三章⑦ 決戦

 ※


 スノウランドの冬季は常に分厚い雲に覆われていて、太陽や月の顔が顔を覗かせることなど滅多に無い。しかし、今宵は違う。

 銀色の光に満ち満ちた満月が、自身の光で雲を打ち払い、夜空と雪の大地を青白く照らしていた。


「……この雪原の向こうでは、猛吹雪によって軍が翻弄されているというのに。これは一体どういうことでしょうね。月の神は気まぐれだというけれど、闇をつかさどるあの方までわたくし達を嫌うのかしら。……それとも」


 ふわふわと浮遊する美女は闇色のシャボン玉を指先で弄りながら、気だるげに長い髪を払う。


「貴方の無様な死に様に余程興味をお持ちなのかしら。……ねえ、フロスト?」

「出来れば、前者であって欲しいけどな」


 雪原の夜は、思っていたよりもずっと静かだった。フロストはスノーモービルのエンジンをかけたまま、ゴーグルを額に押し上げる。

 うんざりする程の虚無を侍らせているのかと思えば、居るのはキュリ一人だけ。虚無という獣は元来群れをなすものだが、これは何かの罠なのだろうか。キュリの方も、襲い掛かってくる様子は今のところはない。


「よく来ましたわね。軍を呼んだりするから、今から貴方の村におしおきをしに行こうとしていたところですのよ?」

「どうせ、吹雪が静まるまで軍は動けねえよ。そんなに、軍が恐いのか?」

「恐いのでは無いわ。軍は美しくない……わたくしは、醜いものが嫌いですの」


 一番大きいシャボン玉を人差し指で突き、キュリが言う。フロストは彼女を見据えたまま、スノーモービルのハンドルバーに取り付けられた装置の摘みを弄る。

 キュリは、フロストのこの行動に気が付いていないらしい。此方を緩慢に振り向いて、真っ赤な唇を指で撫でる。


「貴方はご存じ? 人間の子供が壮大な夢を思い描くのと同じように、虚無も夢を抱くことを」

「夢?」

「わたくしの夢は、わたくしの周りを美しいもので埋め尽くすこと。花や宝石、ドレスに靴。どれだけあっても良いですわ。それに、わたくしの愛する僕も美しくして差し上げたいの。スイは……わたくしの一番可愛い子でしたのに」


 僅かに垣間見える苛立ちに、呼応するかのように大蛇が唸る。もたげられた大きな頭を撫でながら、キュリが再び穏やかな声色で続ける。


「勘違いをしないで頂きたいので言わせていただきますけど、あの夜に村を襲った虚無はわたくしとは無関係ですわよ。電気が消えたことで我を失った下等な虚無が、あの騒ぎを起こしたのです。あれは、美しくない」

「俺にしてみれば、どっちでも同じなんだけどな」

「貴方は美しいわ、美しいわ」


 うっとりと、キュリが言う。


「月明かりに煌めくその銀の髪も、お顔立ちも戦う姿も全て美しいわ。本当は殺戮者の貴方を醜く、惨たらしく殺して差し上げようと思っていたのですが……気が変わりましたの。ヒトが一番美しい姿をご存じ?」

「…………」

「わたくしの足元に跪き、涙を流しながら許しを懇願する姿ですわ」


 フロストが何も言わないでいると、キュリは勝手に続けた。


「絶望に屈し、せめて命だけはと請う姿……それが一番ヒトの美しい姿だと、わたくしは信じておりました。でも、今はそうは思いませんの。気がつきましたの。美しすぎるものは、時にわたくしの心を大きくかき乱す」

「へぇ、虚無から心なんて言葉が出てくるなんて、思わなかったぜ」

「嫉妬という言葉も存じ上げていましてよ? ……そう、これは嫉妬ですわ」


 突如、キュリの指がシャボン玉を弾く。軽く突いたようにしか見えなかったそれは、かなりの速度をもってフロストの方に向かう。

 だが、直進するだけの物体は的でしかない。フロストはブランシュを引き抜き、一発でそれを撃ち抜く。こびり付いた血を拭うのに苦労したが、整備に不備は無く動作に問題は無い。右腕も今のところ、なんとかなりそうだ。

 粉々に割れたシャボン玉は、夜風に攫われて跡形も無くなる。


「フロスト、どうして貴方はそんな目をしていらっしゃるの?」


 キュリの声色が変わった。今までは甘ったるい猫なで声だったそれが、冷たく素っ気ないものに。陶酔していた紅の瞳が、狂気に煌めく血色に変貌する。


「三日前の貴方はとてもわたくし好みでしたのに。今夜の貴方の姿、そしてその瞳……どうして、そんなに強く輝くことが出来ますの!?」


 あれ程の絶望に、何故打ち勝つことが出来ますの!? キュリの周りに漂っていたシャボン玉が、次々とフロストを目掛けて飛んでくる。左手もネラを抜き、その全てを撃つ。


「腹立たしいわ、その瞳……まるで忌々しい太陽のようね」

「割と間違ってねぇかもな。太陽は闇を払う光、テメェらの天敵ってところは同じだろ」

「そうですわね。でも、貴方は太陽とは違う。手の届く場所に居て、簡単に奈落の底まで引きずりおろすことが出来ますわ」


 音を立てること無く、キュリがふわりと雪上に降り立つ。すると、長く伸びる影がぞわりと蠢き出す。


「……何、だ?」

「虚無が生まれる瞬間は初めて? 大抵は一筋の光も差さない闇夜に虚無は生まれるのですが、わたくしは自由自在に生み出すことが可能ですのよ」


 フロストはちらりと、視線だけ手元のメーターの一つを見やる。速度や燃料など様々な計量器が並ぶ中、一つだけぐんぐん数値を上げているものがある。


「そういえば、あの夜どうしてアンナにトドメを刺さなかったんだ。目の前に居たんだろ?」


 咄嗟に思い付いた疑問で、時間稼ぎを狙ってみる。あからさま過ぎるそれに胸中で舌打ちをするが、意外にもキュリの反応は大きかった。

 整えられ眉をぴくりと上がり、唇がわなわなと震える。


「アンナ? ああ……あの金髪のトナカイですわね。忌々しい……あろうことかあの女わたくしの顔に、女の顔にですよ!? 銃を向けて引き金を……もちろん避けましたけれど。……ああ腹立たしい! 思い出したくもない!!」


 今までの落ち着きはどこへやら、ヒステリックに喚くキュリ。なるほど、あの花火はフロストに助けを求めるためではなく、ただ咄嗟に近くにあった信号弾を撃っただけらしい。


「わたくしがわざわざ手を下さなくとも、放っておけばくたばるかと思っておりましたのに。そう、生きていますの……なら、あとでたっぷりとお礼をしなくてわね」


 また一つ、楽しみが出来ましたわ。くつくつと妖しい笑み。


「でも、まずは貴方から片付けて差し上げますわ。本当ならこの手だけは使いたくないのですが……仕方ありませんわね。フロスト、貴方を今度こそ絶望の闇に突き落として差し上げるわ」


 もう一度、手元のメーターを見やる。不思議なものだ。これまでの自分なら、安い挑発だと知りながらも心の奥底では怒りに震えていた。でも今は違う。

 冷静さを保つことで、あらゆることに思考が行き届く。今からキュリがやろうとしていることは何か。今朝、ベッドから起きたばかりの自分が出来ることは何か。

 虚無を皆殺しにするのではなく、自分がと村の皆を護る為に。意識の違いで、ここまで変わるものかと素直に驚いた。


「俺には、テメェらの方が馬鹿だと思うぜ」

「……何ですって?」

「ああ、テメェらは馬鹿だな。アンナに手こずるようなら、俺には一生かかっても勝てねぇよ」


 ハッタリだ。でも、フロストの思い通りにキュリは怒りの矛先を此方に向けた。


「つい先日、言葉もわからない雑魚に殺されそうになっていたくせに、よくそんな口が利けますわね」

「なら、試してみるか?」


 メーターの赤い矢印が最大値を振り切る。間に合った。スノーモービルから飛び降り、キュリを睨む。


「わたくしは構いませんわよ、フロスト・ヒューティア。絶望に屈し、わたくし達虚無に跪きなさい!!」


 不気味に波打つ影を残し、キュリが軽やかに地面を蹴り後方に跳ぶ。真っ黒な影が徐々に広がり、やがて沸騰した水のようにぼこぼこと泡立つ。

 泡は弾けることなく切り取られ、雪面を転がりやがて様々な生物の姿となり。甲高い産声を上げる虚無の全てが、ぎょろりと赤い目玉をフロストに向けた。


「なっ、何だこの数!?」

「うふふっ、流石の貴方でもこんな大量の虚無を相手にしたことなんて無いでしょう? 機関銃でも無い限り、貴方は蟻に集られる死骸のように食い尽くされるだけですわよ」


 キュリの言う通りだ。ブランシュとネラでは、この数を処理するよりも先に弾丸が底を突く。もしくは、身体の方が先に悲鳴を上げるだろう。

 でも、それならまともに相手をしなければ良いだけの話。キュリは、フロストが本当に焦っていると思い込んでいるのだろう。既に勝ち誇った嘲笑を顔面に飾り、右腕を振り上げ叫ぶ。


「さあ、行きなさい!! そこの愚かで生意気なサンタクロースの坊やを、我々の闇で染め上げてしまいなさい!」


 キュリの声と同時に軽く千体は超えたであろう虚無の赤子達が、フロストを目掛けて一斉に襲い掛かる。生まれたばかりとあって、知能は本当に赤子並み。親――と言って良いものなのかはよくわからないが――であるキュリの言い付けをそのままに、数を武器に真っ向勝負を仕掛ける。

 しかし、フロストはおもむろにブランシュをホルスターに押し込むと、空いた手でスノーモービルの装置を作動させる。

 銃声を圧倒する、凄まじい轟音。それはまるで、天から降りる竜巻の真ん中にいるかのような凄まじい風の唸りであった。


「……吹き飛べ!!」


 本来は、スノーモービルや車両が山道などの雪掻きをされていない場所を走る為の簡易な除雪装置だった。しかし戦士として、様々な土地を巡るフロストのスノーモービルに取り付けられた風のスピネルは通常よりずっと強力である。

 スピネルの中には、自然界のエネルギーを取り込むことで能力を増すものがいくつかある。風はその中の一つで、フロストが繰り返し確認していたのはスピネルが取り込んだ風量を表すメーターだ。

 装置の摘みを調整し、溜め込んだ風を全て前方に居る虚無にぶつけてやったのだ。凄まじい空気の塊は渦を巻き、横に寝かせた旋風となり数多の虚無を巻き込み吹き飛ばす。

 熊や虎のような大型の虚無に巻き込まれ、そのまま息絶えるものも多い。こんな使い方は初めてだが、思っていた以上に使えるようだ。


「なっ、まさか……そんな」

「おお、これ意外とすげぇな」


 なんて、素直に感心してみたりして。再びブランシュを手に、もはや虫の息となった一体のトカゲの姿をした虚無を踏みつける。

 既に虫の息だったトカゲが、小さく呻き声を上げる。


「ギッ、ギィイイ!」

「テメェら虚無に跪くなんて死んでもゴメンだが、足蹴にするのはやっぱり気分が良いな?」


 分厚いブーツの底が食い込み、やがて水っぽい破裂音を最後に漆黒のトカゲは永遠に沈黙した。

 生まれてから最初となる暴力を間近に見て、幼い虚無が恐怖に震える。


「……さて、遊ぶのもここまでにするか」


 まだ数多く残る虚無に、ブランシュとネラを向ける。


「俺は、テメェらなんかには絶対負けねぇ」

 劣勢であることに変わりはない。しかし、フロストの表情に焦燥や困惑は微塵も無い。

 そこに居るのは、自ら戦うことを決めた雄々しく孤高の若き戦士。


「村の皆が受けた痛みや悲しみを、今から百倍にして返してやるよ。謝ったって許してやらねぇ……覚悟しろよ」

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