水面に浮かぶもの

 屋敷に来て2回目の朝。

前日の夕食後にヒューから『庭に池があった』と伝えられた。

朝食の後片付けが済み次第、早急に確認しなければ。

 何年も放置されていた屋敷の外にあったのだ、池の水に危険な虫や病原菌がいるかもしれない。

この近辺に医者はおらず、私も風邪などの簡単な病気しか看病出来ない。

きちんとした治療を受けるには、この山を下りなければならない。

 普段より手早く、しかし丁寧に朝食を作る。

パンには不必要な焦げもなく、付け合わせのスクランブルエッグは黄金色に。

柔らかく蒸したジャガイモを全て潰し、他の野菜と合わせて味付けする。

更に、全員分のデザートにショートブレットを……。

 厨房を忙しなく動いているのはマットだけではない。

侍女のスザンナは食器を配膳したり、朝食に出すコーヒーや紅茶を淹れたりしている。


 この家に仕える従者からすれば、前に暮らしていた屋敷の朝と何ら変わりない。

これらは全ていつもの事、ただの日課だとも言えるだろう。

 しかし、今朝は少し違っていた。


「マット!大変なの、ステフが!!」


 慌てた様子のディアナが寝間着のまま厨房に駆け込んできた。

マットは今まで仕えてきて何年も経つが、ここまで取り乱しているのは初めて見た。

作業を直ちに止め、ディアナの方へ駆け寄った。

「どうかなされましたか?」

手を固く握りしめ、青い顔をしている。

「あのね、ステフが……酷い熱を出してるの」

「それはいけませんね、すぐに向かいましょう」

ディアナは不安そうな顔でこくりと頷く。

そこにスザンナが食堂で休むように提案し、それにも黙って応じた。

「私が薬などを持っていきますから、安心して食堂でご寛ぎください」

と、厨房から離れる前に急いで伝える。

少しぎこちなかったが、マットに笑いかけた。



-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-



 どこか遠くから声が聞こえる。

とても優しくて、安心できる。

「ママ?」

瞼が重くて開かないけれど、声は出せるみたい。

それが聞こえたのか、わたしの手は誰かにギュッと握られた。

「えぇ、そうよ。ステフ」

ママ、泣いてるの?

どこか痛いの?

何て話しかけたらいいか分からなかった。

「今日はゆっくり休みましょう」

ママの優しい声、暖かい手のぬくもり。

わたしは何かに包まれたように、段々また眠りはじめた。


「これで大丈夫でしょう」

ステフが苦しそうな顔から、少し微笑んでいる様な顔になったのを見てマットが言った。

熱は変わらずあるが、昼頃にもなれば微熱になるだろうと思ったのだ。

「朝食をここへお持ちしましょうか」

「いえ、いいの。ステフが起きたら一緒に食べるわ」

「そうですか」

ゆっくりと腰を上げ、真っ直ぐと立つ。

「何かあればスザンナをお呼びください、私めは外で仕事しておりますので」

「えぇ、わかった」

「それでは、失礼致します」

と言って忠実な執事は部屋を出た。



-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-



 日がすっかり昇っている頃。

ヒューが大きな欠伸をしながら歩いていると、池の方から水を出す音が聞こえてきた。

池ではマットがホースで水を貯めていた。

「おや、おはようございます」

ヒューが歩いてきたのを見て、マットがにこやかに挨拶する。

「どうも、おはようございます。もう池の掃除は終わったんですかね?」

「はい、老骨もたまには動かさねばいけませんからね。僭越ながら、きっちりと洗浄させて頂きましたよ」

ほっほっほ、と笑いながら話す。

 池の中は大きな石を重ねて積み上げたようなもので、池の底も同様に石が敷き詰められていた。

 水はまだまだ入れたばかりで、大人のくるぶし程の高さだ。

これはまだ暫くかかるか。と、ヒューは思い、池の近くにしゃがみ込んで水面を眺めた。

マットはというと、特にする事もないので庭をただ眺めていた。


 束の間の沈黙を破って、庭の何処かから笑い声が聞こえてきた。

クスクスと皮肉めいた子供の笑い声だ。

マットは周囲を見渡し、その声の主を探した。

 すると、池の向こうに生える植木の陰に2人の少女がいた。

同じぐらいの背丈だが、服装や髪型は全く違う。

木の陰になっていて顔はよく見えないが、吊り上がった口角から笑い声は彼女らからだと分かる。

どうしてこんな山奥に子供が……という疑問もだが、何を笑っているかマットには分からなかった。

 笑い声は止む気配がなく、逆に段々と声量は増しているようにも聞こえる。

ふと、横にしゃがんでいるヒューの方を見たが、あの少女たちに全く気付いていない様子。

もしかすると……いや、どう考えても。


この笑い声が聞こえているのはマットだけなのだ。


 皺の多い頬を大粒の汗が一筋に流れ、そのまま下へ垂れ落ちる。

関わるまいと思っていた事象が自ら、目の前に現れたのだ。

あの少女たちは驚嘆している私を笑っているのだろうか。

いや、それとも気づいていないヒューを……?

 思考を巡らせるにはあまりにも情報不足で、更には時間も冷静さも足りていなかった。

少女たちの声は、次第に耳のすぐ後ろから聞こえる程近づいていた。

けれども彼女らが立っているのは一歩も変わっていない。

マットは気が狂いそうだった。

「おい、マットさん!」

ヒューの呼びかける声で我に返った。

マットは平静を装う様に言う。

「は、はい。どうかされ―――」

「あそこ、2階を見てくれ!!」

すぐに言葉はかき消され、注意はヒューが指差した2階へと注がれる。

 そこは2階の端にある1室。

何故か窓が開けられており、カーテンが風を受けてバタバタとはためいている。

カーテンの間に見える薄桃色の服を着た……。

どうしてあんな所に?

「あれ、ステフだろう?どうやって助ける!?」

情けない事に何も言えなかった。

頭が混乱しているのだ。

あそこに立っているのが

あれはどう見ても成人した女性……。

もしあそこにいるのが本当にステファニーだったら一大事だ。

しかし、私の目には黒く長い髪を揺らす女性にしか見えない。

そしてまた少女たちは笑い出した。


アハハ、アハハハハ


ただ立ち尽くして祈るだけの我々を嘲笑っているらしい。

焦るヒューと落ちない事を願う私。

笑い声はさらに強くなり、そちらをチラリと見た。

 すると、少女たちは2階を真っ直ぐ指差して笑っていたのだ。

そしてその指は段々と下を指していき、指先が地面を示した頃。


ドボンッ


低く、下腹部に響くような音がした。

嘘だ、認めない。

あれがステファニーなんて。

ステファニーが落ちたなんて。


池の冷たい水に薄桃色のワンピースを着た少女が浮かんでいた。




 時を同じくして、場所は地下。

ここではアンソニーがこっそりと土を掘り返していた。

あの天井が低かった部屋は掘り返していくにつれ、段々と本当の姿を現しだした。

 扉の前には5段の石階段があり、横に鉄製の細い手すりがあった。

思いの外、土は柔らかく部屋も左程大きくはなかった。

 更に、木製の長方形の少し大きな箱が2つも出てきた。

どうやらこの箱は蓋が開くようになっていて、頑丈そうな造りではあるが装飾は全くない。

この二つはコンクリートの床に置かれていたものらしく、動かすには上に被さった土を退かす必要がある。

 首にかけたタオルで汗を拭いつつ、アンソニーはもうひと踏ん張りだと自分に言い聞かせた。


 部屋には土にスコップを突き立てる音と、掘った土を放る音だけ。

ザク、ザク……サッ、パラパラ

暫くそれだけだったが、途中でガツンと当たった。

スコップの先が箱に当たったのだろう。箱の1つの全貌が明らかになった。

 140㎝と50㎝の長方形に同じ大きさの木で蓋がされ、端を釘打ちされている。

それはまるで子供が入る棺のように思えた。

中身が全く見えない為、何とも言えない不安が募っていく。

アンソニーの頭にあの言葉が過ぎる。


「そんなだからステファニーを守れない」


いや、そんな筈はない。


「あなたはステファニーを守れない」


そんな事はありえない。

自分ではそう思っている。

思っている、というよりかは『信じている』の方が近いのだが、アンソニーは気づいていない。

 誰かを一番理解していると思っている人ほど、その人を理解していない。と、いうように、アンソニーもまたステファニーはもちろん、自分自身すら理解してはいないだろう。

 その傲慢さが災いしたのか、上が騒がしくなってきた。

何て言っているか聞こえないが、これほど騒がしいのは珍しい。

服装を整え、様子を見に行ってみよう。

手すりに掛けていた上着を羽織り、ボタンを留め襟を正しながら階段を上った。


 玄関で慌ただしく騒いでいるのはディアナとスザンナだった。

2人してバタバタと焦っていたらしく、玄関ホールは色んな声が飛び交っていた。

「2階の窓から池に落ちたんです」

「まぁ、なんてこと」

「急いでお風呂を沸かしましょう」

「でもこの子は風邪引いてるのよ、もっと悪化してしまうかも」

「まずは洋服を変えませんと」

「あぁ、ステフ。どうして」

母が妹の名を呼ぶのを聞いて耳を疑った。

ステフがどうかしたのか?

じっとよく見ると、全身水浸しになっているヒューがぐったりとしたステフを抱えていた。

 どうしてステフが、そんな有様になっているんだ?

高熱で休んでいると聞いていたのに、目の前にびしょ濡れでうな垂れている。

何故だ、一体誰がこんな事をしたんだ。

誰が、と思っても頭の中には自分の顔しか浮かばない。

そうか、の事を言っていたのか。


「僕がステフを守れなかったんだ」

喉の奥から絞り出すような声で呟いた。




 奇跡的にステファニーは無事だった。

池に落ちてすぐ、ヒューが水から引き上げたからだろう。

ステファニーの体内に入った水を出しながら、放心状態のマットに声を掛けていたが返答はなかった。

ヒューの大声を聞きつけて、ダスティンが様子を見に来た。

 水浸しになっている愛娘と庭師、ただ茫然と立ち尽くしている執事。

ダスティンにはどういう状況か分からなかったが、まずはステファニーを屋敷に運ばせた。

何もせずに棒立ちのマットに軽蔑の視線を送りはしたが、マットには見えていない。

彼に見えているのはステファニーを指差して笑う少女だった。



-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-



 夕食を終わらせた頃には、屋敷の周りはすっかり暗くなっていた。

嵐が過ぎ去るように1日が終わり、寝室に戻ったダスティンは心労を投げ出すように布団に倒れ込んだ。

ディアナは心配だからと、ステフの部屋で共に眠るらしい。

 昼間の騒動を見れば当然の反応だろう。

ステフは無意識の内に2階まで歩いて行き、窓を開け放ち池に落ちたのだから。

これを夢遊病、というのだろうか。それとも誰かがステフを……?

いや、家族を疑っては駄目だ。

 今日は大変な事があった、それで疲れているんだ。

柔らかい布団に包まれて目を閉じ、朝を待てばきっと今まで通りの日常が始まる。

ステフの熱だって下がるし、ディアナだって笑ってくれる。

 そうしてダスティンは明日への希望を胸に抱き、瞼を閉じるのだった。

まるで夢を見る少年のようだった。

その夢で誰が待つのか知らない内は。


 全てがセピア色で覆われた夢の中にいる。

ここはどこか懐かしいが、はっきりとは覚えていない。

自分の体は動かせず、何かに寝かされているようだ。

暫くすると、目の前に少女が顔を出した。

こちらに向かって笑いかけ、こちらに向かって声をかける。

「ダスティンったら、やっとお目覚めね」

どうやらこれは赤ん坊の頃の記憶らしい。

今になって何故それを思い出したのかは不明だが、目の前の少女も誰か分からない。

すると、近くにまた誰かが来たようだ。

「あらあら、起きたのね。それじゃあお出かけしましょうか」

そう言って私を抱きかかえる女性。

写真でしか見た事はないが、間違いない。


彼女は私の母だ。


 自分と同じ色の髪と瞳、見せられた写真と同じ薄桃色の服を着ていたからはっきりと断言できる。

父から母は私が赤ん坊の頃に亡くなった、と聞かされていた。

 そして、私の姉。ヘレナ。

カナリアのように赤ん坊である私の周りを歌い回る彼女も、いつの間にか私の前から消えていた。

 どうして2人はいなくなってしまったのか。

今までは分からなかったが、この記憶に何か手掛かりがあるのかもしれない。

「さぁ、ダスティン。森の教会へ行きましょうね」

キャッキャと笑うヘレナが走る音を聞きながら、母の顔をただ眺めていた。

表情がある顔を見て、自分の母は実際にいたんだと安心する。

 これがもし空想だったら、とは少しも思わない。

ここは夢であり、記憶でもある筈なんだ。


 母に抱かれ、連れてこられた森の奥に建つ小さな教会。

白い壁と綺麗な青いステンドグラス。

木製の扉を押し開け、木の椅子が並ぶ礼拝堂へ連れていかれた。

私たち以外に人はおらず、ヘレナも静かに母の後をついて来ている。

 母は並んだ長椅子の1つに腰かけ、私を膝に座らせた。

私の頭を優しく撫でる母、その後ろに誰かが腰かけた。

姉ではない、横にいるからだ。


では誰だ?


 私の疑問はすぐに解決された。

後ろに座った人物が母の胸をナイフで貫いたからだ。

 赤黒く、どろりとした液体が私の顔にかかる。

母の苦しそうな顔と、ヘレナが叫ぶ声が脳裏に焼き付く。

やがて母はぐらりと倒れ、私の視界はほとんど塞がれた。

 今度はヘレナの声が聞こえてきた。

怯え、祈りを乞う声。

その声は段々と早口になり、祈りから謝罪に変わった。


そして突然、静まり返る。


何が起こったのか、何も見えない私にははっきりと分からなかった。

しかし、この状況下で次に赤く染まるのは私だと悟っていた。

 ここで母や姉と共に倒れたら、そのまま神の袂で平穏な時を過ごせるだろうか。

そんな事さえ考えてしまった。


コツ、コツ、コツ


 今までは聞こえていなかった足音が聞こえる。

少しずつ、こちらに歩み寄るような足音。

赤ん坊である私は、母の下敷きのまま動けないでいた。


 足音が止まり、また静寂が訪れる。

そして、母の長い髪を掻き分けて歪んだ笑顔の男が顔を覗かせる。

彼は母と姉を殺したその手で私を抱き上げた。

顔を突き合わせても歪んだ笑顔を止めない。

 茶色の短い髪と焦げ茶色の目、服装は我が家の執事と同じものを着ていた。

しかし、このような人相の男を私は知らない。

歪んだ顔のまま私に話しかける。


「ごめんねぇ、オレが2人を殺しちゃったんだよぉ。ごめんねぇ?」


けらけらと笑う男と、自分の無力さに腹が立った。

もし自分が赤ん坊でなければ……。


「オレもなぁ、殺したかったワケじゃないんだよ。でもさぁ……」


と、更に男の1人語りは続く。


「こういうのを若気の至りって言うんだろうねぇ!」


そう言って俺を地面に思いきり叩きつけた。

不思議な事に痛みはなかった。

そして跳ね返るような衝撃でベッドから飛び起きた。


 目が覚めるとそこは静かな寝室で、まだ夜は明けない時間だった。

明日、夢に見た教会を探してみよう。


 しかし、本当に夢で良かった。

母と姉を何度も殺してなるものか。

それもあんなに惨い事を。


 私は深呼吸をし、枕を整えてまた眠る事にした。

ただ安らぎを求めて。

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