侍女の目覚め

「……ザ……ナ」

何か聞こえる。

「ス……ンナ……」

誰だろう、呼ばれている。


「スザンナ!」


 私は落雷のようなヒューの呼びかけで飛び起きた。

白い壁と天井に木製の床、簡素なクローゼットと戸棚。

白く柔らかい布団に身をくるんでいた。

ここは……新しい自分の部屋?

自分の服装を見ると、驚いたことに使用人服から着替えずに布団に入っていたようだ。

この状態で……私は寝ていたのか。

昨夜は何もせずに寝てしまったのだろうか……。

昨日は、昨晩は確か……


「ああああああああああああああ!!!!!!!!!!」


思い出した、思い出してしまった……

昨夜の……あの音、あの声を……!!

いや、もう思い出したくない……

 昨日のように心臓が高鳴り、ヒュー、ヒュー、と呼吸がおかしくなる。

手に力が入らずガタガタと震え、爪先から背中に寒気が駆け上ってくる。


「いや、もう……思い出したくない。忘れたいの……!!」


震える手で顔を押さえ、何かを振り払うように頭を動かした。

 恐怖の記憶に心が掻き乱される中、ドンドンドンっという音が聞こえた。

それと同時に

「おい、大丈夫か?」

「どこか具合でも悪いのですか?」

と扉の向こうから言う2人の心配そうな声が聞こえる。

 さっきの声で驚いたのかもしれない。

余計な心配はかけたくない、もしかしたら私の思い違いかも知れない。

私は急いで鏡の前で乱れた髪型を整え、部屋の扉を少し開けた。

「ヒューさんにマットさん、おはようございます」

2人の顔など見れるはずもなく、愛想笑いを浮かべるぐらいしか出来ない。

我ながらぎこちない笑顔だと分かってる。

「私は大丈夫ですから、2人はお先に行っててください」

そう言いながら扉を閉めようとすると、扉を力強く掴まれた。


「……え?」


不審に思い、ふと前を見た。

「知っているか?」

ヒューがいつもより真面目な顔で尋ねてきた。

「な、何を――」


「アランを、知っているか?」


何故……何故その名を彼が知っているのか私には分からなかった。

無理矢理落ち着かせた心がまた乱れ始めた。

「どうして、どうしてあなたが――」

「アランは知っているのか?」

全身からゆっくりと力が抜けていくのが分かった。

私は扉の建枠にしがみ付きながら座り込んでしまった。

「いや、嫌よ……」

首を横に振りながら、ヒューを見上げる。


「知っているか?知っているのか?」


 繰り返し尋ねられても答えは変わらない。

変わるはずがない。


「し、知らない!私は何も――」

「それは本当ですか?」

今まで黙っていたマットが口を開いた。

「……私が、私が知ってる訳ないでしょう!」

「そうか……知らないか……」

「えぇ!もちろん!」

そうよ、私には関係ないんだもの。


「知らないのだな」


いつも聞いていたマットの声と違い、とても冷たくおぞましい声に替わった。

「マット……さん?」

「君は何も知らない、何も知らないのだな」

「どういう事、なのですか……?」

「知らない、知らないのだ。君は」

分からない、私はわからない。

彼が何を言っているのか、彼らが呼ぶ名は誰なのか。


「分からないんだな、


「だから何が――!」

 強く訴えようとした途端、目の前の二人は泥のように溶け始めた。

顔がまず最初に赤黒く溶け、上から下へ跡形も無い程に溶けていく。

当然、ポタポタと先に落ちてくる部位もある。

顔に使用人仲間だったものを浴びながら、私は言われた事を繰り返す。

「知らない、知らない、知らない、知らない、知らない――」

尚も首を横に振りながら繰り返す。

「分からない、分からない、分からない、分からない、分からない――」

顔を両手で覆い、悲鳴に近い程の金切り声を上げる。

それでも繰り返す。


「分からない」



    ――スザンナは知らない、分からない――



 その言葉だけが彼女の心に響いた。


-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-


 薄目を開けると、目の前にマットが膝を着いていた。

さっきのは……夢?

ここは……玄関ホールのようだけど……。

「おっと、スザンナ。目が覚めましたか?」

優しい声で私の様子をうかがう表情は、先程のどろどろと溶けていったものとは段違いに温かく感じた。

「えぇっと……私は、一体?」

 少し安心したように柔らかく微笑みながら、マットは答えてくれた。

「どうやらここで眠ってしまっていたようですよ、どこか痛いところはありませんか?」

そう言われ、まだ朧気な視界で確認する。

「大丈夫なようです、ご心配おかけしました」

ふらつく足取りながら、なんとか立ち上がりお礼を述べた。

「いえいえ、私は何もしておりませんよ」

にこにこと微笑みながら貫禄のある台詞を並べるのを聞き、この人は私が知っているマットだなと思えた。

「ちなみに、今はまだ夜ですか?」

「えぇ、まだ10時を半時間ほど回った所ですよ」

手元の懐中時計を見ながら答えた。

「ありがとうございます。それでは、おやすみなさい」

きちんと歩ける程まで回復したので、このまま自室へ帰る事にした。


「そうだ、スザンナ」


マットに呼び止められ、進みかけた足を少し戻す。

「……どうかしましたか?」

どうか……どうか、さっきの夢みたいな展開にはなりませんように。


「大した事ではないのです。先程、酷くうなされていたので……」


「そうだったんですか……」

「なので、どうぞゆっくりお休みください」

胸に手を当て、ゆっくりとお辞儀をするマットの姿は、私のような若い使用人には勿体無いぐらい凛々しいものだった。

「ありがとうございます、マットさんも良い夢を」

仮にも侍女たる者です、丁寧なお辞儀には頂いたお辞儀より丁寧に返すのが道理。

最後の力を振り絞り、瀟洒にお辞儀しましたとも。えぇ。



 玄関ホールから立ち去るスザンナを見届けながら、静かにマットは呟いた。


「アラン……か」

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