伊豆ナンバーは、いつかの夏を乗せて

堅川 ゆとり

伊豆ナンバーは、いつかの夏を乗せて

海岸沿い、もちろん天気は快晴。但し季節は、冬。年が明けたばかりの、真冬の海沿いだ。それでも白い波は小さな浜辺に打ち寄せ、潮風の吹く町を演出する。サマータイムとは程遠い、季節はずれの波。季節という逆境にくじけないようにと、それなりに風に乗っているようだった。

この季節はずれの海岸沿いを走り抜けるわたしたちもきっとそろそろ、次の風に乗らなきゃいけない時間。新たな年の新しい自分へと進化するには、せっせとカーブを曲がっていくしかないのかもしれない。来月でちょうど二十歳を迎えようとしているわたしにとっては、今がまさにそんな時期かもしれなかった。

「あー、ここカーブ多すぎだろ。俺カーブ苦手なんだよね」

そう言いつつハンドルを左に大きく切るのは、わたしより二つ年上の、大学四年生ドライバー。もうじき彼はきっと、社会という新たな風に乗ることになる。伊豆ナンバーを強調して、この真っ赤なレンタカーを操っている張本人だ。

「ほんとにここカーブ多いですねー。でも景色最高」

言い返すのは彼の後輩。そう、わたしだ。

緑に多く囲まれた景色が次々に流れ、限られた低地にいるのだということを知る。やがて目の前に、かの有名な老舗旅館が現れた。近年見なくなってしまったこの旅館のコマーシャルを思い出すと、意味もなく笑ってしまう。思わずそのコマーシャルの歌を口ずさむと、すかさずドライバーに突っ込まれる。

「竪川(これはわたしの名字だ)おまえ、なんだよその歌」

視線はひたすら前のまま。視線をわたしに移さない彼は、いつもと違ったように見えた。普段はあまり、落ち着いた雰囲気を出さないお茶目男子。明るさが何よりも強み。やや派手目。ちょっと頼りないけど、かなりのいいやつ。そんな彼が、今日はれっきとした先輩に見えた。ハンドルを握る姿はとても頼り甲斐を感じるし、もっと年上の大人にも見えるから不思議だ。

そんな彼を横目にふいに、どこかノスタルジックを感じた。いま見ているこの景色の中に、いつかの自分がいる。そしてそれと同時に、これからの自分もどこかに潜んでいるような。

そんな自分を見つけたくなって、窓を開ける。窓を開けると入る風は、真冬だけれどもちろん潮風。

静岡県は、伊豆。そう、わたしは伊豆に来ていたのだった。

「え、知らないですか?伊東といえばこれですよ。ほら、昔よくやってましたよCM。結構な老舗っぽい」

「それ私も知らないですよ〜」

後部座席から、わたしに突っ込みを入れたのは、一つ下の後輩だ。

「旅館のCMなんて、あるんですね」

これまであまり絡んだ事はないけれど、愛想のいい彼女。いつもの笑顔で、つまらない話題にも笑ってくれた。

「俺も知らねーわ。それよりなんか、音楽かけよーぜ」

ドライバーの彼は携帯電話を取り出すと、それを助手席へ渡した。助手席のわたしはそれを素直に受け取ると、彼の携帯を感覚に任せて操作していく。薄っぺらいiPhone。ミュージックの欄には、最近の流行歌だけでなく、けっこう前に流行った曲なんかもぎっしりと詰まっていた。

「あ、わたしこれ好きだったんですよね」

そう言いながら、曲目の欄に指先で触れる。十年ほど前の、いわゆる懐メロだ。

イントロが流れ出し、この穏和な車内を彩っていく。ちょっと古臭いシンセサイザーの音。そしてリズム良く刻まれる言葉は、ラップ調。まさに絶妙だ。このサウンドを聴いて育ったわたし達ゆとり世代の耳は、あっという間に酔いしれていく。小さな車内は瞬く間もなく、ミュージックボックスとなった。

「おー、選曲やるじゃん、竪川」

ハンドルを握るドライバーの彼が、音楽に合わせてちょっとだけ口ずさむ。

「この歌めっちゃいいよねー。俺まじでよく聴いてたわ、これ」

わたしもですよと言い返すなり、自分も彼と同じように口ずさんでいく。そして思い返す。

この曲を聴いてたあの頃。あの頃のわたしといえば常に、自分のことだけに一生懸命。そして目で見た世界だけを美しいものだと信じてやまなかった、そんな子供の頃。父自慢のメルセデスに乗せられ、小さな瞳にいつの日か、同じこの伊豆の景色を映した気がした。その同じ景色の中を駆け抜けながら、思い返すのは母との些細なやりとりだった。


「ねえ、ここの海きたないね」

母に手を引かれて歩いた海岸は、今まで見てきたものとは違っていた。

「そんなことないよ、たしかにグアムとかよりはそうかもしれないけど、全然綺麗なんだから」

明らかに自分がこれまで認識してきた、海ではなかった。色はとてつもなく深いブルー。魚の姿は、ちょっと入っただけでは到底お目にかかれそうにもない。吹く風も、さほど心地の良いものじゃなかった。そして何と言っても、この薄汚い色の砂。波の寄せるグレーの砂は、泥団子作りに欠かせない、そんな小学校のお砂場の砂に、似ていなくもなかった。

まさしくこの海が、わたしが初めて見た、日本の海だった。

この海岸で、とびっきりの笑顔ではしゃぐ家族がちらほらと映る。その中には、同じくらいの歳の子たちもたくさんいた。

思わず、軽蔑した。わたしはこんな海なんかよりも、もっともっと綺麗なエメラルドグリーンの海を見てきた。ここにいる人たちは、綺麗な海を知らないで生きてるのか。ここを綺麗な海だと思っているのか。

わたしがそれまで見てきた海は、色や風から、そして踏み歩く砂まで、何から何まで美しいものだった。柔らかい真っ白な砂に、遠くまで広がるエメラルドグリーンの海。横たわり、白い波しぶきを小さな背中に感じながら、高いヤシの木が木陰を作ってくれるのを待ち焦がれる。時折ちょっとだけ遠くへ泳ぎ、顔を突っ込むと、辺りには小さな熱帯魚が優雅に泳いでいた。わたしはまさに、そんな海だけを見てきたのだった。

空港関係の仕事に就く父の特権と言うべきか、わたしが連れられた海は、ハワイやサイパン、グアムなどといった、太平洋屈指のリゾート地ばかりだった。記憶の中では、日本の所謂海水浴場へ足を運んだのは、この伊豆が最初で最後だった気がする。海と聞いて思い起こすのはいつだって、真っ白な砂浜に打ち寄せる透明な波だった。

伊豆の海をきたないと称した幼いわたしは、それでも海を気に入り、楽しんだのには変わりなかった。両親がちょっと目を離した隙に、海の果てを見つけてみたくなって、兄と一緒に遠くまで行ってみたり。そして方向が分からなくなって、父に大声で名前を呼ばれ海岸に戻ったあと、海の家で買ってもらったカスタードプリンを食べたり。カップに入った市販のカスタードプリンだったけど、その時はそれがとてつもなく美味しく感じた。

そんな一瞬一瞬を過ごしながら、ついさっきまでこの海で楽しむ人たちを軽蔑していたことなんて、忘れていく。そして近くの旅館に一泊したわたしたちは翌日、わたしの希望で水族館へ行った。後日父が印刷した写真には、なんの飾り気もない笑顔を浮かべたわたし達が、当たり前のように写っていたっけ。


その時と同じような笑顔を今、この一家は同じ一枚の写真の中で浮かべることができるだろうか。わたしはここ何年か、何度かそう自分に問うことが多くなっていた。そしてその答えは、どう考え直しても、ノーでしかなかった。

いつの時もひと言が足りず、心は離れ、自分の気持ちを押し殺しながら生活するのが当たり前。そんな家族へと変貌してしまったのは、両親のせいだけじゃない。自我もなく、両親の喧嘩を耳にしながらただ泣くことしかできなかった、わたしのせいでもない。

薄汚い砂にまみれ、プラスチックのカップに入ったカスタードプリンをおいしいと思えることよりも、新車のメルセデスを走らせたり、エメラルドグリーンの海に潜ったりする回数のほうが多かったわたしたちには、きっと何かが欠けていたんだ。たとえばそれは、もうちょっとだけでいいから、互いを認める力だとか。当たり前のようにやってくる日々を、当たり前なものとしか捉えられなかったことだとか。小さな不満すらも、言葉にできなかったことだとか。きっと、ほんの小さなことなんだろう。

それでもその欠けた小さななにかを見つけ出せずに、わたしはここまで成長してしまった。それが、果たして何だったのか。具体的に見つけられないまま、わたしは仮にもオトナになってしまったのだ。来月で、ハタチ。オトナに成りきれていないまま歳を重ね、気付けば知らないうちに、アルバイト仲間とこの同じ景色の中にいるのが現実だ。

どう考えてもいまの自分は、精神年齢が実年齢についていけていない。そんな気しかしなかった。こんなわたしは果たして、オトナになれるのだろうか。その「オトナ」の基準すら、どこにあるのかは分かっていない。それでもきっと、今よりももっと、いいかんじにはなれるはず。たとえば、笑顔ひとつで誰かとなにかを解り合えるような、そんなコミュニケーションがとれるようなオトナ。当たり前にやってくる日々に、感謝の気持ちを持てるようなオトナ。そんなオトナに、いつかはなれるはず。そう信じたかった。そう信じてみたかった。


それにしても懐かしい、この曲。音楽はタイムマシンだとはよく言ったものだと思う。影も形もないこの音楽というのは、どんな時もわたしを特別な空間に閉じ込める。それが古いものであれ新しいものであれ、わたしたちの日常を彩っていくのには変わりない。だって、音楽をなにひとつ聴かずに大人になっていくひとなんて、いるわけがないもの。テレビやラジオをつければいつだって音楽は流れているし、お店や施設へ入ったって、何かしらの音楽がその場を色付けている。その音楽を背景に見た景色や、その景色の中ですぐ隣にいた誰かを忘れさえしなければ、記憶はたちまち思い出という名の特別なものになる。

そんなタイムマシンに吸い込まれたわたし達を乗せて、赤い伊豆ナンバーは海沿いを下る。すると、ちょっと頼りないドライバーが、ふいにウィンカーを左に出した。

「どうしたんですか」

「…ちょ、一回停めるぞ」

「え、なんで」

「やばい。迷ったかもしんないわ、ごめん」

そう言うなり車を一時停止させた彼は、大したことなさそうにカーナビを見つめた。しかしカーナビは年季の入ったものなのか、現在地は迷うことなく、真っ青な海を差している。

「ダメだなー、使えねえ。竪川ちょっと、マップ開いてくんない?俺の携帯でいいから」

「あ、わかりました」

携帯のミュージックのページはそのままに、マップを開く。後部座席から聞こえてくる、三人分のうっすらした寝息を耳にしながら。

「開きましたよ」

「さんきゅ」

「でも現在地が分かんないですけど、どうしたら」

「GPS機能オンにすりゃいいんよ」

彼はそう言いながら、わたしの手元から自分の携帯を奪った。慣れた手つきで操作しては、カーナビと照らし合わせている。

そんな彼を横目に、わたしはどこか手持ち無沙汰な気持ちになっていた。自分の現在地すらも把握できないわたしには、これから何が出来るのだろう。こんなネガティブな考えが炸裂してしまうのは、物心ついた頃からの自分の悪い癖だった。

だからといって、自分にできることなんて分からない。それを挙げるには相当の時間を要するだろう。そして今日までのわたしはどうやって生まれたのか、なんて考えてみる。

積極性のカケラもないほど地味で、暗い性格だった、高校生の頃。かろうじて部活には入り、素敵な友人たちにも恵まれたが、いつも与えられるばかりで、自分からは何一つ成し遂げたこともなかった。学校にいても、満たされない。家へ帰れば両親や兄の喧嘩に耳を塞ぐ。塞ぐことしかできない。そんな自分が嫌だから、一人の時間を何よりも愛した。

そんなわたしが唯一抱けた夢こそが、理想の大学進学だ。生まれて初めて本気で成し遂げたいと思う目標に出会った。行きたいと思える大学に進学し、そこで新たな友人と出会う。サークル等にも積極的に参加する。アルバイトもちょこっとだけする。そんな理想のマジメな大学生像だけが、みるみるうちに完成していった。勉強に息詰まると、志望大学のパンフレットを何度も読み返したものだ。

結果は、合格。友人にも恵まれ、マジメなサークルにも入った。まさになりたい自分になれたってわけだ。派手な人種の多いアルバイト先ではどうも自分を出すことがなかなか出来ず、苦しい日もある。それでも、そんな第一歩を踏み出すことに成功した。

しかし今の自分は、こんな一年前とは打って変わった自分になっていた。大学のサークルは一年も経たないうちに辞め、その代わりに生活の主軸となったのは、文句を言いながらも通い続けているバイト。貯めた金で、友人たちと遠出することが何よりも幸せ。そんな自分を不安に思いながらも、色んな場所へ行き、色んな景色を見て、この一年で今のわたしは生まれた。そんなわたしのことは、嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど、思い描いた未来との違いを感じ、やるせない気分になることは多かった。バイトを辞めたいと思うのも日常茶飯事で、それでも辞める度胸もないから、ただ此処にいるだけ。なんの抑揚もない風に、身を任せているだけ。

きっと、そうだ。そんなんで大人になって、いいのだろうか。辿りつける場所は、あるのだろうか。

「な、竪川」

気付くとドライバーは、しっかり浜辺に車を走らせている。おまけに車内のBGMも変わっており、さっきまでのラップ調は、カッコイイ洋楽バラードになっていた。変わらないのは時折耳に入ってくる、うしろの三人分の寝息だけだった。

「おまえさ、俺がバイト卒業してったらさ、哀しい?」

いきなり、何を言い出すのか。ちょっとだけ笑ってしまった。

「え、なんでいきなりそんなこと」

「いや、なんかさ。ほら、あと二ヶ月ぐらいだろ。俺はめっちゃ哀しいけど、他のひとからしたら、どんなかんじなんだろと思って」

「哀しいですよ」わたしは、何も深く考えずにそう言った。「そりゃあだって、これまでほんとにお世話になりましたし。先輩いないバイト先って、どうなるのかなって。まだちょっと考えられないですもん」

これが、今湧き上がる気持ちそのものだった。わたしはちょっとだけ、なにか特別ないい言葉が返ってくるんじゃないかって、期待してしまった。

しかし彼は短く、そっか、とだけ言った。クールに見せたいのか、それとも、言葉を探す時間がなかったのか。分からないけど、夜の海岸沿いを走らせる彼は、とりあえずいつもよりは頼り甲斐がある。常に、前しか見ない。一方通行の小さな路地でも、集中力を切らさないように必死なようだった。そんな彼をなぜか気のせいだと捉えたくなり、いつものノリで彼からのツッコミを欲してみる。

「先輩いなくなったら、悪ふざけできる相手いなくなりますしねー。いつもの茶番通じる人いないのは辛いですもん」

しかしわたしのことばに、反応はない。今日はやっぱり、なにかが違っているようだ。

「先輩だって、わたしみたいなヘンな人とそんなに会える機会なくなるでしょう」

「うん、そうだな」

ようやく返される言葉も、なんだか味気ない。「てかうちのバイト先さ、ヘンなヤツ多すぎるよな。竪川ももちろんその一人だけど」

「先輩のほうがよっぽどヘンだと思いますけど」

は?うるせえよ。竪川なんかに言われたかねえよ。

そう言うと思っていた。いつも通りの、アホな笑い声が似合う彼を引き出そうとしたのに。

しかし、いつもバカ笑いと共に返ってくるようなそんな台詞は、なかった。その台詞の代わりに、実際に彼の口から出た言葉は、こんなんだ。

「まあね」

それからしばらく、地味に沈黙。洋楽のアルバムも聞き終えてしまい、なんともいえない「無」な空気が、ふたりの間を流れているのを感じる。

普段はお喋りで破天荒な彼が、沈黙のなかでせっせと道を急いでいるなんて。本当に、違和感を感じないわけがない。むしろ、違和感しかなかった。しかしそんな違和感を抱きながらでしか、次の世界へ向かうための卒業はできないのかもしれない。そんなことを思い、なぜだか分からないまま哀しくなった。当たり前のように笑って過ごした環境にもう二度と、戻れないような気がして。彼がそこまで考えているのかは分からないけれど。

ミラーを気にしながら、彼が言う。

「ま、俺は卒業してからも遊びに行くだろけどなー」

そして変わらぬこの空気を切り裂くように、 いつもの笑顔に戻って言った。

「おまえ、辞めたくても辞めんなよ、バイト。絶対続けたほうがいいよ」

「…え」

「おまえのことさ、最初はよく分かんないやつだと思ってたけど、話したら色々分かってさ、喋っててまじで楽しかったからさ。もっと他のやつにも、自分のイイトコ出せばいいのにって思うんよ。勿体ないから辞めんなよ。むしろ辞めたらコロス」

そう言ったいつもの笑顔には、わたしの知らない彼が宿っていた。というよりそれは、わたしだけが知っている彼の表情なのかもしれなかった。

わたしは何も返せず、急いで言葉を探した。しかし頭の中には、何一つ気の利いた言葉が出てこない。ベラベラとたわいのない話をする仲であることがウソのように、再び沈黙を生んでしまう。それでもたしかにこれは、今までの約20年の中では感じたことのなかった、どこか心地の良い沈黙だった。心の中が、くすぐったい。誰かに好きだって告白された時のくすぐったさとはまた違った、ピリッとくるこの心地良さ。そして彼にちょっとだけ心を見透かされていたと思うと、なぜだか緊張する自分に気付く。

恋とは違う、この緊張感。生まれて初めて感じたこのくすぐったさに、もう少しだけ浸っていたかった。

「てかもう、着きそうなんだよね」

赤に変わったばかりの信号を無視して、アクセルは踏んだまま。緊張を破った彼は、元の彼に戻っていた。

「長かったなー。結局寝てないの俺と竪川だけじゃん。みんな寝てんだろ」

後部座席を振り返り耳を立てると、まだ若い寝息たちは活発だった。

「…寝てますね。てか先輩寝たら居眠り運転になっちゃいますもん」

「竪川も少しは運転しろよ、免許あんだろ」

「わたしはペーパーなので」

「ふざけんなよー。なんのための免許だよ」

笑いながらも赤信号で今度はちゃんと止まるなり、そして無言で再び、彼はわたしにiPhoneを手渡す。それを操ってわたしが流した音楽は、やはり十年ほど前の懐メロ。こんどはとてつもなく季節はずれな、サマーソングをかけてやった。

「一月の頭にこんな夏の歌かけてる車いないわ、やっぱおまえ頭おかしいなあ」

「先輩に言われたかないですよ。海沿いだからいいじゃないですか、夏の歌でも」

「夏かあ」どこかに置いてきてしまった夏を惜しむかのように、彼が呟く。「去年みんなで花火大会行ったな」

「行きましたねー!めっちゃ楽しかった」

「今年も行こうぜ」

「まだ一月ですよ、気が早いですねー」

「夏なんて、すぐ来るだろ。絶対行くぞ」

わたしは思わず、ふう、とため息で返した。それはもちろん呆れた溜息じゃなくって、先輩らしいね、の溜息だった。

それでも。

そう、夏はすぐにやってくる。ちょっとした人生の先輩である彼は、やはりちゃんと分かっていた。

わたしの脳裏に、去年の花火大会の思い出が映る。先輩たちに連れられて川沿いの土手で、大きな花火を見上げたっけ。汚い土手に寝転んだせいで、すっかり服が汚れたのを思い出す。そんなことは気にする暇もないぐらい本当に沢山笑ったわたし達は、青春の終盤期のひとときをそこに刻んだ。わたしも彼もきっと、あの夜を忘れない。あの夏を忘れない。同じ景色を見たということを、忘れない。はず。

そしてまたもうじき、きっと夏は来る。それを、真冬の潮風は今日、わたし達に教えてくれていたのかもしれなかった。

「おい、ホテル着くぞ。起きろ」

前を向いたままで怒鳴った彼に反応して、後部座席のみんなが動き始める。全員が目を覚ましたわけではないけれど、お互いがお互いを起こし合う様子が面白い。

それを見て、わたしが笑う。彼も笑う。

当たり前にあるこの笑顔たち。当たり前のように過ごしている、この一刻一刻。その一刻を彩る、懐かしいメロディーたち。

こんな当たり前の幸せを紡いで生きていける、そんな大人になりたいと、心から願う。そんな十九歳、十一ヶ月。今の自分を忘れないために、思い出をこの音楽に託しておこう。

何年か経って、わたしはきっと同じこの音楽に耳を傾ける。今日がいつか思い出と呼べるようになったら、その日のわたしは今日のわたしに、きっと胸を焦がすことだろう。この潮風も、伊豆ナンバーの真っ赤なこのレンタカーも、この笑顔も、そしてちょっとだけ感じたあの緊張も。そのすべてがいつかは思い出になるなんて、今日のわたし達はまだ知らない。そんなことより、今を全力で楽しむことのほうが大事だし、それを実感することに向けて、加速している最中だ。

残された僅かな、十代の時間。もう二度と戻らない、十代の時間。この十代の時間より、もっともっと笑っている時間が増えている。なぜかそんな未来しか想像できない今のわたしには、うまく説明できないけれど、根拠のない自信で満ち溢れていた。

これから見るものすべてに、ワクワクできる大人でいよう。今日のことや、今のこの自分を、ずっと忘れずにいよう。

「あー、長かったなあ」

ようやく辿り着いたホテルのパーキング。降りるとやはり、冷たい冬の潮風がお出迎えしてくれた。しっかりと、潮の香りも添えて。

「まじ遠かったな」

「いや、先輩が道迷ったからじゃ…」

言いかけたところで、バコと頭を叩かれる。

「でもいい旅だったろ?海沿いで景色もよかったしさ」

わたしは、なにも言わず頷いた。首を大きく縦に振って、誰が見ても肯定しているのが分かるように。

「なんだかんだで着いてんだからいーだろ。時間かかってもさ、迷ったら来た道戻れば着くんだよ」

そうか。迷ったら、悩まずにまずは来た道を戻ればいい。どんなに時間がかかっても、戻ったその地点からまた進み始めれば、きっと目指す目的地に辿り着けるはず。

なんの気なしに言ったであろう彼の言葉を、いつかの自分に言ってあげたくなって、思わず心の中で解釈し直した。

なんだ、この人いいこと言えんじゃん。

このちょっとした尊敬も、思い出になる。

まだまだこの旅は、始まったばかりだ。

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伊豆ナンバーは、いつかの夏を乗せて 堅川 ゆとり @nanjichan

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