スレイヴ・トゥ・ザ・リズム

及川盛男

スレイヴ・トゥ・ザ・リズム

 いつの間にか、季節は秋になっていた。一体いつから秋が始まっていたのか、それは誰にも分からない。明確な区切りが存在するものではないし、温暖化か何かのせいか夏と冬の境目はどんどんぼやけてきている。ましてや、日々の移ろいに目を向けていない宏樹のような男に、気づけるわけがないのだ。

 宏樹は公立高校に通っている。それなりに偏差値は高いため、地元ではそこそこ名の通った学校ではあるが、地元の外から見れば隣の学区にある全国的な進学校の陰に隠れている。そのことを知っている宏樹にとって、その高校の生徒であることは胸を張って主張できることではなかった。駅で隣の学区の高校の制服を着た生徒を見るたびに、宏樹は考える。あの高校に通っていたなら、一体どうなっていただろうと。定刻通りに到着した各駅停車の車両に乗り込む前から、宏樹の心は揺れていた。

 

 宏樹にとって、日常は作業だ。登校は決まった時間に決まった場所を歩き、決まった乗り物に乗る作業だし、授業は決まった教室で決まった授業を受ける作業。家に帰れば大量に出される宿題をこなさなければならず、結局行動は規制される。中学の頃通っていた塾で「隣の学校は自主自学の精神から、宿題はほとんど出されない」という話を聞かされていたので、宏樹はその山積した宿題に相対するたびに暗い感情に包まれる。宏樹は、日常の些事にいちいち劣等感を覚える自分に、コンプレックスを抱いた。

 

 斜に構えた彼は、しかしこの世のすべてを作業と見なすことはしなかったし、したがらなかった。宏樹に言わせれば本来、高校生の手が届くような行動はすべて決まった行為に過ぎないはずなのだが、彼はそのすべてを作業と呼ぶことはなかった。どころか、彼はそのうちの一部に憧れを抱いていた。彼にとって「作業」という言葉は、自らが送る単調な生活に対する自己嫌悪のための言葉で、そして同族嫌悪のための言葉だった。

 スクールカーストという言葉がある。学校のクラス内における階級序列の構造のことだ。宏樹は決して最下層に属しているわけではなかったが、下から数える方が早いのは間違いなかった。しかし上位カーストだからといって彼はそれを羨んでいるわけではなく、逆に下位だからといって蔑んでいるわけでもない。彼が羨むのは、日常を自主的に生きている人々だった。クラスの人気者といつもつるんでいたとしても、その人が無理をしているように見えるならば、同じ「作業」に囚われた人間としてある種の同情を向けていたし、逆にクラスの誰とも交流の無いような人でも、ひたすら何かに没頭できているようならばそれは「作業」ではなく、羨望の対象だった。

 いっそ虐めに合っていたならば、思い切った行動に踏み切れたかもしれない。しかしなまじ日常の安全が保障されているがために、彼は勇気を持てなかった。変化を起こす勇気は、臆病さという殻を捨てて初めて得られる。宏樹は現状維持の魅力に囚われていた。

 

 水曜の三時間目は世界史の時間だ。話の面白い先生の授業だったが、ある日近くの席の人が先生の話の元ネタとなっている本を探し出してきて触れ回っていたのを見て以来、宏樹はこの授業への興味を失っていた。クラスの一部から向けられる冷めた視線にも気づかないで、その教師はスペインがインディオや黒人奴隷に科した酷い仕打ちを、まるで自分が見てきたかのように語った。

 休み時間、クラスの女子が誰かに言った。

「奴隷って酷いよね。人間が人間を奴隷にするって、怖すぎるよ」

 それにもう一人が応える。

「でも奴隷って解放されてるんだよね、リンカーンの奴隷解放宣言? でさ」

 そんな話を聞きながら宏樹は思った。人間が人間を奴隷にするならば、人間が自らの意志で解放することができる。だが、もし人間以外の存在が人間を奴隷にしたならば、そのとき人間を解放できるのは、はたしてなんなのだろうか。


 彼はその日も、特別なことは何もせずに終えた。彼は思った。すべては画一化された作業だった、と。一日分老いたこと、それが唯一の変化のように思えた。大量の宿題にようやくけりを付け、宏樹はシャープペンシルを机に放り投げた。クソッタレの自称進学校が、宏樹はそう悪態を吐いた。だがそう言ったところで気が晴れることはなく、どころかそこに所属しているということを再確認してしまい、一層惨めさが押し寄せた。布団に横たわり今日を、昨日を、これまでを思い起こした宏樹は、何も変化の起きない日常に安心を覚えつつも、急に泣き叫びたくなるような気持ちに囚われた。今までが情けなく、これからが怖かった。それは宏樹を時折襲う、感情の荒波だった。でも次の瞬間には、自分のその様子の滑稽さを自覚して平静を取り戻し、そして五分もすれば彼は寝息を立て始めた。


 宏樹の一つ上の代の学年から、体育の授業でダンスが必修化された。夏休みが明けてしばらくはサッカーだったが、その日、つまり木曜日の五時間目からはダンスの授業が始まった。

 宏樹はダンスが苦手だった。昨年文化祭のステージで見たダンス部のパフォーマンスが原因だった。笑顔の少女たちが一糸乱れない踊りを披露する様子に、体育館に集まった全校生徒は湧いた。しかし宏樹だけは、それを恐怖をもって眺めていた。彼にとって、定められた振り付けを機械的にこなしていくだけのそのダンスは、変化のない日常を連想させるものだった。そのダンスは、音楽というよりも単調なリズムに合わせているだけのようにも感じられた。どれだけ正確に振り付けをなぞることができるかという競技にすら見えるそれの先にあるのは、北の国のマスゲームなんじゃないか、とすら思った。そう考えると、笑みすら能面が浮かべるそれと同じようにも見えた。

 

 音楽は軽快で気持ち良いし、踊ること自体は良い運動になる。お手本のビデオを見せられた後の練習時間で実際に体を動かしてみて、宏樹は予想外の爽快感を覚えた。踊ることそれ自体は、それほど悪いことではないかもしれない。軽く汗ばみながらそんなことを考えたとき、先生から声を掛けられた。

「山下、そこは右手じゃなくて左手を振るんだぞ」

 宏樹は顔をしかめた。折角ダンスに新たな気持ちを抱きつつあったのに、先生の指摘は彼の思いを後退させた。無言で宏樹が俯くと、先生は言葉を続けた。

「グループで踊るわけだから、全員がピタッと同じ動きをできるように練習しとけよ」

 そのまま先生は、宏樹のグループのメンバーたちにも指導する。ここは足をもっと開け、そこは腕を曲げるな、左右が逆だ。五時間目が終わる頃には、曲のサビ前の部分については全員の動きが揃うようになっていた。それを見て先生は満足げな顔を浮かべた。

 

 放課後になった。そしてそれは彼の学校の多くの人々にとって、非日常が始まったことを意味する。年に一度の文化祭が、来週末に迫っているのだ。どのクラスも終礼が終わり先生が去るなり机を教室の端へ寄せ、教室を飾るための張りぼてや絵を作ったり、劇の練習をしたり、ほかのクラスを偵察しに行ったりと、てんやわんやの騒ぎを起こしていた。宏樹のクラスも例外ではなく、クラスのトップカーストの連中や文化祭実行委員会の手先などが中心となって劇の準備を進めていた。

 宏樹はそんなクラスを尻目に、カバンを持って教室を出た。彼に充てられた役割は、劇本番のときの暗幕の開け閉め、それのみだった。それとて暗幕が完成しない限り練習のしようが無い。一度段取りを確認するために劇の練習に同席したことがあるが、何をするわけでもなくぼーっと練習を見る宏樹に対し、演技指導に夢中になった演劇部の女子生徒が「邪魔、気が散るからどっか行って」と言って以来同席は諦めた。幸い台本は渡されていたので、宏樹はそれを頼りにタイミングを把握するしかなかった。買い出しは自転車通学の人が行うことになっていたし、美的センスに欠けた宏樹には装飾班を手伝うこともできない。彼の帰宅は、暗黙のもとに了解されていた。クラスの誰とも話さない男子生徒が、廊下で大きなポスターに美しい月の絵を描いている様子から目を逸らして、宏樹は下駄箱へ急いだ。


 肌寒くなったその日、宏樹の家はその秋初めて湯船に湯を張った。半年ぶりに浸る湯の暖かさに体を任せながら宏樹が考えたのは、ダンスの授業のことだった。全員が振り付け通りに踊れば上手くいく。そして自分もそれに従えば安全。それが分かっていて、振り付けから外れる道理があるだろうか。加えて宏樹はステージの上で、一人で踊る技術も勇気も無い。ならば彼には初めから、振り付け通りに踊る以外に選択肢が無い。例えそれがどんなに退屈で、作業じみていたとしても。大きな水音を立てて湯船から立ち上がった。体の火照りはすぐに冷めた。


 宏樹の高校生活は無い無いづくしだ。友達は居ない、彼女なんて勿論居ない。部活にも入ってないし趣味もない。目標も、夢も、希望もない。そんな中、金曜日の放課後、宏樹がポケットの中で絡まっているイヤホンコードを解くことに躍起になっていたときに、ふとどこからともなく流れる音楽の発生源を目で追ったのは、彼の高校生活において初めて訪れた幸運だった。

 下駄箱から出てすぐ、昇降口の向かいの会議室が、音楽の発生源だった。中を見れば、軽快なメロディに乗せて動くいくつもの人影が見えた。瞬間、彼は気づいた。「ダンス部だ!」と。彼は咄嗟に目を逸らそうとした。この学校のダンス部は女性部員しか受け入れていない。女子生徒がラフな格好をして汗を流している様子をのぞき見している姿が、他人の目にどう映るか、宏樹は理解していた。


 けれど、宏樹の視線は何かに引っかかった。踊るいくつもの人影、その一角に目が止まった。吸い込まれるように向けられた視線の先には、一人の女子が居た。彼女は、ダンス部のユニフォーム代わりのジャージを着て、周囲の部員たちと一緒に音楽に合わせて踊っていた。それは別に、特別なことをしているわけではなかった。小柄な彼女は、他の部員と全く同じ振り付けで踊っていた。それでも、宏樹はなぜか彼女から目を離すことができずに、口を半開きにしながら彼女の踊る様子を見ていた。幸いなことにその曲はそれから三十秒ほどで終わり、ダンスが終わった途端宏樹は魔法が解けたように彼女以外の物が目に入るようになり、慌てて帰路へと就いた。


 いつもはイヤホンを付けて歩く帰り道だが、宏樹はその日イヤホンを付けなかった。絡まったままのイヤホンはポケットに突っこんで、宏樹は駅から自宅への道をゆっくりと歩いた。雲は数えるほどしかない青空だったが、日差しは昨日に比べれば穏やかだった。それはなんとなしに起こした行動だったが、期せずしてそれは宏樹に驚きをもたらした。さわやかな秋風が体を撫でていくのが分かった。今までだって、昨日や一昨日だって、これくらいの風は当たっていたはずなのに、それは新鮮に感じられた。空も青い。夏の、眼が痛くなるような濃い青空ではなく、微かに白みがかった水色の空。普段の帰り道では聴覚ばかりに支配されていた脳が、五感すべてに解放されていくのを宏樹は感じた。それを感じた上で、改めて聴覚に意識を集中してみると、秋の虫たちが色々な音を奏でているのに気づいた。寝る前には睡眠を妨げる騒音にしか聞こえない音だというのに、こうして秋の空気に包まれていると、それも秋を彩る存在の一つに感じられた。


 週明けの月曜日の放課後、宏樹は玄関で再び音楽を聞いた。笛吹き男の音に誘われるように、宏樹はふらふらと会議室へと向かっていった。

 先日ダンス部の練習姿を見て以来、宏樹はその様子を忘れることができないでいた。休日の間も、授業中も。それまでダンスを忌み嫌っていた手前、どうしてダンスなんかを、と自分に毒づくこともあった。それでも、彼はあのとき見た一人の少女のダンスに、心を囚われていた。

 数メートル離れたところから中を覗き、あれ、と宏樹は首を傾げた。失礼な話ではあるが、宏樹はそこで踊る少女たちの姿に、この前ほどの魅力を感じなかった。それもそのはずで、そこにあの小柄な少女の姿は無かったのだ。宏樹は拍子抜けした。そうとなれば、リスクを冒してまでそこに居座る理由は無かった。そう思い、帰ろうとしたそのとき。

「あの」

 後ろから掛けられた声に、宏樹は凍り付いた。


「……え」

 平静を装って応えようとした結果出たのは、うめくような声だった。ゆっくりと振り向く。そこに居たのは、小柄な少女だった。そう、宏樹があのとき見惚れていた少女だった。彼女は探りを入れるように宏樹をじっと見て、言った。

「何、してるんですか」

「え、いや、その……」

 終わった、と宏樹は思った。何事も起きなかった高校生活。それは退屈で鬱屈としてはいたが、しかし事件も起きはしなかった。だがどうだろう、こうして行動を起こしてみれば、事件もまた起きてしまうのだ。

「もしかして」

 そう言われて、宏樹は俯き、目をギュッと瞑った。まるで、死刑宣告を受ける被告人のように。


「……入部希望の方ですか?」


「……は?」

 暫し彼女の言葉を咀嚼し、宏樹は間の抜けた声を出した。

「そうだったらすみません、今発表の直前なので、新入部員の受け入れは……」

「い、いや、違います!」

 あらぬ方向に話が進み始めているのを受け、宏樹は慌てて彼女の話を遮った。

「え、違うんですか」

「違いますよ! 大体、僕男ですよ? そもそも入れないじゃないですか!」

「男?」

 少女は首を傾げた。黒く短い髪が揺れる。

「いや、今年からは男子部員も募集してるんですよ。知らなかったんですか?」

「ええ?」

 知らなかった、と素直に驚く宏樹の様子を見て、少女は新たな疑念を向け始めた。

「……ってことは、本当に入部希望じゃなかったんですね。じゃあ、何をしてたんですか、という話になりますけれど……」

 しまった、と宏樹は思った。いっそ入部希望ということにしておけば、どうにか話は穏やかに済ませられただろうに、なぜ否定してしまったのだろう。宏樹は一分前の自分を恨んだ。

「その、あれは……「というか」

 少女は宏樹の弁明に割り込んだ。ビクリと、宏樹は固まる。

「先輩、なんですよね。なんで敬語なんですか」

 襟章、二年生のですよね、という彼女の言葉に驚き襟元を触ると、確かに冷たい襟章が指に触れた。見る機会も見られる機会も無かったものだから、彼はすっかりその存在を忘れていた。

「ってことは、君は」

「はい、一年生です」

 そういって彼女は上履きの側面を見せた。青く走る三本のラインは、確かに今年度の新入生を表すものであった。だが、そう知ったからと言って、異性に砕けた言葉を使う勇気を彼は持ち合わせていなかった。

「……ため口が苦手なので」

「へえ、まあそういう人も居ますよね」

 なるほど、と頷いた彼女は、近くの壁時計を見ると「ああ、そろそろ行かなくちゃ」と言い、宏樹から視線を外した。そのまま会議室へと向かおうとする彼女を見て、宏樹はようやく肩を下し、そそくさと校門へ向かおうとして、

「それと先輩」

 という少女の声に再び体をこわばらせた。

「のぞき見は控えたほうが良いと思いますよ」

 振り向きたくない。そう思いながらも、宏樹の首は引っ張られるように後ろに向けられた。振り向いた先に居た彼女は、宏樹ににこりと笑い掛けて言った。

「見るなら堂々と見に来て下さい。土曜日、中夜祭のステージに出るんで」


 快晴の空の下、宏樹は一日目の文化祭を無難に終わらせようとしていた。劇の練習には昨日ようやく参加させてもらえることになり、所々元来の台本から書き換えられていた部分をすり合わせてなんとか仕事を覚えた。宏樹は一日目すべてのシフトに入ることとなっていたが、その全てを無事こなし、一日目終了までの三十分間を、校舎をブラブラしながら過ごしていた。シフトとて定められた作業に過ぎないはずなのだが、文化祭という非日常に投げ込まれた途端、それを意識せず、しかも達成感さえ持ってこなせるのだから、いかに自分が単純にできているかと呆れ、同時にこんな些細な気持ちさえ一年以上も持つことができなかった自分に呆れた。


 中夜祭は文化祭のハイライトの一つであり、そして全校が文化祭を同時に楽しめる唯一の場でもある。秋も中頃、時刻は午後五時、外は長袖でいなければ肌寒いほどの気温となっていたが、熱気に包まれた体育館の中には、半そでシャツ以外の物を着た生徒は一人として居なかった。

 喧騒に包まれた体育館。色々なクラスの生徒たちが、各々のクラスTシャツを着て集まっているため、制服の黒一色となる普段の全校集会とは全く違う光景が広がっていて、それが非日常であることを強く主張していた。宏樹はその中に居た。去年の中夜祭に参加した理由は覚えていない。おそらく、義務感からだろうが。だが、今年は違った。彼がこの場に来た理由は、この中夜祭のトップバッターであった。彼はできる限り、ステージの近くへと移動した。

 白と黄色を基調にしたユニフォームを纏ったダンス部の面々がステージに上がると、観衆は大歓声でそれを迎えた。彼女たちはきびきびとステージ上を移動して、ポジションに就いた。そして、静止する。静寂に包まれる体育館。


 音楽が始まった。アップテンポなダンスミュージック風にリミックスされた洋楽に合わせて、二十名ほどのダンサーたちは動き始める。まるでバネのように飛び跳ね、腕を曲げ、腰を振り、その場でくるりと回って見せる。細い脚を軽やかに動かし、気がついたときには前列と後列のメンバーが入れ替わる。かと思えば、一人一人がポジションを入れ替え、そして互いの体を交差させる、一人、宏樹のクラスメイトの女子が混ざっているのを見つけた。普段の柔和そうな立ち振る舞いとは一変した、激しく、どこか扇情的なダンスを踊っていた。まるで全体が一つの生き物のようだった。それは日々の努力を窺わせる、正しく、一糸乱れぬ、と言うに相応しい光景だった――いや、違う。宏樹は、機械のようにそっくり同じ動きをする少女たちの中に、一糸を見つけた。

「……やっぱり」

 そう零しながら、宏樹は自分の中の何かが震えるのを感じた。

 まるで彼女一人だけにスポットライトが当たっているかのように、宏樹の視線は彼女に釘づけだった。彼女は周囲の少女たちと全く同じように腕を交差させ、ステップを踏み、そして腕で大きく輪を描く。だというのに、その動き一つ一つが美しく、洗練されていて、魅力的に見える。それは決して、ダンス全体の調和を壊しているわけではなかった。他のダンス部員との連携が乱れているわけでもなかった。しかし、宏樹の目には明らかに彼女が目立って見えていた。一言で表すならば。

「――格好良い……」

 まるで指先一つ、つま先や顎の角度一つ、全てが計算されているような、それでいて全てが打算や計画に基づいたわけじゃない、自然な動きに見えるような、そんなダンスだった。彼女のその動きからは、重さというものを感じなかった。どのポジションについていても、センターに立っているように見えた。彼女は、振り付け通りに、振り付けと全く違うダンスを踊って見せた。

 

 曲が変わった際にステージに上がるメンバーも交代し、そしてついぞ最後の曲になっても彼女が再びステージに上がることはなかった。軽音楽部が懐かしのアニメソングを演奏し、観客のボルテージが最高潮となっているのを尻目に、ダンス部が体育館から出ていく様子を見ていた宏樹は転がるように体育館を飛び出した。外はもう薄暗くなっており、見れば、ダンス部の部員たちが互いを労いながら、部室棟へと移動していた。その集団の一番後ろに、あの少女が居るのが見えた。そして宏樹は見た。彼女の肩に掛けられていた白いタオルが、ひらりと地面に落ちるのを。

 気づいたときには、宏樹はそのタオル向かって走り、タオルを拾い、叫んでいた。

「――あの、すいません!」

 ビクリ、と背中を震わせる少女。恐る恐るといった様子で振り向くのを遠目に見て、しまった、大声を出してしまったばっかりに、と宏樹は早くも後悔を覚え始めていたが、勢いは止まらなかった。

「これ、落としませんでしたか!」

 身構えていた少女だったが、そう言ってタオルを振る宏樹に、彼女は合点がいったという快活な声で返事した。

「あっ、はい、ありがとうございます!」

 とてとてと歩いてきた彼女は、やがて宏樹の顔が見える距離まで近づくと、少し驚いたような顔をした後、くすりと笑った。

「……こんばんは、先輩」

 

「どうでしたか、堂々と見られましたか、敬語の先輩」

 悪戯っぽくそう尋ねる少女の言葉に皮肉めいたものを感じた宏樹は、少しむっとした。何か仕返しでもできないか、とも思ったが、宏樹にはそんなことができる技術も勇気も無かった。ここは素直に、自分の感想を伝えよう、そう思った。だが、せめて敬語は外してやろうと思った。それが宏樹にとって可能な限りの抵抗だった。

「あー、その、凄かった、よ、君のダンス」

 こういうとき、人と会話することに慣れていないと難儀するのだ、ということを宏樹は痛感していた。自らの業を恨みながら、それでも宏樹はこれだけは伝えようと思っていたことを口にした。

「なんというか、その、君のダンスは他の人と違って……」

「……」

「……凄い、格好良かったというか、えっと……あ、いや、他の人が下手だってわけじゃないんだよ、ただ……」

 言いながら宏樹は思った。今自分は、変に皮肉めいた返しをするよりもよっぽど勇気がいる様な、とんでもなく恥ずかしいことを言ってるんじゃないか、と。

「……」

 眼前の少女も、先ほどから無言で、何も反応を返してくれない。こりゃもうダメだ、こうなったらヤケだ、と言わんばかりに宏樹は、勢いのままに言葉を続けた。

「……振り付け通りなのに、振り付け通りじゃないというか」

「……!!」

 その言葉が宏樹の口から飛び出した途端、少女は目の色を変えた。それを怒ったと勘違いした宏樹は、慌てて「いや、良い意味で、だよ!?」と付け加えた。それを気に掛けずに、少女はぽつりと零した。

「……それ、二人目です」

「え?」

「そう言ってくれた人、先輩が二人目ですよ」

「ええ、へえ、ああ、そうなんだ」

 相手が積極的に話し掛けてくれたことは宏樹にとってとても喜ばしいことであるはずなのだが、それがどこか探るような言葉ならば素直に喜ぶことは難しい。今度は宏樹が居心地の悪さに耐えねばならない番だった。射抜くような視線で宏樹を上から下まで眺めた後、彼女は尋ねた。

「先輩、市川に来たこと有ります?」

「え? いや、無いけれど……」

 そう宏樹が答えると彼女は「じゃあ先生と会ったわけでは無さそう……」と呟いた。やがて、頭に疑問符を浮かべている宏樹を見かねたのか、彼女は説明を始めた。

「私、市川に住んでて、そこのダンススクールで昔からダンスやってたんです。で、そこの先生が、さっき先輩がおっしゃってたことと同じことを私に言ってくれたんです」

 そうだったのか、と宏樹は納得した。納得しつつ、どうやら会話でドジを踏んだようではなさそうだ、と安心した。 


 調子に乗った宏樹は、一番知りたかったことを尋ねてみようと考えた。

「それで、聞きたいことがある、んだ」

「え」

再び身構え、身を守るように腕を交差する彼女に、宏樹は「ち、違うよ、変なことじゃない」と前置きした。

「……その、振り付け通りに、振り付け通りじゃないダンスをする方法を、教えてほしいんだ」

「……先輩、ダンスやってるんですか?」

「別にそういうわけじゃないけれど……」

「じゃあそれ、十分変な質問ですよ」

 そう言って少女は笑った。学校生活において宏樹が他人を笑わせたのは、これが初めてのことだった。

「そうですね……うーん、別に私だって意識してやってるわけじゃないし……それこそ先生や先輩に言われて初めて気づいたことだし……」

「え、もっと他の人に言われたりはしてないの?」

「だからさっきも言ったじゃないですか、先輩で二人目だって」

「……ああ」

 それを聞いて、宏樹は複雑になった。この少女の特異な才能を、自分以外に知る人は殆どいないということ、それは一種の優越感を与えてくれた。しかし同時に、自分以外に、そして自分より先にその才能を把握した人間が居るということに嫉妬していた。

 「でも、そうですね……」

 考え込んだ彼女は、それでも返答を口にした。

「――音楽と一つになることが、一番だと思いますね。音楽に乗ってるときって、自然と体が動いちゃうじゃないですか。私にとってダンスっていうのは、なんというか、その延長線上にあるもので、音楽に乗って、音楽そのものになれれば最高なんですね。音楽そのもの、ビートそのもの、リズムそのものになって、夢中になってそれを従えて、それに従えられて。言ってみれば振り付けも音楽の一部、楽譜みたいなものなんです。それもひっくるめて、音楽全体に乗ることができたら、『振り付け通りに、振り付け通りじゃないダンス』、踊れると思います」

「……」

 ……変なこと言っちゃいましたね、と頬を掻きはにかむ少女に対し、宏樹は言った。

「――いや、全然変じゃなかった。ありがとう」


 それから暫く、お互いに言葉は無かった。耳に入るのは体育館から漏れ聞こえる軽音楽部の演奏で、それすらはっきりとはしていなかった。宏樹は決してその沈黙が不快ではなかった。むしろ心地良いくらいであった。やがて少女は言う。

「じゃあ私、行きますね」

 そして微笑みを宏樹に向けた後、ゆっくりと踵を返す。宏樹は焦る。何かを言って引き留めたい。引き留めたからと言って何かができる、というわけでは無い。でも、引き留めたい。そうして「あの!」という言葉は出た。彼女は立ち止った。だが、それに続く言葉は持っていなかった。何か、何かを言わなくちゃ。彼女との僅かな会話の記憶の中から探しだした、咄嗟に飛び出した続く言葉は、

「――ダンス部に、入部させてくれ!」

 というものだった。

「……へぇ!?」

 流石の彼女も意表を突かれたようだった。もっとも、一番驚いていたのは宏樹本人ではあった。自分の口から飛び出した、その大胆な言葉に。だが不思議と、あまり悪い気はしなかった。むしろ、自分が言いたかったこと、そのものであったようにすら、宏樹は感じていた。というよりも、そもそも。

「なんでそんなに驚くんだ……」

 自分から言いだしておいて、何だその驚きようは、と宏樹は少々呆れた。流石にもう少し穏やかな反応を予想していたというのに。

「えっと、その、急に先輩、大胆になったものですから……」

「……ダメそうかな」

「いや、私としては構わないんですけれど、先輩たちが……」 

 なんでも、男子部員の受け入れをテコ入れとして提唱したのは卒業生の人たちのようで、現在の上級生には保守的、つまり男子部員に対し難色を示す人が多い、ということらしい。そのせいもあって、

「まだ男子部員、一人も入ってないんですよね」

「えっ!?」

 今度は宏樹が驚く番だった。流石に少ないだろうとは思っていたが、まさか一人も居ないとは。ということはもしや。

「……君、あのときからかってたな?」

「……まあ、それは良いじゃないですか」

 

「……分かりました。私が勧誘したようなものですし、私がきっちりと先輩方に話を通しておきます」

 少女は胸を張った。

「大丈夫そうかな」

「もちろんですよ。みんないい人ばかりですし。それに、先輩、ダンスが好きなんですよね?」

「――うん」

 宏樹は大きく頷いた。

「なら、大丈夫です。明日、部室まで来てください」

 彼女は部室までの場所を宏樹に伝えた。

「あとさ」

「なんです?」

 宏樹はこの日一番の勇気を振り絞って尋ねた。

「……名前、聞いても良いかな?」

「あれ、言ってませんでしたっけ。陣内です。陣内舞子。先輩は?」

「僕は、山下宏樹」

「そういえば自己紹介してなかったんですね。もう知った気になってました」

 そう舞子が笑ったとき、着信音が流れた。彼女は慌てて携帯電話を取り出し、画面を見る。

「――先輩からだ。やばい、急がなきゃ」

「ごめん、何度も引き留めて」

「大丈夫ですよ。楽しかったですし、楽しみも増えたし」

 そうして彼女は、柔らかに彼に微笑み、言った。

「じゃあ明日待ってます、山下先輩」

 やがて走り出した背中を、宏樹は見送った。


 この数日間、まるで誰かに踊らされているようだったな。宏樹はそう思った。何に、と言われれば、それは彼女、陣内舞子の存在に違いなかった。

 ――だが、それは決して宏樹にとって苦痛では無かった。それは宏樹にとって作業ではなかった。そのダンスは、宏樹が夢中になれるものに相違なかった。舞子の言葉を思い出す。夢中になって、音楽と、リズムと、定められた振り付けと、一つになる。次に彼女のダンスを思い出す。定められた音楽や振り付けの中で、音楽そのものや色々なしがらみ、あるいは重力からすらも解放されていた、あのダンスを。そして思う。彼女の言葉とダンスが、自分に勇気を与えてくれたのだと。


 宏樹は、自分の心が弾んでいることを感じていた。そして彼は、自分を導いてくれるその心地よいリズムに、身も心も委ねてみようと思った。そして、体が動くがままに体を動かしてやろうとも。イヤホンを耳に差し込み、音楽を再生する。数日前までは耳栓代わりの役割しか果たさなかったその曲なのに、今聞いてみると、不思議と体が動き出しそうになった。まずは。宏樹は思った。この曲のリズムに合わせて、駅まで歩いてみよう。

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