ったって……走ってていきなり前鍵さしたんだよ!」


 ルカは指で前鍵がささる様子を作って見せた。ルカの笑いは止まらなかった。少女も物理の法則を無視したあまりに無謀な試みの結果、勢い余って宙を舞う姿を想像すると可笑しくなってきてしまい、吹き出すように笑いだした。


「あいつ、弁当屋でバイトしてて水加減間違えたらしくて、ご飯がべちょべちょに炊けたんだ。何を思ったのか謝ればいいのに、勝手に店閉めてごみ袋に詰めて、やべぇ!処分してくれ!!ってサンタみてぇに担いでウチに持ってきた事あるし!」


 ルカの勢いは止まらなかった。


「俺もある!チラーってわかる?冷却水循環させて冷やす装置。つけても水量足りないから何か詰まったんじゃないかっつって、逆流させる事にしたんだ。それは良いんだよ。


インとアウト逆にして流路に詰まったゴミ出すのかなって思ってたら、ポンプの出口にホース突っ込んで蛇口捻るもんだから、ブッシャー水しぶき上がって、辺りビッチョビチョ!!ポンプの向きは変えてないんだから、そこじゃないだろ!みたいな。


そしたら、チラーから水が出てるか確認した方が良いとか言い出して、俺、違うって止めてんのに、出口に繋いだホース外したまま、いきなりポンプのスイッチポチーで噴水!1メートル位、水が噴き上がってさ、もうコント!全員頭から水被って、オッサンだらけの水浴び大会。誰得!?みたいな!」


 ルカは失敗談を話して聞かせ、二人は笑い合った。少女の表情が和らいだ事を確認すると、ルカは安心して語り始めた。


「どうでも良くなったでしょ?」


 ルカの言葉に少女はハッとした。


「これを忘れたって言うんだ。何かに夢中になっている時は、どんな事も忘れていられる。大好きな事とか、夢中になれる事で頭を一杯にしておくんだ。」


「!!」


 ルカは自分の頭を指さしてみせた。少女にとってその言葉は衝撃的なものだった。少女はしがみつくようにルカのシャツを握った。


「寒い?」


「いえ、私、どうしても言えなかった事・・・・・・・があって……。」


 言葉に詰まる少女を庇うようにルカは言った。


「……大丈夫だよ。かなり怒られるだろうけど、理由があったんだろ?時間をかけて答えを出すことだと思うよ。人生、本気で変えようと思ったら、意外とどうとでもなるから。」


 ルカが少女の背中に優しく触れた瞬間、後ろからミキの声がした。


「ルカ!彼女から離れろ!」


 何やってんだと思いながらルカが振り返ると、知らない男がズカズカと接近していた。ミキを拘束した男だった。


「ルイス!」


 少女が叫んだ。ルカは何が何だか解らないうちに胸ぐらを掴まれた。


「お前は自分が何をしたか解ってるのか!?」


「やめてルイス!」


 少女は必死にルイスを止めようとしたが、男の態度にルカにも火がついた。


「お前らがそんなんだからこいつが飛び出すんだ!そんなに大事なら何で守ってやれない!?大人ってのは決めつけることしか出来ないのか!こいつが何をしようと苦しんでいたか、解ってやろうとはしたのかよ!?」


 おろおろして何も言えない少女を見て、ルカは少女にも言い放った。


「バカ!お前が言うんだ!お前が自分で言わないからこうなる! 」


「彼女の身に何かあったらどうするつもりだったんだ!お前に責任が取れるのか!」


「あー、あー、そうですか。一日一緒にいましたからね。さあ、どうだったかなぁ。」


 ルカがあからさまな挑発に出て、ミキに緊張が走った。


「よせ!ルカ!」


「やめてルイス!彼らは私を案内してくれただけよ!」


「あなたもあなただ。何だってこんな事を……。」


 ルイスはルカから手を離し、少女の腕を掴んだ。少女が腕を引っ込めようとしたのを見て、ルカがルイスの手をはたき落とした。


「だから、何で無理矢理なんだよ!折角帰るって言い始めたのに!これだから大人は嫌なんだよ!!」


「ルイス、待って!」


 少女はルイスの両腕をおさえた。


「帰ります。少し時間をちょうだい……。」


 少女は手を離し、ルカの手を取った。


「今日は、本当に有難うございました。本当に、本当に、有難うございました。」


 そう言うと、少女はルカの両頬にキスをした。


「俺もいいかな?」


 ミキが右手を差し出すと、少女は両手で包み、頭を下げた。


 窓越しに手を振る少女を見送ってから、ルカとミキはゆりかもめで帰る事にした。時刻は夜8時を回ろうとしていた。





 言い訳も何も口にしない少女にルイスは困惑していた。


「観光がしたいなら予め言って貰えれば考えます。万が一危険が及んだ場合は問答無用であなたを撃たなくてはならないんですよ?何かあってからでは取り返しがつきません。ご自分の立場を忘れた訳ではないでしょう?」


「……忘れた・・・。」


「!?」


「忘れたわ。」


 車窓を眺める少女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。





 ミキは直接土浦に帰ると言い、新橋でルカと別れた。ルカは何が起こったのか整理がつかないまま、ぼんやり電車に揺られていた。ルカにミキからの着信があった。貼られていたURLを開くと、知能研究の論文やニュースだった。それらは良く解らなかったため読み飛ばしたが、最後の記事が目に止まった。


記事は最近話題の忘れられる権利に関連したものだった。そのプログラムは世界一長いスパゲッティプログラムで、その難解さからアリスプログラムと呼ばれ、その研究チームの写真には、彼女の姿は無かった。



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