第二話 聡史くん鶸松寮管理人体験始まる

翌週、月曜日。聡史は就活時のようなリクルートスーツではなく普段着で、自転車を利用して夕方六時半頃に鶸松寮の玄関前へやって来た。石段の両側には自転車も走行出来るバリアフリーの通路があり、ここまで辿り着くことが出来たのだ。

いよいよ今日から俺も、就業者の一員になるのか。上手くやっていけるかなぁ?

 専用の駐輪場に自転車を置いた聡史はわくわくしながらも恐る恐る、玄関入口横のチャイムボタンを押した。聡史の心拍数は高まる。

 数秒後、住民の誰かによって扉がガラガラッと開かれた。

「!!」

聡史の心拍数はさらに高まる。 

「おう、聡史ちゃん、いらっしゃい」

 出て来たのは、みつゑさんだった。

「いらっしゃーい、聡史くん。私、首を長ぁーくして待ってたよ」

「いらっしゃいませ、聡史お兄さん」

「……いらっしゃい」

 寮生の三人もすぐ後ろ側にいた。聡史を温かく迎え入れる。

 ミャァ~ン♪

三毛猫の萬藏も、歓迎の言葉を述べてくれたような気がした。

「あっ、きょっ、今日から、お世話になります、碓永聡史です。皆さん、よろしく、お願い致します」

 聡史がかなり緊張気味に挨拶すると、

「聡史ちゃん、そんなに畏まらなくても」

「聡史くん、もっとリラックス、リラックス」

「こちらこそよろしくお願いしますね、聡史お兄さん」

 みつゑさん、茉希、モニカは優しく微笑んだ。

「聡史ちゃんが実家から送った荷物はもう届いてるよ。そのままの状態で聡史ちゃんのお部屋で運んでおいたから」

「お気遣い、ありがとうございますあの、おばあちゃん。こちらを……」

聡史はみつゑさんから提出を求められていた履歴書と健康診断書に加え、大学の卒業証明書と成績証明書も手渡す。

「おう、すまないねえ。じゃ、これも合わせて学校に送っておくよ」

 みつゑさんは軽くお辞儀して、ありがたく受け取った。 

「優をたくさん取ってますね。すごいです聡史お兄さん」

 成績証明書を覗き見た友子が褒めてくる。

「いっ、いえ。それほど、たいしたことじゃ……」

 聡史は自分を卑下するものの、

俺は優の評価もわりと多く取得してるけど、大学の成績は講義毎の担当教官独自の判断で決めているからな。講義に参加した人全員に優を与えてくれる教官もけっこういるし。大学で優の評価を取得することは、中高の通知表で5段階評価の5、10段階評価の9、10を取得するよりも遥かに簡単なことなんだよ。

 このことは黙っておいた。

「聡史ちゃん、今から玄関前で鶸松寮をバックに記念撮影するよ」

 みつゑさんはそう告げて、デジカメを聡史の前にかざす。

「俺、写真はあまり……」

「まあまあ聡史ちゃん、そう言わんと」

「聡史くん、真ん中に並んでーっ」

「わわわ」

 戸惑う聡史は茉希に腕を引っ張られ、玄関出て少し進んだ所に並ばされた。

みつゑさんは鶸松寮の全景が写る位置まで移動し、デジカメを構える。みつゑさんから見て聡史の右隣に茉希、左隣にモニカ。モニカの左隣に詩織。茉希は萬藏を抱きかかえている構図だ。

「そんじゃ、撮るよ。はいチーズ」

 みつゑさんはそう伝えてから約三秒後にシャッターを押した。これにて撮影完了。

「すごくきれいに撮れてるね。さすがお婆ちゃん」

 茉希はみつゑさんの側へ駆け寄り、保存された画像を見て感心する。

茉希と萬藏は爽やかな笑顔。他の三人は普段通りの素の表情であった。

「おら、最新式の機材も難なくこなせるからね。さて、もうすぐ夕飯時だ。聡史ちゃんのために、出前を取っておいたよ。近くの〝ウリ坊寿司〟っていうお店で」

「ありがとうございます。俺のために」

 みつゑさんの計らいに、聡史は深く感謝した。

 すでにダイニングテーブルの上に夕食が並べられてあった。

大きな舟形のお皿に乗せられた鯛やマグロ、イカ、ウニ、伊勢海老などの刺身盛り合わせ。他に大皿に盛られた中華料理、ポーランドの郷土料理で挽き肉、マッシュポテト、チーズ、キノコなどを半円形の生地に包んで焼いた、餃子に似た形の【ピエロギ】。デザートに砂糖菓子の金平糖や、ポンチキなんかも用意されていた。

「ピエロギと、わたしの故郷のお菓子で、薔薇のジャムなどを使った穴のないドーナッツで、日本語に訳すと『つぼみちゃんたち』となるポンチキはわたしの手作りです。みつゑお婆さんもかなり手伝ってくれましたけど」

 モニカはちょっぴり照れくさそうに伝えた。

「そうなんだ。めっちゃ美味そうだ」

 物珍しさも相まって、聡史はモニカの手料理に目が釘付けになる。

時計回りに聡史、茉希、モニカ、詩織、みつゑさんという座席配置で、聡史と詩織が向かい合う形となった。

 萬藏は床に並べられた鯖缶と市販のキャットフードの前に座る。

「ほな手を合わせて」

 みつゑさんがそう告げると、寮生の三人はすぐに両手を合わせた。

「あっ……」

 聡史はワンテンポ遅れてしまった。

「聡史ちゃん、そう慌てんでもええんよ」

 みつゑさんは優しく微笑む。

「ほなおあがり」

「「「いただきます」」」

 こう告げると寮生三人、

「いっ、いただき、ます」

 ミャーォン。

そして聡史と萬藏、みつゑさんも食事に手をつけ始める。

「聡史ちゃん、遠慮せずにどんどん食べな」

「はっ、はい」

 俺、女の子達に囲まれて食事をするのは人生初体験だよ。

そんな理由からか聡史はけっこう緊張していた。

「聡史お兄さん、これどうぞ」 

 モニカは、聡史の前に並べられていた小皿に餃子とシューマイをよそってくれた。

「あっ、どうも」

 聡史は軽く会釈する。

「聡史くん、大トロだよ。すごく美味しいよ」

 茉希もよそってくれた。

「あっ、ありがとう」

えっと、刺身醤油。あっ、すぐ前にあった。

 聡史は左手を伸ばし、刺身醤油の瓶を取ろうとした。

「あっ、ごめんね」

 そのさい、同じく取ろうとしていた詩織の手の甲に触れてしまい慌てて謝る。

「!!」

 詩織はびくっとなって、反射的に手を引っ込めた。さらにその子は俯いてしまった。

どうしよう、嫌われちゃったかな?

 聡史はとても気まずい気分に陥った。

「聡史ちゃん、飲み物どれでも好きなのを選んで飲みな」

「はい」

 ダイニングテーブルの上には烏龍茶、オレンジジュース、メロンソーダ、レモンサイダー、コカコーラのペットボトルも置かれてあった。

 聡史は慎重な動作で烏龍茶のペットボトルを手に取り、コップに注ぎ入れる。

「ねえ聡史くん、今彼女はいるの?」

「いや、いないよ」

 茉希からの突然の問いかけに、聡史はびくりと反応し慌てて答える。思わず烏龍茶をこぼしそうになった。

「意外だね。聡史くん格好いいのに」

「いや、そんなことないと思う」

 これは茉希ちゃんからの私と付き合って下さい告白フラグか? いや困るよ。俺、女の子とどう付き合っていいか分からないし。

 聡史は戸惑い、意識を移そうとウニの刺身に手をつけた。

「聡史お兄さんは、大学では何を専攻されていましたか?」

 今度はモニカが質問してくる。

「数理科学だったよ。卒研は自然現象とかを微分方程式で数理モデル化して、ヤコビアンの固有値や、平衡点の安定性を調べて、解の挙動を分析するみたいな感じだったな」

「それは素晴らしいです」

「そっ、そうかな? 俺の卒研は同じ学部生のと比べて一番レベルが低かったと思うけど」

 尊敬されたようで、聡史は少し照れてしまった。 

「やっぱり聡史くんは賢い人だったね。私の目に狂いはなかったよ」

 茉希もかなり嬉しがっているようだった。

聡史はこのあとも緊張気味にみつゑさん、茉希、モニカと会話しながら食事を進めていった。

 みつゑさんはよく噛んで食べていたためか、みんなの中で一番後に食べ終えた。食後の煎茶を啜って一息ついて、

「ほな手を合わせて」

この合図。寮生の三人はすぐに手を合わせる。

「あっと……」

 聡史はまたもワンテンポ遅れてしまった。

「聡史ちゃん、慌てんでもええよ。ごちそうさま」

 みつゑさんはにこやかに微笑みかける。

「「「ごちそうさまでした」」」

寮生三人、

「ごちそうさま、でした」

聡史もワンテンポ遅れて食後の挨拶。萬藏はすでにどこかへ消えていた。猫らしく気まぐれなのだ。

「じゃあ、お皿持っていくね」

 茉希は使った食器類を何枚か重ねて両手で持ち、台所の流し台へ運んでいく。モニカと詩織も同じようにした。夕飯後の食器洗いは、いつも寮生の三人が担当しているそうだ。毎日美味しい料理を作ってくれるみつゑさんに感謝の意を込めて、という理由らしい。

「俺も、後片付けを手伝います」

「おう、気が利くね、聡史ちゃん」

 聡史は今回、出たゴミをポリ袋に捨てる作業を担当した。

それを終えたあと、

「あっ、あのう、俺、見取図を確認して疑問に思ったのですが、ここには、男湯は、ないのでしょうか?」

 聡史は恐る恐るみつゑさんに尋ねてみた。

「おう、今は女湯オンリーさ。旅館だった頃は、男湯もあったんだけどね。寮にするさい女湯にまとめて広くしたのさ。ついでにトイレもね。だから聡史ちゃんも気兼ねせずに堂々と女湯を使いな」

 みつゑさんはにっこり笑う。

「……」

 聡史はこの寮が女性専用に改築されている点を、当然のように不安に思った。

「聡史くん、お風呂先にどうぞ。廊下突き進んで一番奥の別館だよ」

 茉希はロビー奥を手で指し示す。

「寝巻きも用意してあるよ。脱衣場にタオルとセットで置いてあるから」

 みつゑさんは伝える。

「ありがとう、ございます。俺、寝巻き、持って来ているのですが」 

「まあ、今日はあれを着な。荷解きはあとにして」

「はい」

 聡史はやや重い足取りで廊下を突き進み、別館の大浴場へと向かっていった。

 おう、蛍だ! 山が近いだけはあるなぁ。

 途中、中庭の前を通りかかった所で何匹か光っているのを見つけ、ちょっぴり感激。

 味噌田楽とえび天と……巻き寿司と焼き魚を模った休憩用椅子まであるぞ! これまで和食仕様とは。

 直後にこんな発見もした。庭園灯が灯されていたため桜や梅や松の木、花菖蒲、紫陽花などなどが植えられた和風な中庭の装いと、別館の外観もぼんやりとした明るさで窺うことが出来たのだ。岩を囲った人工池で錦鯉も飼われていた。

確かに外観が冷奴だな。醤油がかかってる色合いまで再現されてるのは凄い。

感心気味に別館の白い横開き扉を引いて出入口を通り抜けたあと、

本当に、入って、いいんだよな?

 女湯と書かれた暖簾の前で一旦立ち止まり、ゆっくりとした動作で恐る恐る脱衣場に足を踏み入れる。脱衣場には全自動洗濯機も設置されており、洗面台も三つ並んでいた。脱いだ服は、洗濯機横に置かれてある籠に入れるようにと張り紙に書かれてある。

聡史は脱ぎ終えると手ぬぐいで大事な部分を隠し、ガラガラッと扉を引いて浴室に入り、シャワー手前の風呂イスに腰掛けた。休まずシャンプーを押し出し、頭を擦る。

その最中、

「聡史くん、お背中流してあげるよ」

 入口扉がガラガラと開かれた。

「うわっ! あっ、あの……」

 茉希が浴室に入って来たのだ。彼女は服を着たままだったものの、聡史は当然のように慌てる。

「私、実家でもお父さんによくやってたよ」

 茉希は手に持っていたハンドタオルにみかんの香りのボディーソープを染み込ませると、聡史の背中に押し当てゴシゴシ擦っていく。真剣な表情だった。

「……」

 聡史の頬はだんだん赤みを増していき、心拍数は急上昇する。

早く出て行って欲しいな。と心の中で思っていた。

「聡史くん、気持ちいい?」

「うっ、うん」

「ここのお湯は温泉成分も入ってるから打ち身、切り傷、捻挫などにもよく効くよ。じゃぁ聡史くん、ごゆっくりくつろいでね」

 茉希は聡史の背中にお湯をかけると、こう伝えて嬉しそうに浴室から出て行った。

やっ、やっと出て行ってくれた。

 聡史はホッと一安心する。

その後も、また戻ってくるかもしれない。と警戒し、大事な部分は手ぬぐいで隠したまま髪の毛を洗い、茉希の残していったハンドタオルで体を擦り洗い流していき湯船には五分ほど浸かった。

浴室をあとにすると、そそくさ体を拭きトランクスを穿いてTシャツを着た。休まずみつゑさんが用意してくれていた藍染め浴衣の寝巻きを着込み、ロビーへと戻っていく。

「聡史ちゃん、サイズもピッタリだね。とってもよく似合ってるよ」

 みつゑさんに微笑み顔でじーっと見つめられ、

「そっ、そうでしょうか?」

 聡史は少し照れてしまう。

「聡史お兄さん、お風呂上りの一杯どうぞ」

 モニカは冷たい麦茶を用意してくれていた。

「ありがとう」

 聡史は軽くお辞儀する。

「聡史くん、湯加減どうだった?」

 茉希からの質問に、

「最高だったよ」

 聡史は満足げな表情を浮かべて答えた。

「それはよかったよ。じゃ私達も入ってくるね」

「では聡史お兄さん、またのちほど」

 自室にいる詩織を呼びに行き、寮生三人は大浴場へ。いつもいっしょに入っているのだ。

「聡史ちゃん、覗きに行かないのかい? 絶好のチャンスだよ」

 みつゑさんはにこにこ顔で問い詰めて来た。

「すっ、するわけありませんよ」

 聡史は慌て気味にやや強く主張する。

「おう、おらの思った通りの紳士だねえ」

 みつゑさんはハハハッと笑う。

「俺、荷物の荷解きをして来ます」

聡史は居た堪れなくなったのか、早足に彼に割り当てられた204号室へ向かっていった。机、布団、収納ケースといった必需品は元から用意されてあったため、彼が持って来た荷物は中くらいのダンボール三箱分だけで済んだ。そのため引越し業者に頼まず、宅配便で済ますことが出来たのだ。主に衣服と書籍と学用品が詰められてある。

その他の小さな荷物は愛用のビジネスバッグに詰めて聡史が自分で運んだ。

五分ほどで荷解きを済ませたあと、聡史はビジネスバッグからノートパソコンを取り出し、机の上にそっと置く。

(無線LANと光ネットも使えるみたいだな)

続いてACアダプタをノートパソコンとコンセントに接続した。ノートパソコンは大学時代にレポートや卒論の作成、そして就職活動で大変重宝したものだ。

聡史は繋がるかどうかを確かめるため電源を入れて、無線LANの設定をしたのちインターネットエクスプローラを起動させた。

(確かに繋がってる。メールも何件か入ってるな)

 Windows Live Mailも起動させ、届いたメールの中身を開いてみた。

(一週間くらい前にネットの応募フォームからエントリーした、アルミ製品の製造工場と、食品メーカー、広告代理店、老人ホーム、四社からの不採用通知か。俺の就職活動は、もう一応終わったんだ)

 聡史はそのメールを得意げな気分で削除した。今までは不採用通知を眺める度沈んだ気分になっていたが、今回はとても清清しい気分だった。既に就職先を決めているからだ。

(摂櫻のホームページも見てみるか)

 聡史は検索窓に『摂櫻』と打ち込み、Enterキーを押す。

するとトップに私立摂櫻女子中学校・高等学校という文字で表示されたテキストリンクが現れた。それをクリックして、そこのホームページを開く。

トップページから、聡史は進路状況という項目を開いてみた。

(過去五年間の進学実績について、東大は一人しかいないけど、京大は毎年二、三名の合格者が出てるな。阪大は十名以上、神大には二〇名以上通ってる。その他国公立大合格者数も一学年二五〇人くらいってことを考慮すると、けっこう多い。確かになかなかの名門校だな。合格者数は関学、関大、甲南、甲南女子が特に多いな。次はカリキュラムの項目を見てみるか) 

そこをクリックしようとしたら、

「聡史ちゃん、ちょいとお盆片付けるのを手伝ってくれないかい?」

 階段下からみつゑさんの叫び声が聞こえて来た。

「分かりました」

 聡史はすぐに返事をし、ロビーへと向かう。そのあとみつゑさんに台所へ案内された。

「聡史ちゃんは背ぇ高いし、これをあそこに置いてくれないかね。おらじゃ、手が届かないんでね」

 みつゑさんは食器棚を見上げながらお願いする。彼女の背丈は一四五センチほどだった。

「俺、同世代じゃ小柄な方ですよ」

 聡史は照れくさそうに言いながらお盆を受け取り、床からの高さが一八〇センチほどの所にある収納スペースにしまってあげた。

「さっぱりしたー、アイス、アイスーッ」

 ちょうどその時、風呂から上がった茉希がここへ駆け寄ってくる。

「うわぁっ!」

聡史は思わず目を背けた。 

「こりゃこりゃ茉希ちゃん、バスタオル一枚で歩いちゃいけないよ」

 みつゑさんはにこにこ微笑みながら優しく注意した。

「あっ! いっけなーい。今日からは聡史くんがいるんだった」

 茉希はてへりと笑い、くるりと踵を変えて脱衣場の方へ戻っていく。

「うわっ!」

 聡史はとっさに視線を床に向ける。茉希の桃のようなぷりんっとしたお尻が丸見えになっていたのだ。

       ☆

「さっきはごめんね、聡史くん」

 二分ほどのち、パジャマに着替えた茉希は再び戻ってくる。

「聡史さん、茉希さんがご迷惑をおかけしたみたいで申し訳ないです」

「……」

 モニカと詩織もそれからすぐに台所にやって来た。この二人は最初からパジャマを着込んでいた。

なんか、女の子特有のいい匂いが……。

寮生三人の体から漂ってくる、ラベンダーやミントのシャンプーや石鹸の香りが、聡史の鼻腔をくすぐっていた。

「聡史くん、ここの寮には、とっておきの場所があるの。私について来て」

「べつに、いいけど……」

聡史は茉希に招かれるままに大浴場へと足を進める。大浴場の浴室には、聡史はさっき入浴したさいは特に気にならなかったが裏庭へ通じる白い横開き扉があったのだ。

聡史と茉希は出てすぐの所に並べられてあった草履を履いた。

「裏庭もけっこう広いんだね」

「旅館時代はここに露天風呂があったらしいよ」

「どうりで」

「聡史くん、前方に石段があるでしょ。あそこを上っていけば、神戸の夜景が見られる絶景スポットに辿り着くの」

 茉希は手で指し示す。

浴室を出てさらに二〇メートルほど北へ進んだ所にそれはあった。

茉希を先頭に一段ずつ登っていく。数メートル置きにある外灯が足元を照らしてくれているおかげで、二人は夜道を難なく歩くことが出来た。

「ハァハァ……なんか、登山、してるみたい。勾配がきつい」

 二百五十段くらい登った頃には、聡史はかなり息が切れていた。

「六甲山の中だからね。もうあと少しだよ。頑張って聡史くん」

 茉希はまだ余裕の表情だった。体力はけっこうあるらしい。


「さあ着いたよ、聡史くん」

三百段ちょっと上がった所に、展望台兼休憩所があった。

「これは和菓子の形になってるんだね」

「本当に食べれそうでしょ? ここは近所の人の散策コースにもなってるけど大評判だよ」

 そこに建つあずまやは、屋根が栗饅頭。四本の柱がみたらし団子、花見団子、草団子、きな粉団子。円卓がどら焼き、長方卓が菱餅、間を挟む二基の長椅子が梅羊羹と最中を模っていた。

二人は南方向を向いて立ち止まる。

「……すごい。神戸の夜景、写真では何度か見たことあるけど、本物は違うなぁ」

 聡史はハッと息を呑んだ。眼下に広がる宝石のように煌く街並み。右手には赤色に光り輝くポートタワー。正面遠くには人工島群が見え、その一つ、神戸空港に飛行機が着陸していく様子も確認することが出来た。東遠方には大阪方面の夜景も窺えた。

「ここは私の一番のお気に入りスポットなんです。寮のお部屋からも一応見えるけど、ここの方がずっと見晴らしが良いので」 

 茉希は微笑み顔で嬉しそうに言うや、聡史の手をぎゅっと握り締めた。

「あっ、あのう……」

 聡史はびくりと反応した。彼の頬は瞬く間に赤みを増し心拍数もどんどん上がっていく。

「風がすごく気持ちいいね」

「そっ、そうだね」

「聡史くん、この素晴らしい夜景を眺めると、疲れも吹き飛んだでしょ?」

「まっ、まあ、確かに……」

「夜景もいいけど、昼間の景観もすごく良いよ」

「そっ、そう?」

「それじゃ、そろそろ寮へ戻ろう」

「うっ、うん」

 聡史と茉希は手を繋いで並ぶようにして歩き、石段をゆっくりと降りていく。

 俺にこんなにも快く接してくれた女の子は、初めてだよ。

 聡史は嬉しさ七割、照れくささ三割といった気分だった。

       *

鶸松寮ロビーに帰り着くと、

「聡史ちゃん、神戸の夜景は美しかろう?」

 みつゑさんからさっそく感想を訊かれる。

「はい。写真で見るのとはまた違って、絶景でした」

 聡史は満足そうな表情で答えた。

「私は聡史くんとデート出来てすごく楽しかったぁっ♪」

 茉希は満面の笑みでとても嬉しそうにみつゑさんに伝える。

「デッ、デートって……」

 聡史の表情はやや引き攣った。

「そうかい、そうかい。ところで茉希ちゃん、キスはしてあげたのかい?」

 みつゑさんは囁くような声で茉希に耳打ちする。

「あっ、忘れてたよ。ごめんね聡史くん。私とデートしてくれたお礼だよ」

 茉希はそう言うと聡史の側へずいっと寄り、何の躊躇いも無く聡史のほっぺたに、チュッとキスをした。

 柔らかい感触が一瞬、聡史の頬に伝わる。

「…………あっ、あの、こっ、幸岡さん……」

 聡史の頬は瞬く間に熟れたいちごのごとく真っ赤になり、併せて心拍数も急上昇する。あまりに突然のことで放心状態になってしまったようだ。

「この様子じゃ聡史ちゃん、女の子にキスされたのは初めてだったようだね」

 みつゑさんはにんまり微笑む。

「私も、男の子にしたのは、聡史くんが初めてかな。モニカちゃんや詩織ちゃんには何回かしたことがあるけど」

 茉希はてへりと笑う。

「おーい、聡史ちゃーん」

「……えっ、あっ、なっ、何でしょうか?」 

 みつゑさんに大声で呼ばれ、聡史はようやく我に帰った。

「聡史ちゃんに鶸松寮管理人としての適性能力を測るために、一つ重大な任務を与えるよ」

 みつゑさんから突如告げられる。

「どういった、任務なのでしょうか?」

 聡史の心拍数は依然高いままだった。

「そうだねえ……これは、茉希ちゃんから発表した方がいいかな?」

 みつゑさんがそう言うと、

「聡史くん、お勉強お助けしてね。私、勉強大の苦手なの。高校入ってからはますます成績下がっちゃって。私、この間の中間テスト数学と化学で赤点採っちゃったの」

茉希は照れくさそうに打ち明けた。そのあと、一学期中間テストの個人成績表を自分のお部屋から持って来て聡史に手渡す。そのプリントには各科目の平均点と個人の得点と偏差値、学年順位が記載されていた。

「化学が平均56点の27点。数Ⅱが59の28点、Bが63の24点か。もう数ⅡB習ってるんだね」

「摂櫻では、数学と英語については中学三年生から高校課程に入るんです。わたし達の学年で数学ⅠAを習ってますよ」

 つい先ほどトイレから出て来たモニカが伝える。

「やっぱ中高一貫だから進度が速いんだね」

「そうなんだよ。私、授業速過ぎてついていけないよぉ~」

茉希は悲しげな表情で嘆く。他の科目についても世界史Aと現国以外は平均点を下回っていた。

「大学受験のことを考えると、早めに全過程を済ませるに越したことは無いと思うけど」

 聡史が素の表情で伝える。

「というわけで聡史ちゃん、茉希ちゃんが期末テストで赤点を回避させることが出来るように、勉強の手助けをしてやってくれないかね」

「はい、分かりました。俺もまだ高校の数学は、よほどの難問でもない限り解けると思うので」

 聡史は快く引き受けるも、

俺に、幸岡さんに勉強教えることなんて出来るのかな? 今まで人に勉強教えた経験なんてないし。

脳裏に一抹の不安がよぎった。

「それはますます頼もしいよ。さすが数理科学専攻だね」 

 対照的に、茉希はホッとした笑みがこぼれていた。

 期待しないで欲しいな。

 聡史の不安はますます高まる。

「聡史くん、モニカちゃんはものすごーく頭良いんだよ。これ見て」 

 茉希は、モニカの先日行われた中間テスト個人成績表も見せて来た。

「あっ、こら、茉希さん。勝手に持ち出したらダメでしょ」

 モニカは優しく注意する。モニカの中間テスト総合得点は五〇〇点満点中四九五点。学年トップだ。国語九七点、社会九八点で、他の三教科は全て満点だった。

「すご過ぎる……」

 それを見て、聡史は驚愕した。彼も学年トップというのは、公立中高時代にある一教科だけでしか取れなかったのだ。

「モニカちゃんは私が中学の頃、九〇〇点満点の期末で取ってた点数よりも高い点中間テストで取ってくるんだよ。私もモニカちゃんの天才的頭脳が欲しいよぉ」

 悔しそうに嘆き、茉希はモニカの頭をなでる。

「わたしはちゃんと真面目に勉強してるもん。茉希さんは、勉強量が全然足りてないと思うの」

「そうかなあ? 私、一日三〇分は机に向かってるよ」

 疑問を浮かべる茉希に、

「少な過ぎ。高校生の自宅での勉強量は学年プラス三時間が基本よ」

 モニカは呆れ顔で再度指摘する。

「そんなに出来ないよぉ。あっ、もう十時過ぎてるのかぁ。今日は眠いからもう寝よ。聡史くん、いっしょに寝よう。私、いつもモニカちゃんと詩織ちゃんといっしょに同じ部屋で寝てるんだ。毎日が修学旅行気分ですごく楽しいよ」

「俺、それは、無理だな」

 茉希の要求を、聡史は即、かたくなに拒んだ。

「お願い、お願い、聡史くん」

「でっ、でもね……」

「聡史ちゃん、いっしょに寝てあげな」

 みつゑさんは聡史の肩をポンッと叩き、笑顔で説得する。

「いや、でも……」

「聡史お兄さん、親睦を深めるためにも私達といっしょに寝ましょう!」

 モニカも強く要求してくる。

「詩織ちゃん、聡史くんいっしょに寝てくれる方がいいよね?」

「……」

 茉希からの問いかけに、詩織はこくりと頷いた。

 ミャーォン。

萬藏もなぜか鳴き声を上げた。

「ほらね、聡史くん。モニカちゃんも詩織ちゃんもいっしょに寝たいって言ってるよ」

「…………分かった」

 茉希ににこにこ顔で言われ、聡史はとうとう引き受けてしまった。

「やったぁ!」

 茉希は大喜びで聡史のお部屋へ駆け込み、押し入れに仕舞われてあったお布団を取り出し自分のお部屋へ運び入れる。

 お布団は出入口付近から、一番奥の窓際に向かって一列に四枚並べて敷いた。昨日までは川の字に敷いて詩織を真ん中、その両隣に茉希とモニカが挟む配置にしていたらしい。

「俺は、一番端っこで」

「ダメだよ、聡史くん。聡史くんはここっ!」

 茉希は強制的に、窓際から二番目の布団を指定する。

「茉希お姉ちゃん、あたし、ここ」

「聡史くんのお隣がいいんだね?」

 茉希が確認すると、詩織はこくりと頷いた。彼女は廊下に近い方の布団を指差したのだ。

「……」

 聡史はどう反応すればいいのか分からなかった。

「わたし、窓際ね」

「あーん、私も窓際で聡史くんのお隣がいいっ!」

 モニカの希望に、茉希も譲らず。

「聡史お兄さん、わたしと茉希さん、どちらにお隣になって欲しいですか?」

「……えっ、えっと……」

 聡史は返答に窮する。

「聡史くん、私だよね?」

「わたしですよね?」

 茉希とモニカに腕を引っ張られる。聡史は今、両手に花の状態だ。

「あの、布団を、一列に並べるんじゃなく、山の字に敷けば、いいんじゃないかな? それで、俺が下側の一の字の部分に寝れば、みんな平等に俺の隣になるかと……」

「それはいいアイディアですね」

「聡史くん、天才! さすが数理科学専攻だね」

 聡史のとっさの思いつきにモニカと茉希は大賛成した。茉希が布団を並べ替え、事態はあっさり収まる。昨日までの配置の枕元に聡史の布団を横向きにして敷くという配置だ。

幸岡さんのお部屋、やっぱ女の子らしいな。甘いお菓子の香りもぷんぷんするし。

この部屋をよく見渡してみて、聡史はそんな第一印象を抱いた。

ピンク地白の水玉カーテン、本棚には少女マンガなどが合わせて二百冊ほど。学習机の周りには鯛焼き、お団子、羊羹、ケーキ、ドーナッツ、アイスクリーム、いちご、みかん、バナナなんかを模ったスイーツ&フルーツアクセサリー、ゆるキャラ系の可愛らしいぬいぐるみ、着せ替え人形、オルゴールなどがたくさん飾られてあり、女子高生のお部屋にしては幼い雰囲気だった。

「おやすみーっ、聡史くん」 

「おやすみなさい、聡史お兄さん」 

「……」

寮生三人がお布団に潜ったあとに、

「おっ、おやすみ」

 聡史は長い紐を引いて電気を消してあげ、自身もお布団に潜り込んだ。


 それから三〇分ほどして、

「……眠れない」

 聡史は天井を見つめながら硬い表情で呟く。

寮生三人はもう、すやすや寝息を吐きながらぐっすりと眠っていた。

聡史が眠り付けたのは、布団に入ってから一時間半以上が経ってからだった。

ともあれ、聡史の鶸松寮管理人体験初日の夜は静かに平和に更けていく。


        ☆


翌朝、午前六時二〇分頃に自然に目が覚めた聡史は、まず自分のお部屋に向かい、実家から持って来た私服に着替えた。

続いて脱衣場へ向かい、顔を洗ってから台所へ。

「おはよう、ございます。おばあちゃん」

 先に起きて朝食の準備をしていた白割烹着姿のみつゑさんに、緊張気味に挨拶する。

みつゑさんはいつも五時頃には起きるそうだ。

「おはよう聡史ちゃん、昨夜はよく眠れたかい?」

「いやぁ、それほどは。朝起きたら、ポランスキーさんが俺の布団に潜り込んでいて、かなり焦りました」

 聡史は一度あくびをしてから打ち明けた。

「ハッハッハ、あの子、一番しっかり者だけど、案外甘えん坊さんだからね。今でも一人じゃ寝られないんだよ。まだ詩織ちゃんが来てない頃、茉希ちゃんが野外活動へ行っていない時なんか、おらといっしょに寝てたんよ。まあ、これからもあるだろうけど、そのうち慣れてくるさ」

 みつゑさんは大きく笑いながら言う。

「そうでしょうか? 俺は不安です。ところで、中庭に接してる廊下の屋根が、黒豆煮やだし巻き卵や焼き鮭を模ってて、冷奴型の大浴場の屋根には生姜や削り節、刻みネギを模ったものが乗っかってるのも趣がありますね」

「気に入ってくれたようだね。聡史ちゃんのお部屋からだとよう見えただろ?」

「はい。記念に写真も撮っておきました。あの、おばあちゃん。俺も何かお手伝いしましょうか?」

「おう、やってくれるのかい。本当に聡史ちゃんはいい子だねえ」

「いえいえ」

 聡史は謙遜した。

「そんじゃあ、これをつけてくれないかい」

みつゑさんは黒の割烹着を手渡す。

「分かりました」

 聡史はすぐに装着した。

「よう似合ってるよ」

 みつゑさんは優しく微笑みかける。

「そうで、しょうか?」

「聡史ちゃん、卵焼きは作れるかい?」

「まあ、一応は……」

 聡史はそう言うと、調理台に出されてあった卵をボールに割り入れ、塩、コショウをまぶし菜箸でかき混ぜる。続いてガスコンロの火を付けて卵焼き器にサラダ油を引き、溶き卵も垂らしていく。

「なかなかいい筋をしてるね、聡史ちゃん」

 みつゑさんは並行して他のメニューも作りながら、楽しそうに観察していた。

「まあ、俺、大学時代、独り暮らしして時々自炊もしてましたし」 

 聡史はちょっぴり俯き加減で照れくさそうに言う。

卵焼きは六人分完成させた。茉希のお弁当の分も作っているからだ。中学部では給食があるため、作る必要は無いとみつゑさんは説明する。

二人で協力して、出来上がったメニューの数々をお皿やお茶碗、お椀に盛り付け、ロビーにあるダイニングテーブルへと運んでいった。

 みつゑさんは萬藏の朝食メニュー、鯖の缶詰も蓋を開けて床に並べた。

ミャーォ。

すると蓋を開ける音に反応したのか、すぐさま萬藏が管理人室から飛び出して来て駆け寄って来た。萬藏が夜寝る時は、みつゑさんと同じ管理人室にいるらしい。

食事と、お箸とスプーンも並び終えほどなくして午前七時、鶸松寮での起床時刻となった。茉希のお部屋からヒンカラカラカラ♪ ヒンカラカラカラ♪ と駒鳥の鳴き声な目覚まし時計の鳴り響く音が聞こえてくる。

「茉希さん、起きてーっ!」

 その音が止むと、すぐさまモニカの声がこだました。

「まだ眠いよぉー。あと一分だけでもぉー」

「ダメ、ダメ。詩織さんはもう起き上がってるよ。ほらっ!」

「あーん」

 茉希がぐずっている様子が、ロビーからも分かった。

「確かにポランスキーさん、しっかりしていますね」

 聡史は感心する。

それから数分のち、

「おっはよう、聡史くん、お婆ちゃん」

「おはようございます。聡史お兄さん、みつゑお婆さん」

「おはよー」

三人とも身支度を済ませてロビーにやって来た。

「おう、おはよう」

「おはよう、ございます」

 みつゑさんと聡史は挨拶を返す。みんなは昨日と同じ配置で椅子に座った。

「あっ、あの、西風さんは、今日は、学校お休みなのかな?」

 気になったことがあり、聡史は詩織に少し緊張しながら初めて話しかけてみた。

「!! うっ、うん。中学部の二年生は、今日はお休みなんだ」

 詩織はびくっと反応した。制服姿の茉希とモニカに対し、詩織は私服姿だったのだ。

「違うでしょ、詩織さん。聡史お兄さん、この子は今、不登校になっちゃってるの。一年生の二学期頃からほとんど教室へ行ってないのよ。二年生になってからは始業式の日に行ったきりで」

 モニカは困惑顔で伝える。

「そうなんですか……」

 訊いちゃいけないこと訊いちゃったかな?

聡史は罪悪感に駆られた。

「まあまあ、モニカちゃん。詩織ちゃんも時たまは保健室登校してるんだし。ほな、おあがり」

 昨日の夕食時と同じくみつゑさんからの食前の挨拶があり、朝食タイムが始まる。

「詩織ちゃんも何とか教室まで行けるようになれるよう努力してるよ。そういや今日の卵焼き、いつもと少し味が違うような。お婆ちゃん、お塩多めに入れた?」

 茉希はきょとんとした表情で突っ込んだ。

「今日の卵焼きは、聡史ちゃんが作ってくれたのさ」

 みつゑさんは伝える。

「まあ、ほんの、少し手伝っただけだけど……」

 聡史は照れてしまったのか下を俯く。

「そうなんだ! 聡史くん、お婆ちゃんに匹敵するくらいすごく美味しかったよ。また作ってね」

「聡史お兄さん、ぜひともお願いします」

「うっ、うんっ」

 茉希とモニカに褒められ、聡史の頬の赤みはより一層増した。

「それじゃ、お婆ちゃん、聡史くん、詩織ちゃん、萬ちゃん、行って来まーすっ!」

「行って来ます」

 茉希とモニカは午前八時頃に鶸松寮を出た。ここから学校へは約一キロ、徒歩十五分ほどらしい。

「ほな食器洗いを始めるかね。聡史ちゃんは、脱衣場に置いてある洗濯物を洗濯機に入れて回してくれないかい?」

「はい」

 聡史は返事をすると、足早に脱衣場へ向かっていった。

「あっ、あのう、おばあちゃん。ちょっと、困ったことが……」

 しかし数十秒後、すぐに戻って来た。台所でお皿洗い真最中のみつゑさんに伝える。

「詩織ちゃん、あとはやってくれないかい?」

「はーい」

 詩織は笑顔で対応した。

 こうしてみつゑさんも脱衣場へ。

「あれ、なのですが……」

 聡史は洗濯籠を指し示す。

籠の中には、動物の絵柄がプリントされたものと、水玉模様のショーツが入れられてあったのだ。そして真っ白なブラジャーが二枚。さらに汗がいっぱいしみ込んだ夏用体操服上下も一着あった。それはモニカのものであることがゼッケンから分かった。

 昨晩最初に風呂に入った聡史の洗濯物は、一番下に埋もれてしまっていた。

「ハッハッハ、聡史ちゃんも男の子だねえ。さすがに女の子の洗濯物はまずいかね」

みつゑさんはそう言うと寮生三人の他、聡史の分も合わせて洗濯物を両手で抱え込み、洗濯機の中へ入れた。そしてテキパキとした動作で洗剤を入れ蛇口を回し、スタートボタンを押す。

「ありがとう、ございました」

 聡史はその手際の良さに舌を巻きながら、お礼を言った。

「こりゃ悪かったね。でもあの子達、きっと聡史ちゃんに触られること全然気にしてないだろうから、聡史ちゃんも堂々と触ればいいさ」

 みつゑさんは笑顔で言い張る。

「いえいえ、そのようなことは絶対出来ません」

 聡史は照れくさそうに宣言した。

「紳士だねえ」

 みつゑさんは再び笑う。

 同じ頃。

「おはようございまーすっ、幸岡先輩、モニモニ」

 通学路を進んでいた茉希とモニカは、杏子に挨拶された。面長でおでこが広く、ポニーテールに束ねたしなやかな黒髪が特徴的な子だ。

「おっはよー、杏子ちゃん」

「おはよう、杏子さん」

 茉希とモニカは爽やかな声で返す。杏子と通学途中で会うことはわりとよくあることなのだ。

「ねえ、昨日新しい管理人さん来たんやろ。幸岡先輩とモニモニとシオリちゃんのとこって、すごくこぢんまりとした寮やから賑やかになったんじゃない?」

「いや、ほとんど変わってないわ。碓永聡史さんっていうお方なんだけど、おしゃべりな感じでもなかったので。寡黙という表現が適当かな?」

「そっか。身長はどれくらい?」

「一六〇センチ台半ばくらいかな」

「ワタシ一六四やからいっしょくらいかぁ。お歳は?」

「二四歳よ」

「そうなんや。ほんま若いんやね。肉食系か草食系かでいうたら、やっぱ草食系になるんかな?」

「まあ草食系ね」

 好奇心旺盛に尋ねてくる杏子の質問に、モニカは淡々と答えていく。

「なんか純粋な人っぽい」

 杏子は目をきらきら輝かせた。

「当たってるよ。聡史くんはとても純粋な人だよ」

 茉希はにこにこ顔で言う。

「お会いしたいなぁ」

 杏子は二人のお顔を交互に見つめ要求してくる。

「もちろんいいよ。ぜひ会いに来てね」

「わたしはべつにいいんだけど、聡史お兄さんがどう思われるかな?」

 快く承諾した茉希に対し、モニカは少し躊躇いがあった。

「やったあっ! おめかししていこっかなぁ」

 それをよそに杏子は大喜びする。行く気満々な様子だ。

    ☆

 八時五〇分頃、鶸松寮。

 脱衣場の洗濯機からピー、ピー、ピーと、終了を知らせるアラームが鳴り響く。

「聡史ちゃん、これをハンガーにかけてくれないかい?」

 みつゑさんは蓋を開けると寮生三人の下着類を中から取り出し、聡史の目の前にかざす。

「おっ、おばあちゃん、それは、ですね……」

 聡史はとっさにそれから目を背けた。

「本当に純粋な子だねぇ。でも聡史ちゃん、これが触れないようじゃ、ここの寮の管理人は務まらないよ。気にせず触ってごらんよ」

 みつゑさんは聡史の目の前に近づけ、笑顔で勧めてくる。

「わっ、分かり、ました」

聡史は強い罪悪感に駆られながらも、恐々と手に掴んだ。

「――っ!」

瞬間、彼の心拍数は急激に上がった。ここの管理人候補になるまでずっと女の子とは無縁の人生を歩んで来た聡史にとって、刺激がかなり強過ぎたようだ。

「顔、赤くなってるね」

 みつゑさんは笑顔のまま指摘する。

「そりゃ、なりますって」

聡史は機敏な動作でそれらをハンガーに吊るしていった。その間にみつゑさんは寮生三人の靴下など他の洗濯物、自分の分と聡史の分をテキパキと吊るし終えていた。

このあと裏庭の物干し竿に掛けていく。もちろん詩織とみつゑさんも手伝ってくれた。

「今日はいい天気だねぇ」

 みつゑさんは澄み切った青空を見上げながら柔和な表情で呟く。

「そうですね。それに、けっこう、暑いですね。わっ! 桜餅そっくりな形になってるのがありますけど、あれは物置でしょうか?」

 聡史は見つけた瞬間ちょっぴり驚く。

「その通りさ。物置小屋は五年くらい前にごく普通のからこの形に改装したんだ」

 みつゑさんは楽しげに伝える。

「そうでしたか。昨晩は暗くて気付けませんでした。少し透けて見える餡子の色合いや餅の粘り感も見事に再現されてますね」

 聡史は近寄って周囲をぐるっと一周して触ってもみたりした。

餅が玉状な道明寺型となっていて、高さは二メートルくらい。餅の両側はしっかり見えるように巻かれた、桜の葉の塩漬けを模った部分が出入口となっていた。

「あっ! そろそろ始まる時間だ」

 詩織はスカートポケットからスマホを取り出すや否やそう呟いて、裏庭からロビーへ駆け寄る。ソファーに座り込むと、座卓上に置かれてあったリモコンを手に取りテレビのスイッチを入れ、お目当てのチャンネルに合わせた。

テレビ画面左上には、8:59という表示。何かの番組のEDが流れている最中だった。それが終わり九時ちょうどになると、今度は乳幼児向けの教育系番組が始まった。

 詩織は瞬きもほとんどせず、熱心に見入る。

「あのう、西風さんは、こういう番組が好きなのかな?」

「うん! 大好き♪」

 ロビーへ戻って来た聡史がやや緊張気味に話しかけると、詩織はえくぼまじりの笑みを浮かべ、嬉しそうに答えてくれた。

「そっか。俺はこういう系の番組見たの、幼児期以来だな」

 聡史もソファーに腰掛け、視聴してみることにした。

           *

たまには、こういうアニメもいいな。最近は萌え系の深夜アニメばっかり見てて、こういう幼い子ども向けの絵柄のやつは見なくなってたし。

 十五分の番組を見終えて、聡史はそんな心境に陥る。先ほどやっていた番組は、擬人化された果物や野菜やお菓子などが登場するクレイアニメだった。

「ねーえ、聡史お兄ちゃん」

「!! なっ、何かな?」

 いきなり詩織に甘えるような声で話しかけられ、聡史は少し動揺した。

「あたしのお部屋に来て」

 詩織は服をぐいっと引っ張ってお願いしてくる。聡史は招かれるままに詩織のお部屋へ足を踏み入れた。

出入口引き扉側から見て一番奥、窓際に設置されてある学習机の上はきちんと整理されていて教科書やプリント類、ノートはきれいに並べられていた。サンタクロースのお人形さんやビーズアクセサリー。クマやウサギ、コアラ、トナカイ、リスといった可愛らしい動物のぬいぐるみもたくさん飾られてあり、カーテンはピンク系の水玉模様。女の子のお部屋らしさが茉希のお部屋以上に感じられた。本棚には幼稚園児から小学生向けの少女漫画誌や少女コミック、児童図書、絵本、アニメ雑誌、ラノベなどが合わせて二百冊以上は並べられてある。普通の女子中学生が好みそうなティーン向けファッション誌は一つも見当たらなかった。

「西風さんは、読書が好きなんだね?」

 聡史はお部屋を見渡しながら尋ねてみた。

「うん。読むのも大好きだけど……じつはあたし、趣味で小説を書いてるんだ。あたし、ちっちゃい頃から物語を作るのが大好きで」

 詩織は俯き加減で、照れくさそうに打ち明けた。

「そっ、そうだったんだ」

 聡史は意外に思ったようだ。

「おかしいかな?」

「いやいや、そんなことないよ。じつは、俺も……」

「えっ!? 聡史お兄ちゃんも小説書いてるの?」

 詩織は目を大きく見開いた。

「うん、時々気が向いたら書いてる。ラノベの新人賞にも大学の頃に一回、卒業してからは五回だけ応募したことがあるよ。全部一次であっさり落選したけどね」

 聡史が苦笑いして打ち明けると、

「そうなんだ。一次通過はけっこう難しいよね。あたしの書いた小説、ちょっとだけ見せてあげるね」

 詩織は満面の笑みを浮かべて、マイノートパソコンを立ち上げた。

「これ、先月の童話賞に投稿したやつ。エビさんと、天敵のタコさんが、仲良くなっていくお話なんだけど……」

 マイドキュメントに保存されていたテキストデータを開き、照れくさそうに伝える。

「素敵なお話だね。とても面白いよ」

 聡史は全ページ目を通してみて、率直な感想を述べた。

「ほっ、本当? お世辞じゃない?」

 詩織は上目遣いで尋ねてくる。

「うん、俺にはこんなに良い作品は書けないから。西風さんはすごい文才があるよ」

「ありがとう、聡史お兄ちゃん。あたしが小説書いてること、褒めてくれて嬉しい。学校ではバカにしてくる子も多かったから。聡史お兄ちゃんは、あたしの書いた小説を褒めてくれた小学校の時の先生に似てるの」

 詩織はそう打ち明け、聡史の背中に抱きついた。

「そっ、そうなんだ」

 聡史はちょっぴり焦る。

「あたし、お絵描きも大好きだよ」

 詩織は続いて学習机の本棚からB4サイズのスケッチブックを取り出し中身を見せてくれた。ライオン、ゾウ、キリン、ウサギ、リスといった動物さんの絵を中心に、メルヘンチックに描かれていた。

「とっても上手だよ。俺よりも上手だよ」

 聡史はじっくり見て褒めてあげる。

「ありがとう、聡史お兄ちゃん」

 詩織は急に照れくさくなったのか、スケッチブックをパタリと閉じた。

「聡史お兄ちゃんも絵、描くの好き?」

 そのあと照れ笑い顔で質問してくる。

「うん、めっちゃ好きだよ」

 聡史は爽やか笑顔で答えた。

「ますます嬉しいな♪ あたし、今度はラノベの新人賞に初めて応募するつもりなんだ。長編小説に初挑戦するの。まだ四百字詰め原稿用紙換算で、三百枚以上も書ける自信は無いけど。聡史お兄ちゃん、何かいいアイディアない?」

 詩織は興奮気味に問いかける。 

「うーん、ラノベにおいて学園物やファンタジーバトル物、退魔物、VRMMO物、異世界転移転生チーレム物はありふれ過ぎてるし、吸血鬼、ゾンビ、ドラゴン、ゴーレム、妖精、勇者、魔王魔女、亜人獣人、神様、生徒会、執事、探偵、メイド、アンドロイド、異星人美少女キャラなんかが登場するってのもまた使い古されてると思うし、主人公の設定も俺TUEEEな男子中高生で、ツンデレ風の幼馴染ヒロインと、やたらからんでくる男友達がいるっていうのは、定番過ぎると思う」 

「確かにそうだよね。そういう設定は使わない方が無難だよね」

「いやぁ、そういうのがダメってことはないけど、似たタイプの作品が多いってことだから受賞するにはかなりハイレベルなクオリティが求められると思うなぁ。俺は独自性を強く出すことが重要だと思う。今までのラノベには見られなかったような、新しいタイプの作品を生み出すことが新人賞では有利になるんじゃないかな。主人公に関しても中高生向けだからといって中高生を主人公にしなきゃいけないって決まりはないと思うよ。まあ、その場合も読者が感情移入しやすい、共感を持てる、憧れを抱けるキャラクター像であることが大切だろうけど」

 聡史は生き生きとした表情で楽しそうに長々とアドバイスしてあげた。

「つまり、斬新なアイディアを出して、今までに無いようなタイプの作品を書くことが、受賞への近道なんだね。九月末締切りのやつを目指して頑張るぞぉーっ!」

 詩織は投稿用次回作に向けて考えを廻らせる。

「じゃ、邪魔にならないように、俺はこれで……」

「見ててもいいんだけど、気を遣ってくれてありがとう」

「いやいや、どういたしまして。頑張ってね」

 聡史はエールを送って静かに詩織のお部屋から出て行き、自分のお部屋へ。

 西風さん、こういう一面もあるんだな。俺のこと嫌ってなくてよかったよ。俺と趣味も合うし、今後も嫌われないように気を付けなきゃな。

ホッとした気分で机に向かい、趣味のイラスト描写をし始めた。鶸松寮の奇抜で雅な外観に影響されたのか、和食のイラストをいくつか描いていく。

その最中、彼のスマホ着信音が鳴り響いた。

「母さんからか」

 聡史は三回目で通話アイコンをタップする。

『聡史、管理人の仕事は楽しくやれとう?』

「うん、管理人のおばあちゃんはとても良い人だし、寮生もみんなすごく良い子達ばかりだったから、めっちゃ楽めてるよ」

『この弾んだ声の調子だと、本当に楽しめとうようね』

 母はホッと一安心して喜んでいるようだった。

       ☆

正午過ぎ。

「詩織ちゃん、聡史ちゃん。お昼ご飯出来たよ。食べに来なー」

 一階からみつゑさんの声がかかると、自室にいた聡史と詩織は同じようなタイミングでロビーへ降りていく。

 ダイニングテーブルに、親子丼が三皿並べられていた。

 向かい合って座った聡史と詩織、

「ほなおあがり」

「いただきまーすっ!」

「いただきます」

 みつゑさんからの合図でお箸を手に取り、食事を進める。

「あっ、西風さん。ほっぺたにご飯粒が」

「あっ、いっけない」

 聡史に指摘されると詩織は照れくさそうに呟き、自分の手で取った。

「詩織ちゃん、いつも以上にいい笑顔だね。聡史ちゃんのこと、好きかい?」

「うん! 大好きぃーっ!」

 みつゑさんの問いかけに、詩織はとても嬉しそうに答えた。

「うぐっ……ケホッ、ケホッ」

 聡史はむせてしまったようだ。

「聡史お兄ちゃん、大丈夫?」

 詩織は聡史のお顔を覗き込んで、心配そうに尋ねる。

「だっ、大丈夫です」

 聡史は苦しそうに答える。

「ハッハッハ」

 みつゑさんは微笑ましく聡史を眺めた。

 ちょうどその時。ピロピロピロリン♪ ピロピロピロリン♪ と、詩織のスマホの着信音が鳴り響いた。

「果帆からメールだ」

 件名を見て、詩織は嬉しそうに叫ぶ。

「お友達?」

 聡史は尋ねてみる。

「うん!」

「詩織ちゃんと、中学入った頃から仲の良い子だよ」

 みつゑさんは加えて説明してくれた。

 詩織はわくわくしながらメールの中身を開く。

《やっほー、シオリちゃん (^_^) 元気? 今日、調理実習でカスタードプリン作ったよ♪》

 画像も添付されていた。

《元気だよ、カホ(*^_^*)》

 詩織はすぐに返信した。

 果帆は毎日のように、詩織に学校であった出来事とかを伝えてくれるらしい。

《プリントけっこう溜まってるよ。渡したいから、今日遊びに行っていい? 新管理人さんにもお会いしたいし》

 十数秒後、その子からまたメールが届く。

《もちろんオッケー(*^。^*)》

 またすぐに返信した。

 それからさらに数分後、

 ルルルルルルルルゥ♪ ルルルルルルルルゥ♪

今度はロビー壁際設置の固定電話の着信音が鳴り響く。

「詩織ちゃん、先生からだよ」

 ディスプレイに表示された電話番号を見て、みつゑさんは伝える。

「はーい」

詩織は嬉しそうに駆け寄り、受話器を手に取った。

「もしもし」

『あっ、西風さん。先生よ、元気にしてる?』

「はい。とっても元気です」

『なんだかいつもよりいいお声してるね。そういえば確か昨日、新しい管理人さんが来たんでしょ?』

「はい。すごくいい人でした」

『それはよかったわね。先生もそのお方にご挨拶したいから、今日お伺いしてもいいかな?』

「はい。もちろんいいですよ」

『楽しみにしてるわ。じゃあね、西風さん』

 電話の相手は詩織の担任、衣笠先生だった。

「聡史お兄ちゃん、今日の夕方、果帆と担任の衣笠先生が来るって」

 受話器を置いたあと、詩織は聡史に向かってこう伝えた。

「なんか気まずいなあ。スーツに着替えた方が良さそうだ」

「会社内じゃないんだから、そんな堅苦しい格好する必要は無いさ」

 みつゑさんはにこにこしながらアドバイスした。

「普段着のままの聡史お兄ちゃんでもじゅうぶん格好いいよ」

「そっ、そうかなぁ」

 詩織に称えられ、聡史は照れくさそうな表情を浮かべた。

          *

 昼食後、聡史はみつゑさんに呼ばれ談話室へ。

ここも和室だった。十畳の広さで、大きな漆塗り長方形ちゃぶ台と、それを囲むように座布団が八つ敷かれてある。ちゃぶ台の上には比較的新しいノートパソコンが一台。

「聡史ちゃん、パソコンに詳しいみたいだね。大学でプログラミング演習とか、データベース基礎論とかいうのを履修しているし」

「いえいえ。俺、それらの講義ほとんど理解出来ませんでしたから」

「ハッハッハ、聡史ちゃんったら控えめだね、良の評価を取ってるのに。悪いんだけど、パソコンで家計簿を付けてくれないかい? 今までずっと手書きでやって来たけど、パソコンの方が便利だと思って、家計簿ソフトをインストールしてたんだよ。先月分と今月分だけでいいから、写してくれないかね」

 みつゑさんは機嫌良さそうに、これまで使っていた家計簿手帳を聡史に手渡す。

「それくらいなら、一応、出来ると思います」

 聡史は自信なさげに答え、パソコン前の座布団に腰掛けた。

起動中のソフト表示画面に、家計簿手帳の数値を見ながら水道光熱費や日用品費、通信費、交際費、食費、寮生から徴収した家賃などの収入支出額を慎重に入力していく。最近はずっと黒字が続いている。提携寮にしたことで、学校などから助成金や寄付金などが支給されるようになったためだ。鶸松寮では、寮生が一人でも入寮してくれれば黒字となり運営は十分成り立つらしい。

「おう、ばっちりじゃないか。やるねえ聡史ちゃん」

 みつゑさんはとても喜んでいた。

「いえいえ、それほどでも。俺、簿記三級ですら三回連続で落ちて、結局取得を諦めてしまったので」 

 聡史は謙遜の態度を示した。

「こぢんまりとした寮だからお金もあまり動かないし、簿記の知識は特に必要ないさ。家計簿の記入は、これから聡史ちゃんに任せるよ」

「えっ! いいんですか? 俺なんかがこのような、寮にとって非常に重要な業務に携わってしまって」

「もちろんさ。聡史ちゃんはとっても優秀な子なんだから、もっと自分に自信を持ちなよ。次はトイレ掃除と裏庭の草むしりをしてくれないかね?」

「はい、分かりました」

みつゑさんから次の作業を頼まれると、聡史は快く引き受けた。彼が入居したことで男女共用となったトイレに入ると、ウォシュレット機能付き洋式便器後ろの棚に置かれたウェットティッシュを手に取る。

「そんなに汚れてないな。俺もきれいに使わないとな」

便器周りを拭いていると、

「……これは、触らない方が絶対いいよな?」

 扉側隅に置かれた白色のサニタリーボックスが否応なく視界に入ってしまう。

 それは無視しておいて、引き続き便器周りの清掃作業を進めていく。便器の中へ洗剤スプレーをシュッシュとふりかけ、ブラシで黄ばみを擦って水を流した。

そのあとは台所の戸棚から軍手とゴミ袋を取り出し、裏庭へ。

「ん?」

 雑草を抜いている最中、聡史はぴくりと反応した。木の陰からガサゴソガサゴソと物音がして来たのだ。

どっ、泥棒?

 聡史はびくびくしながら、林へと恐る恐る歩み寄る。そこにいたのは、全身がブラウンヘヤーに覆われ、四本足、扁平なお鼻をしていた野生動物。

「イッ、イノシシ!?」

 正体が分かると聡史は仰天した。

成獣のイノシシは聡史の声に反応したのか、ピクッと反応し聡史の方を向いた。

そしてトコトコ追いかけて来たのだ。

「うわぁっ!」

 聡史は時折後ろを振り返りながら、必死に逃げ惑う。

イノシシはフゥフゥ鼻息を荒げながら、聡史を追いかける。

 聡史は大浴場を通り抜け、廊下を駆け抜けロビーの方へ。イノシシもあとに続く。

「おや、聡史ちゃん」

 ロビーの掃き掃除をしていたみつゑさんは、聡史の方を振り向いた。

「おばあちゃん、イッ、イノシシが……」

 聡史は逃げ惑いながらすぐ後ろにいるイノシシを手で指し示す。

「おやまぁ、また遊びに来たのかい」

 みつゑさんは爽やかな笑顔だった。

「あっ、あの、おばあちゃん。なんとかして、いただけないでしょうか?」

 聡史とイノシシはダイニングテーブルの周りを何週も走る。

「おらに任せな」

 みつゑさんは冷静に、竹箒をイノシシのお鼻目掛けて突きつけた。

 イノシシはビクッと反応し、ピタッと動きを止めた。

「山へ帰りな」

 みつゑさんがそう命令すると、イノシシは理解出来たのかくるりとターンし、大人しくロビーから出て行き裏庭の方へ向かっていった。

「ハァハァハァ……あっ、ありがとう、ござい、ました。まさかイノシシが、出るとは」

 聡史は息を切らす。彼の目は点になっていた。

「ここではイノシシなんて日常茶飯事さ」

 みつゑさんは豪快に笑いながら言う。

「条例でイノシシにはエサをあげちゃダメみたいだよ。あたし、中庭の鯉さんみたいにあげたくなっちゃうけどな」

 詩織は残念そうに呟く。

 六甲山地の麓にあるこの場所では、イノシシの出没は珍しくないらしい。

 聡史は、次に任された花の水遣りと風呂掃除も快くこなしていく。

 全ての作業を終えた頃には午後四時を少し回っていた。

「聡史ちゃん、すまなかったねぇ。重労働させ過ぎてしまって」

「いえいえ、とても充実した作業でした。楽しかったです」

 申し訳なさそうにしていたみつゑさんに、聡史は満足げな表情で伝えてソファーに腰掛ける。

その時、詩織もソファーに腰掛けていて、教育系の子ども向け番組を楽しそうに眺めていた。

みつゑさんからおやつに振る舞ってもらった高級芋羊羹を、聡史は詩織といっしょに味わいながらしばしくつろいでいると、ピンポーン♪ と玄関チャイムが鳴らされた。

「はいはい」

 みつゑさんが玄関扉を開け、対応する。

「こんばんは」

「西風さん、来たわよ」

二人の来客に、

「おやおや、いらっしゃい」

 みつゑさんは笑顔で出迎えぺこりとお辞儀した。

「いらっしゃーい!」

 詩織はすぐさま立ち上がり、嬉しそうに玄関へ駆け寄る。来客は、衣笠先生と果帆だった。

「聡史ちゃん、こちらが衣笠先生だ。もう一人がお友達の果帆ちゃん」

「ワタクシ、二年三組担任の衣笠加奈子と申します。はじめまして」

「はじめまして、アタシ、二星果帆です」

 衣笠先生と果帆は聡史の方を向いて自己紹介し、ぺこりとお辞儀した。

「はじめ、まして。俺、この度、この鶸松寮の、新しい管理人を勤めさせていただくことに、なりました。碓永聡史と、申します」

 聡史は舌を噛みそうになりながら挨拶し、深々と頭を下げた。

「かなり若いお方で、とても誠実そうなお方ですね」

 衣笠先生は聡史のことを褒めてくれる。四〇歳くらいの女性。小顔でぱっちりした瞳、濡れ羽色に美しく輝く髪をフリルボブにし、とてもお淑やかそうな感じのお方だった。

「いえいえ、そんなことは……」

聡史はいつもの癖で謙遜してしまう。

「このお方が新しい管理人さんかぁ」

 果帆は聡史のお顔をまじまじと見つめる。果帆は詩織より五センチほど背が高く、丸っこいお顔をしていて、後ろ髪は水色地白の水玉ダブルリボンでお団子風にまとめられていた。

「あっ、どうも」

 聡史は軽く一礼する。

「クリエイターさんっぽさを感じます!」

 果帆は興奮気味に彼の第一印象を伝えた。

「そっ、そうかな?」

「そう思うでしょ? 聡史お兄ちゃんはあたしや果帆と同じで小説や絵、描いてるもん」

 詩織は嬉しそうに伝える。

「そうなんですか! 趣味が合いますね」

「そっ、そうだね」

 屈託ない笑顔でしゃべる果帆を眺め、めちゃくちゃかわいいな。と聡史は思った。果帆から感じられる初々しさに惚れてしまったのだ。

「小説や絵の創作は先生もとても素晴らしい趣味だと思うわ。先生も何か書いてみようかしら。ところで西風さん、課題はちゃんと仕上げてるかな?」

「はい。当然出来てます」

 衣笠先生からの質問に、詩織は笑顔でそう答えると一旦自分のお部屋へ向かい、言われた物を取りに行った。

「宿題を提出させているんですね」

 聡史はちょっぴり感心していた。

「はい。公立校とは違い、中学でも退学処分となってしまいますので」

衣笠先生は不登校の詩織のために、各教科の問題集や課題プリントを提出させているとのこと。そのため詩織の学力は特に問題ないらしい。技術・家庭科、美術、音楽といった副教科の課題もさせており、定期テストは保健室で受けさせているとのことだった。

「はい、先生。どうぞ」

詩織は戻ってくると、衣笠先生に言われた提出物を手渡す。

「ありがとう。西風さん、一時限だけでもいいから、出席してくれたら嬉しいな」

「教室内には、入りたくないです」

 衣笠先生がそう伝えると、詩織は暗い表情を浮かべてしまった。

「そっか。ごめんね。それじゃ、先生はそろそろお暇致するね」

 衣笠先生はちょっぴり寂しそうに挨拶して帰っていく。

果帆はこのあと二十分ほど、ロビーで詩織といろいろおしゃべりしてから帰った。

それからさらに一時間ほどして、

「聡史お兄さん、ただいま」

「聡史兄さん、はじめましてーっ。ワタシ、モニモニの親友の、胸永杏子でーす」

 モニカが、杏子を連れて帰って来た。

「あっ、どっ、どうも」

 元気よく挨拶され、聡史はまたも緊張気味になった。

「おう! 聡史兄さん、さほどイケメンじゃないところがまた親しみやすいわ~」

 杏子は目をきらきら輝かせながら聡史のお顔を見つめる。

「そうか?」

 聡史は思わず視線を床に逸らした。

「杏子、失礼なことは言っちゃダメよ」

 モニカは軽く注意する。

「分かってまーす♪ 幸岡先輩やモニモニの言ってた通り、すごく誠実でええ人そうやね。あのう、聡史兄さん、似顔絵描いてもよろしいですか?」

 杏子は通学鞄からB4サイズのスケッチブックを取り出し、お願いする。

「べつに、かまわないけど……」

「よっしゃっ!」

 聡史がちょっぴり戸惑いつつも承諾すると杏子は大喜びし、4B鉛筆も取り出した。スケッチブックを開き、4B鉛筆を走らせる。

 三〇秒ほどのち、

「はい、完成しました。どうぞ」

 杏子は描いていたページをビリッと千切り、聡史に手渡した。

「えっ、もう出来たの!? しかもかなり上手い」

 聡史は自分そっくりな似顔絵を見て、驚き顔になった。

「杏子さんは美術部に入ってるの」

「あっ、どうりで。あの、お礼に、胸永さんの似顔絵、描いて、あげよっか?」

「描いてくれるんっすか! ぜひお願いします」

 杏子は嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。

 こんなに喜んでくれるとは。とってもいい子だな。中学の頃、休み時間に美少女キャラのイラスト描いてたらキモがって来た教養低そうなビッチ臭の漂う女共とは大違いだよ。さすがポランスキーさんのお友達なだけはあるね。

 聡史は楽しげな気分で杏子のスケッチブックと4B鉛筆を借り、ササッと描いてあげた。

「ワタシそっくりや。聡史兄さんも絵ぇめっちゃ上手いっすね」

「まあ、俺、将来漫画家になりたいなぁっともなんとなく思ってて。新人漫画賞に投稿出来るようなレベルの作品を仕上げれたことは一度もないけど」

「ワタシと同じやね。めっちゃ親近感が湧くわ~。聡史兄さんは学生時代、漫研か美術部入ってましたか?」

「俺、中学以降は部活には入ったことないよ。みんなでわいわいやるの苦手だし」

「そうなんすか。まあ気持ちは分かるなぁ。聡史兄さん、ありがとうございました。ほなまたお会いしましょう」

 杏子は満面の笑みでお礼を言って、ここをあとにした。

「明るい子だね」

 聡史は綻んだ表情でコメントする。

「休み時間中はけっこううるさいよ、あの子」

 モニカは苦笑いしながら伝えた。

 それから少し時間が流れ、午後六時ちょっと過ぎ。

「ただいまぁー。南京町でゴマ団子とシューマイ買って来たよー」

 茉希が帰ってくる。部活動には入っていないが帰りに三宮や元町へ寄ってお買い物をしてくることもたまにあり、その時はいつもこのくらいの時間に帰ってくるらしい。

寮生の三人が帰宅したところで、みつゑさんは夕飯を作り始める。

 茉希が買って帰った食材もダイニングテーブルに並べられた。

 こうして今日も夕食の団欒が始まる。

        ☆

夜九時頃。

「聡史くぅん、明日までに提出しなきゃいけない宿題がいっぱいあるの。手伝ってぇー」

 茉希がげんなりとした表情を浮かべながら聡史のお部屋へ押し入って来て、こんな要求をしてくる。

「それは、かまわないけど」

 聡史は快く引き受けた。

「私、数学の問題全然分からなくて。27ページの問い六から問い八までが宿題なの」

 茉希は数学ⅡBの問題集の該当箇所付近を指で押さえる。

それほど難しい問題じゃないな。

聡史はそこを眺めてみて出来ると直感した。

図形と方程式に関する問題だった。

聡史はシャーペンを手に取ると、茉希の数Ⅱ用ノートに問題をすらすらと解いていく。大学でも数学を学んで来た聡史にとって、高校数学の基礎から標準レベルの問題を解くことはた易いことだった。

「すごーい。聡史くんは〝数学の達人さん〟だね」

「いやぁ、そんなことはないよ。俺、大学では同じ学科の奴で一番理解出来てなかったと思う」

「次はこれ、数Bの小テスト、間違えた問題を全部直して提出になってるの。聡史くん、私二問しか合ってないから大変だよぅ」

 続いて茉希はそのプリントと数B用ノートを取り出し、聡史に手渡す。

 小テストは一問一点の十点満点だった。分野は数列に関するものだ。

茉希の取得した点数は、わずか二点。

これは、さっきよりも基礎的で簡単だな。

 聡史は、茉希の使っている数B用ノートにすらすらと解答を記述していく。

「あのう、聡史お兄さん、あまり茉希さんを甘やかさない方が……」

 モニカもお部屋に入って来て口を挟んだ。

「それも、そうだね」

 聡史はハッと気付き、手の動きがぴたりと止まる。

「あぁーん、モニカちゃん、余計なこと言わないでぇ~。聡史くぅん、お願ぁーい」

「分かった」

 茉希にせがまれると、心優しき聡史は断り切れず問題の続きを解いてしまう。

「もう、聡史お兄さんったら」

 その様子を目にしたモニカは困惑顔だ。

「ありがとう聡史くん。助かったよ」

 数学の宿題を完成させたのを確認すると茉希は礼を言って、聡史の手をぎゅっと握り締める。

「いやぁ、これくらいは……」

 聡史の頬は少し赤く染まった。

「茉希さん、数学が出来ないと後々本当に困るよ」

 モニカは困惑顔で忠告するも、

「大丈夫だよ。私、二年生から文系クラスに進むし、大学は受験で数学使わない私立の文系学部行くもん」

 茉希はのほほんとした表情で主張した。

「それでも、数ⅡBまではしっかりと学んどいた方が絶対いいと俺は思うよ。急に進路変更したくなった時にも対応しやすいだろうし」

「聡史くんがそう言うんなら……私、数学も頑張る!」

「人生経験豊かな聡史お兄さんのご意見は説得力がありますね」

 モニカから褒められ、

「いや、俺、ごく当たり前のことを言っただけと思うけど……」

 聡史は照れくささからか少し俯き加減になる。

「ねえ、聡史くん、次は古文の宿題やって。徒然草を現代語訳にするの」

 茉希は国語総合の教科書と、古文用のノートをそんな聡史の目の前にかざした。

「こらこら茉希さん」

 モニカはニカッと笑って注意する。

「古文は、ちょっと……俺、国語は苦手科目だし」

 茉希のこの要求には、聡史は表情を曇らせた。

「あーん、困ったよぅー」

「ごめんね。役に立て無くて」

「聡史お兄さん、謝る必要は全く無いですよ。茉希さんがご迷惑お掛けしてすみません。わたしがちゃんとやらせますから」

「わぁーん、聡史くぅーん」

 茉希はモニカに腕を引っ張られ、モニカのお部屋へと連れて行かれた。

     ☆

それから一時間ほどが経った頃、

「やっと解放されたよう。なんとか出来てよかった。聡史くん、いっしょに寝よう」

 茉希はくたびれた様子でモニカのお部屋から出て来て、モニカといっしょに自分のお部屋へ。昨日と同じ配置で四枚のお布団を敷いた。

「眠い、眠い」

 ほどなくして詩織がやって来て、お布団に潜り込んだ。

「モニカちゃんは、まだ寝ないの?」

「わたしはまだ、やることがあるので」

「じゃ、先におやすみモニカちゃん」

「おやすみー、モニカお姉ちゃん」

「おやすみなさーい」

 モニカは笑顔でそう言って、自分のお部屋へ戻る前に、

「聡史お兄さん、ちょっとだけわたしとお付き合いしてくれませんか?」

 聡史のお部屋へ立ち寄った。

「いいけど」

 聡史は快く引き受けてあげる。彼がモニカのお部屋へ足を踏み入れたのは今回が初めてだ。学習机の上はきちんと片付いていて、備えの本立てと本棚には動物・昆虫・恐竜・乗り物・天体・植物などの図鑑や学習参考書、教養系の読み物が多数並べられてある。モニカが学業優秀な理由が頷けた。机棚には日本固有種として知られるオオサンショウウオ、ムササビ、ニホンザル、ニホンカモシカ、ニホンイシガメ、ニホンザリガニ、モリアオガエル、ニホンライチョウ。計八体の精巧なフィギュアも飾られていた。黒竹や浜木綿などの和風な観葉植物も窓際にいくつか飾られていて、中央付近に置かれた漆塗り座卓上にはテレビゲーム機も。二四V型液晶テレビもそれと向かい合わせに配置されていた。 

モニカはテレビ下にある収納ケースを引き出す。中にはゲームソフトが五〇本くらい詰められていた。テレビゲーム機用と携帯型ゲーム機用両方あり、RPG、アクション、音ゲー、学習用、パズルなどなど様々なジャンルが揃えられてあった。

「こちらへどうぞ」

 モニカに招かれ、聡史はテーブル横に敷かれてある座布団に腰掛ける。

「ポランスキーさんはゲームが好きなんだね」

「はい。日本のゲーム、特にアクションとRPGが大好きです。みつゑお婆さんも時たまテレビゲームをプレイされますよ」

「へぇ。意外だ。あのお齢で」

 聡史は少し驚いたようだ。

「ボケ防止に最適だからだっておっしゃられてたよ。聡史お兄さん、これ、いっしょにやりましょう。先週発売されたばかりのやつなんです」

 モニカが取り出したゲームソフトのジャンルはアクションだった。テレビゲーム機にセットし、電源を入れる。

「いいけど」

 俺こういうファミリー層向けのゲームやるの、小学校の時以来だな。

 聡史は快く引き受けてあげ、コントローラを握る。

「難しいな」

 5‐4面の半分くらい進んだ所で落とし穴に落ち、ミスしてしまった。

「わたしもこの面、全然クリア出来ないんですよ。でもそれが魅力的です」

 このゲームを三〇分ほど楽しんだあと、モニカは別のソフトに取り替えた。

 セーブデータを選択すると、和菓子店内の画面が表示された。

「これは、RPGかな?」

「はい」

「なんか、変わってるね。和風だ」

「普通RPGって架空の世界を舞台にするものですけど、このRPGは現代日本が舞台で、町の名前や山とか川とか駅とかの名前なんかも実在のと同じですよ。敵キャラもご当地に関連したのが登場してて、わたし今、徳島市内を旅してるんですけど、すだちとか阿波おどりの踊り子さんとか人形浄瑠璃の女形さんとかがモンスター化されてたわ。手に入る回復アイテムもぶどう饅頭とか金露梅とか金長まんじゅうとか、ご当地ならではの実在するものになってます。魔王とかドラゴンとか、エルフとか騎士とか亜人獣人とかゴーレムとか定番のものも出て来ないですよ。魔法も召喚獣も一切使えません」 

 モニカは生き生きした表情で楽しそうに伝えてくる。

「それは斬新だね。面白そうだ。俺、地理けっこう好きだし」

「わたし、剣と魔法がメインでファンタジー色の強い架空の世界が舞台な、ありきたり過ぎるRPGはあまり好きではないんです」

「そうなんだ。あの、ポランスキーさんが鶸松寮に入った理由って、やっぱ和風な造りに惹かれてなのかな?」

「はい、それが一番の理由です♪ 和食と和菓子を模っている外観は芸術的です。それと、みつゑお婆さんの人柄にもとても惹かれました。摂櫻を選んだのも、校舎や中庭が和風だったことに惹かれたからです。今や日本でもほとんど見かけなくなってしまった和式トイレも一部備えられていることにも魅了され、わたし、学校で用を足す時はいつも和式の方を使ってます。ところで、聡史お兄さんは、体育は、学生時代苦手でしたか?」

「うん、かなり苦手だったな。通知表も中学時代は5段階の最高で3、高校では10段階で4しか取ったことがないよ。大学でも必修の健康スポーツ科目で演習は優だったけど実習は辛うじて可だったな」

 聡史は苦笑いした。 

「そうでしたか。わたしも体育は大の苦手なんです。期末の保体のペーパーテストではいつも満点近く取ってますけど、実技はどうしてもダメなんです。気が合いますね」

 モニカは嬉しそうににっこり微笑む。

「そっ、そうだね」 

 聡史は少しだけ照れてしまった。

「中学の頃、体育の授業で習った剣道も全くダメでした。わたし、日本文化は好きですが武道は馴染めないです。相撲とか、見るのは楽しいのですが。茉希さんと詩織さんも体育苦手みたいですよ。その詩織さんのことなんだけど、わたし、学校行ってないこと、すごく心配で。小学校の時にいじめられて、みんなと同じ中学に行きたくないから、私立の摂櫻を受験したってわたしや茉希さん、みつゑお婆さんに泣きながら話してくれたの。けど詩織さん、そこでもやっぱりクラスに馴染めなかったみたいで、不登校になってしまって」

 モニカは困惑顔で話題を切り替えた。

「中学生くらいの年頃の人間関係は複雑だからね。まあ、行きたくなければ、無理して学行く必要は、ないんじゃ、ないかな。勉強は独学でも出来るし」

 聡史は若干緊張しているのか時々言葉を詰まらせながら意見を述べる。

「でも、やっぱり行かないよりは、行った方が絶対いいと思うの。わたしも小四の時に日本の学校に転校した時は、やんちゃな男の子にからかわれて、学校行きたくないなって思ってた時期があったから、詩織さんの気持ちはよく分かるんだけど……月に一、二回程度、二、三時限目の時間帯に保健室に登校して、ちょっとだけ過ごしてるみたいだけど、やっぱり教室でみんなといっしょに授業を受けて、学校行事に参加してもらいたいなって思うの」

「確かに。学校行事はその時しか体験出来ないからね。まあ、でも、二星果帆ちゃんっていう、仲の良いお友達もいるようだし、あまり心配することは無いと思うよ。学校の課題もきちんと仕上げてるみたいだし。俺なんかプライベートでしょっちゅう付き合うような親友なんて一人もいなかったよ。西風さんのことだけど、保健室登校の回数を少しずつ増やしていくとかして、やがて教室へ入れるようになれればいいんじゃないかなっと、俺は思う」

「確かにいきなり教室へ入れというのは、詩織さんには酷ですね。でも、二学期までにはちゃんと教室へ入れるようになって欲しいなって、わたしは思うよ」

二人はそんな会話を交わしたあと、このゲームを一時間ほどプレイしたのであった。

「あっ、もう0時半過ぎてますね。聡史お兄さん、夜分遅くまでお付き合いして下さり、誠にありがとうございました」

「いえいえ、どういたしまして」

二人はゲームとお部屋の電源を切って茉希のお部屋へ向かい、静かに布団に潜る。

それから三分ほどのち、

「あの、聡史お兄さん。起きてますかー?」

 モニカがまた、話しかけて来た。

「うん。何かな?」

 聡史はすぐに応答する。

「一つ大事なことを言い忘れてました。みつゑお婆さん、聡史お兄さんがここに来てくれたこと、すごく嬉しがってたよ」

「そうか。それは、光栄だな」

「みつゑお婆さんにとって、聡史お兄さんは宝物のような存在だとおっしゃってましたから」

「俺なんかが!?」

「はい。それには、ある理由があるからなんだそうです」

「どういった、理由なんだろ?」

「ごめんなさい、わたしも分からないです。でも、今年ももうすぐやって来る、あの日に教えてくれるそうです。では、聡史お兄さん、おやすみなさい」

「おっ、おやすみ」

 モニカから暗に伝えられた事、聡史は当然のように気がかりになった。

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