最初の夜

 賑やかだった屋敷も嵐が過ぎ去るように静まり返った。

夜も深まり、全てが眠りにつく頃。

二階の一室から漏れた柔らかい明かりが、冷たい廊下の闇を照らしている。

 クリーム色の壁に可愛らしい家具が置かれた部屋。

部屋中に家族からの愛情を押し込めたような部屋の中央には、天蓋てんがいカーテンが吊り下げられた薄桃色の寝台がある。

雪のように柔らかい布団がステファニーを包み込む。

寝台の傍らには母のディアナと侍女のスザンナが寝かしつけていた。

「それじゃあ、良い夢を見るのよ」

母の心地良い声。

「お嬢様、おやすみなさいませ」

スザンナの優しい声。

場所が変わってもいつもの挨拶は変わらない。

「うん。ママ、スザンナ、おやすみなさい……」

ゆったりと垂れた純白のカーテン越しに聞こえていたステファニーの声が途切れ、次第に静かな寝息へと変わった。

ようやく眠った娘を起こさないよう、スザンナへ軽く微笑みながら部屋出た。そのすぐ後にスザンナも続いた。

スザンナが部屋の明かりを消し、この部屋も暗闇に呑まれていった。


 スザンナがステファニーの部屋の扉を閉めると、ディアナが声をかけた。

「今日はありがとうね、こんなに遅い時間まで……」

普段より遅い時間までの奉仕に申し訳なさを感じたのか、ディアナはこうべを垂れた。

「いえいえ、とんでもございません!どうぞ頭をお上げください!」

自分の胸の前で両手を振り、大きい瞳を一層大きく開き驚いた。

「本当にごめんなさいね、あなただってまだ若いのに……」

頭を下げてもなお、気が咎めるのか伏し目がちにスザンナを見る姿は、普段の華やかな佇まいの彼女からは想像できない程に粛々としていた。

「良いんですよ、奥様。お嬢様のお世話出来るのはとても嬉しい事ですから」

心苦しそうにするディアナを安心させるように、柔らかい口調でスザンナは答えた。

「ありがとう。スザンナは優しいのね」

少し落ち着いたのか、いつもの笑顔を取り戻した。

「そうだ、温かいお飲み物でも飲みませんか?きっと落ち着きますよ」

料理好きなスザンナならではの提案だ。

「それも良いわね。でも、もう休みましょう?」

今日はもう疲れたから。 と付け加えるように困ったような笑顔を向ける。

 二人は月明りに照らされた薄暗い廊下を進み、正面階段へと向かった。

正面階段から玄関ホールへ降りると、カラスのように黒い外套がいとうを着たマットと会った。

「あら、マット。これからお出かけなの?」

ディアナに気づいたマットはこちらに軽く会釈し、何も言わずに外へ出ていった。

「どうしたのでしょう、彼……」

「さぁ、全然わからないわ」

マットの行動に関しては無関心なのか、興味なさげに階段を下りていった。


「それじゃあ、スザンナ。おやすみなさい」

「はい、おやすみなさいませ」

ディアナが部屋に入り、扉を完全に閉めるまで恭しくお辞儀をした。

 部屋まで付き添ったからか、窓の外は完全なる闇となっており、蒼白い月明りが寒々しく木々を照らしている。

「早く寝ないと……」

足早に自分に新しく設けられた部屋へ向かった。


 スザンナが玄関ホールを通りかかる時。

今まで聞いた事のない不思議な音を聞いた。

恐らく、外の木々が風に揺れて音を立てているのだろう。

気にせず歩いていると、また同じような音が聞こえてきた。

……ガサ……ザワザワ……。

枯れ葉がぶつかり合う耳障りな音。

しかし、今まで聞こえた音と、今度はまた別の音も混ざって聞こえた。

ザ……ザザッ……。

と砂を掻き分けるような音。

きっと外に出たマットが土いじりでもしているのだろう。そう思う事にした。

そうでもしないと、この不安感は拭いきれないのだ。

 静まり返るホールでは、自分の心臓の音が嫌と言うほどはっきりと聞こえる。

心臓がだんだん早く鳴ると、不思議と踏み出す足も速くなる。

 広い玄関ホールもあと少しで通り過ぎる。

それでもなお、絶えず聞こえ続ける音。

それは次第にはっきり、正確に聞こえ始めた。


「……ヲ……ッテ……ノ……。

ア……ハ……イル……カ……」


 何度も聞いたその音は明らかに言葉を発していた。


 誰かいるのか。

そう思い、立ち止まって辺りを見回す。

だが、誰もいない。

 しかし、それでもこののだ。

 恐怖心が募ってきたスザンナは、ほとんど走るように玄関ホールを突っ切った。

きっと疲れているんだ。

自分に何度もそう言い聞かせる。

しかし耳に届く声は止まない。


「アラン……イルノカ……

 ……ハ……ッテ……カ……」


 何か尋ねるように聞こえたが、考えている余裕などない。

今はただ、早くここから去りたい。その一心だ。


「アランを知っているか?

 アランは知っているのか?」


はっきり聞こえた。

聞いてしまった。

人の声ではないのはわかっている。

しかしはっきりと言葉として理解できてしまった。

あまりの恐怖に声も出ず、足がすくみ、瞬きさえも忘れた。

それでも問ひ詰めるように繰り返す。


「アランを知っているか?アランは知っているのか?」




-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-




 針葉樹森の奥深く。

人が立ち入らない程の険しい獣道の先に、古びた教会が建っている。

最後に修道士がここで祈りを捧げたのは何年前だろうか。

最後に人々が神の教えを乞うたのは、子供たちが清らかな歌声を響かせたのはいつだろう。

そもそも、誰もここに訪れたことが無いのでは?

そんな考えも浮かぶ程に廃れた建物。

 しかし、この人物だけはから毎日、神がいるのかさえ分からないこの礼拝堂で祈りを捧げ続けている。

 人目を避けるように黒いローブを羽織り、フードを深く被り顔を隠している。

一見すると死神のような人物だが、神の救いを求めてやってくる哀れな人の子である事に変わりない。


 ギィイイイ……。

木製の扉に備え付けられた錆びた金具が妙に甲高い音を鳴らして開かれる。

光があまり建物内に入らず、握りしめたランプの明かりが薄暗い床を橙色に照らす。

 中央の祭壇へ真っ直ぐ向かい、手慣れた手つきで傍らにランプを置いた。

そして、十字を切り両手を組んだ。




  ――主よ、私を……私の罪を御赦しください――


 おぉ、神よ。私の罪を御赦しください。

私は愚かな人間です。

己の欲に溺れ、愛する者を救えなかった。

己の立場を忘れ、無責任な行動をしました。

今までの年月を全て捧げても足りない程の大罪を、余りにも残酷な罪を犯しました。

 まだ幼い赤子の前で親を奪い、全てを隠し通して今まで生きてきました。

あれから何十年という長い間、誰にも言わずに生きてきました。

 しかし、それももう限界に近いのです。

最近では体が思うように動かなくなり、あのお方にお仕えするのも厳しくなってまいりました。

このままでは、この事を誰かに話してしまいそうで恐ろしいのです。


 私は一刻も早く楽になりたいのです。


 無責任な事は分かっています。

身勝手な願いなのもよく分かっています。

それでも私は残りの短い余生に安楽を望みます。


 悔いてもなお愚かな私を御赦しください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る