無い内定のまま三流大卒おかげさまで奇抜で雅な女子生徒寮管理人候補!?

明石竜 

第一話 既卒無職。無い内定嘆いていたら、梅おにぎり降って和食な旅館にご招待!?

「それではまず、碓永(うすなが)さんの自己PRからお願いします」

「俺、わたくしは……その、けっこう、几帳面な、性格でして……地道な努力家で、継続力があり、挑戦意欲が高く、慈悲深く…………あの……えっと…………」

「では次の質問に移りますね。大学をご卒業されてからこれまで、どのように過ごされて来たのでしょうか?」

「えー、その、IT企業や食品メーカーや、電機メーカーや、農協、学習塾、老人ホームなど、いろいろな企業を受けつつ、資格試験や、公務員試験にも、チャレンジを……」

「僕の方からも二、三質問させていただきます。うちの会社を志望した動機は?」

「えー、その、御社で開発されておられる、ソフトウェアの一つである、地理情報システムというものに、わたくし、特に興味を惹かれまして……その、他社にはあまり無い、独自性というか、社員数五〇名足らずの、中小IT企業なのに、業務が、多岐に、渡っているというか……加えて、わたくしが、大学時代に学んで来た、知識も、大いに、活かせるのではないかと…………えーまあ、そういうことです」

「何かスポーツ経験は?」

「……特には……ないです」

 五月下旬のある日の昼下がり。神戸市の中心地、三宮のオフィス街に佇む、とあるソフトウェア開発会社中途採用試験個人面接での一幕だ。

会場は会議室。室内中央付近にぽつんと置かれた折り畳み式パイプ椅子に座る碓永聡史と、長机備えの木製椅子に座る二人の面接官とが向かい合う座席配置。

三〇代後半くらいの女性と、五〇歳くらいのがっちりとした薄毛の男性から次々と質問され、碓永聡史(さとし)はいつもと変わらずたどたどしく答えてしまったのだった。


あぁ、今回も絶対不採用だろうな。試験案内には〝面接は一時間程度を予定しております〟と書かれてあったけど、五分くらいで終わったし――今までにも何度もあったことだけど。今回に限っては最後に何かご質問はありますか? とも訊かれなかったな。

先ほど受けた会社が入居する古びたオフィスビルから外へ出た聡史は、沈んだ気分でJR三ノ宮駅へと向かって歩き進む。その姿は傍から見ると、紺色のリクルートスーツがマッチ棒みたいな形をして路上を舞っているかのようだった。

聡史の身長は一六五センチ。体重は、五〇キロにも満たない。標準的な成人男性と比較すれば、かなりみすぼらしい体格といえよう。おまけにどんよりとした目つきで大抵いつも暗い表情、鈍重な立ち居振る舞い、声が小さく話すペースも遅い。いかにも頼りなさそうな風貌なのだ。

集団面接、集団討論(グループディスカッション)の場において聡史は毎回、同じグループになった他のメンバーと比べて最も発言量が少なかった。しかもその発言内容も周りから浮いてしまうような、あまりに突飛で的外れなものであることが多かった。他のメンバーや面接官を苛立たせたり、唖然とさせたりして来たことは枚挙に暇が無い。

入室してから着席するまでと退出する際の動作も、他のメンバーと見比べて悪い意味で一番よく目立ってしまうことが常であった。今回受けたような個人面接の場においても、訊かれた質問に対して返答するまでにかなり時間がかかってしまうことがこれまでにも度々あった。そして答える時は大抵しどろもどろになってしまう。

ようするに聡史は、コミュニケーション能力が著しく低いのだ。

面接結果は言わずもがな、いつも不採用となっている。

二十四歳、既卒二年目になってしまった聡史が大卒新卒就活解禁日より就活をし始めてから、これまでで不採用となった企業の数は書類選考落ち、応募後音沙汰無しも含むとはいえ聞いて驚く無かれ、なんと延べ三百社以上にまで達している。正社員はもちろんのこと契約・派遣社員、アルバイトですらも断られ続ける日々。

公務員試験も筆記は高確率で通過出来るのだが、やはり面接で撃沈。

就職活動をしていく上で、ごく普通の人ならば十社も受ければ少なくとも一、二社は採用に至るものだ。聡史がいかに社会から必要とされていないのかがよくお分かりだろう。

俺は簡単に入れる地方国立大卒。東大でなくとも旧帝大のどこかか早慶に入れていれば、状況がかなり違っていたのかもしれないな。俺の母校の先輩でもノーベル物理学賞貰ってる人いるにはいるけど。 

 ふと予備校の看板が目に留まった聡史は、己の学歴の低さに改めて失望感を抱く。聡史は学業面においても落ちこぼれだったのだ。


駅へ近づくにつれ、人通りもかなり増えて来た。聡史のように一人で歩いている者よりは、複数で行動している者の方がずっと多かった。

 そんな中、

「配属先の経理課長のデブ禿げの不細工なおっさん、マジうざいわ~」

「あいつキモ過ぎ。うちなんかもう百回以上はセクハラされたで。はよ辞めるか地方飛ばされて欲しいわ~。つーか死ねっ!」

「不祥事起してクビになってくれたらマジうけるし」

とある曲がり角から、スーツ姿の男三人女二人の集団が現れた。

「そういやオレと同じ大学でゼミも同じやって、内定出んまま卒業した奴おるねんけど、そいつやっぱまだ就職決まらんみたいやで。契約とか派遣も受けてるみたいやねんけど。昨日までで百二十社以上落とされたらしいわ~」

「マージで!? ちょっと引くわそれ。そんだけ受けて決まらんとかあり得んやろ。そいつやば過ぎ。どんだけ無能なんよ。おれなんか一社目で即効決まったし」

「やるなあ。オレは一社目最終面接落ちで、二社目で初めて内々定もらった。オレの一個下の武庫女の彼女も今年就活やねんけどインターンやっとうし絶対順調に行くやろな」

「彼女おったんかぁいっ!」

会話内容から察するに、おそらく大卒新入社員の方々なのだろう。彼らは聡史の前方を遮るように横に並んで歩き進みやがる。生き生きとした明るい表情で、じつに楽しそうに。男の方は皆、背丈が一八〇センチ近くあった。

百二十社程度で無能扱いなのかよ? 陰口言い回ってモラル低そうな連中だな。

 聡史が不快に感じたその直後、彼らの一人がとんでもない行動をとった。飲み終えた缶コーヒーを道路脇に平然とポイ捨てしたのだ。

「あっ、彼女からメール来てるわ。仕事終わったらハーバーランド来いって。うぜえっ」

罪悪感に全く駆られてないのだろう、彼はスマホを取り出していじり始めた。

採用担当者共はあんなろくでもないやつらに内定与えてるのかよ。ああいうのは社内とかでは礼儀正しくマナー良く振る舞ってるんだろうけど、外へ出ればあんな態度だ。皮肉なことに、ああいうタイプの人間って他人に媚びへつらうのも上手いんだよな。

彼らの発した言葉や行動に、聡史は強い憤りを感じた。思わず路肩に落ちていた小石をぶつけてやろうかと思ったほどだ。

俺の方が、あいつらなんかよりもずっとずっとモラルの高い人間だってことを教えてあげよう。これは、スチールだな。

 聡史は誰からも褒められるわけでもないのにU字磁石のような形に腰を曲げ、彼の投げ捨てた缶コーヒーを拾い上げ、そこから三〇メートルほど先にあった自販機横の空き缶入れにきちんと分別して捨ててあげた。

 引き続き、聡史は俯き加減で歩き進む。

学生の身分の内に易々と仕事にありつけてしまうやつらって、仕事をさせてもらえるということが、いかにありがたいことであるのかが一切理解出来ない人間になっていくんだろうな。仕事は貰えて当然、適当に仕事してても給料いっぱい貰えるんだって舐めた考えになるんだよ、絶対。特に一流企業勤めや公務員の方々はその傾向が顕著だろう。何でも自分の思い通りになるという、我侭で横柄な人格も形成されていくに違いないぞ。実際、仕事に就いてるやつらって、短気で傲慢でモラルに欠けたのばかりだからな。さっき銀行員っぽい四人組が平気な顔で信号無視して横断歩道渡ってるのを見たし。道いっぱいに広がって、のろのろ歩いてるサラリーマン・OL連中はけっこう見かけるなぁ。他の歩行者の邪魔になってるってことを何とも思わない自己中なやつらなんだよ、きっと。だいたい悪徳業者の存在。パワハラや給料未払い、不当解雇といった職場いじめっていうのは、冷酷で悪辣でモラルに欠けたやつらばかりが仕事にありつけてしまっているからこそ、社会問題化しているんだろ。

そんな持論を心の中で呟いてしまいながら、JR三ノ宮駅構内、自動改札を通り抜けたちょうどその時、

「ん?」

 聡史のスマホがブーッと震えた。

メールか。

 聡史はホームへ通じる階段を上りながら、スマホをズボンポケットから取り出す。

採否結果のご案内かよ。

聡史は件名を見ると、期待を全くせずにメールの中身を開いてみた。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

碓永 聡史様

                   ソフトパーククリエイティブ株式会社

総務部人事課 採用担当 三木 一哲 

 

     採否結果のご案内


新緑の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。 この度は、弊社求人へご応募いただき、誠にありがとうございました。

さて、今般の選考に当たりまして慎重に検討いたしました結果、今回は貴意に添えないとの結論に至りました。何卒ご了諾戴けますようお願い申し上げます。

末筆ながら、貴殿の今後ますますのご健勝をお祈り申し上げます。  

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 予想通りの不採用通知。

またかよ。日常的にもらい慣れているとはいえ、やはりきつい、精神的に。ていうかさっき受けたばかりの会社じゃないか。来るのが早過ぎだろ、採否結果は一週間程度で連絡致しますって言ってたけど、一週間どころか一時間も経ってないぞ。それに、書面ではなくメールって失礼だろ。いつも思うけど何が〝慎重に〟だよ。どうせ即、不採用と決めたんだろ。まあ、通知が来るだけでも良心的だな。応募してもそれ以降全く音沙汰ない場合も多々あるから。俺に、いつまで就活させる気だよ? どこまで俺を追い込むのか――。

俺はもう一生、就職は無理なのか?

 聡史の社会に対する恨みは日に日に増すばかりだ。長期の就活経験で失った履歴書代、証明写真代、交通費、封筒代、郵便料金。それらの額は莫大なものになっていた。

経歴にも、救いようのないくらい致命的欠陥を抱えてしまった。学生の身分の内に就職先を決め、最終学歴後すぐに勤務し始めるのが一般的な日本社会。聡史のようにそのレールから外れた者は、就職がますます困難な状況に追い込まれてしまうのだ。

事実、聡史も大学を卒業して無職となって以降は書類選考の段階で撥ねられ、面接にすら辿り着けないケースが顕著に増えていた。

内定通知って、本当に実在するのかよ? 伝説上の幻のアイテムなんじゃないのか? ここまで不採用が続くと、その存在すら疑わしいぞ。

聡史にとって内定通知なんてものは、もはや空飛ぶ絨毯やランプの魔人、人魚、河童、ミノタウロス、ペガサスといった空想上の存在物と化しているのである。

なんか、就職活動をすればするほど、ますます内定からは遠ざかっているような錯覚さえしてくる。俺の履歴情報がいろんな企業や役所に行き渡って、採用しないように仕向けられてるんじゃないのか? これだけたくさん受けまくっていればな。 

 聡史は不採用通知を受け取ったショックからか、ホームのベンチに座り込んで根も葉もないことも頭に浮かべてしまう。

面接、予定より随分早く終わっちゃったし、本屋にでも、寄るか。

 ふと思い立った聡史は、ほどなく同じホームにやって来た米原行き快速電車に乗り込み、自宅最寄り駅に降り立つと、なんとも鬱屈した気分で時間潰しのため駅前の馴染みの本屋へ立ち寄る。

面接対策の本は山のように出てるけど、本番じゃ全然役に立たないないよなぁ。そろそろ家帰るか。

 聡史は新書やラノベ&コミック新刊、就活対策本コーナーなどを三〇分ほど立ち読みしつつ、うろうろしながら過ごして外へ出た。

 学生の身分のうちに漫画家とかラノベ作家デビューして、そのまま成功して若いうちに一生遊べる金稼げて、企業への就活とは無縁の人生を歩めた奴はいいよなぁ。そういう人は面接試験も受けたこと無いだろうし。

 俯き加減でこんな羨望の思いを心の中で呟いていたら、

「いっ、てぇぇぇーっ!」

街路樹の枝にぶつかってしまい、額にジンジン痛みが走る。さらにその振動からか、この木の上からある物体が落下し彼の脳天をコツンッと直撃した。

「あいたぁっ!」

泣きっ面に蜂かよ。俺、今日は本当に不運続きだな。いったい何が落ちて来たんだ?

なんとも惨めな聡史は涙目で地面に目を遣る。そこにはなんと、八センチ大ほどの三角おにぎりがあった。透明な袋に包まれたままの状態だった。

なんでこんなものが木の上にあったんだ!?

聡史はそれを拾い上げ、怪訝な表情で見つめる。


次の瞬間、彼の身に予期せぬことが起きた。


「親切なお兄さん、ありがとうございます。私、さっきその梅おにぎりくんを食べようと袋を開けようとしたら、カラスさんにパクッとくわえられていっちゃったんですよ」

いきなり背後から一人の女の子に、ゆったりとした口調で声をかけられたのだ。

「えっ、俺!?」

聡史は恐る恐る後ろを振り向く。そこにいた子は丸顔ぱっちり垂れ目、細長八の字眉、ほんのり茶色な髪を和風なアジサイ柄のシュシュで二つ結びに束ね、肩にかかるくらいまで下ろしていたのが特徴的だった。少し痩せ型で、服装は胸ポケットの付いた白地長袖ワイシャツに、えんじ色チェック柄スカート。移行期間中の制服姿と思われる。

「こんにちはーっ、はじめまして。私、摂櫻(せつおう)女子高等学校一年の幸岡茉希(こうおか まき)って言います。あのっ、藪から棒ですが、もしよろしければ、あなたのお名前聞かせてくれませんか?」

その茉希と名乗った子は聡史に顔を近づけ、にこやかな表情で問いかけてくる。聡史は緊張からか額から冷や汗がつーっと流れ出た。ドクドクドクドク心拍数も急上昇する。

「おっ、俺の、名前は、碓永聡史、だけど……」

 聡史は言葉を詰まらせながら思わずフルネームで答えてしまった。

「聡史くんっていうんですね。砂糖菓子が食べたくなっちゃうお名前ですね」

 茉希は不○家のペ○ちゃん人形のように舌をぺろりと出した。

「……」

聡史はどう反応すればいいのか分からず戸惑ってしまう。

「聡史くん、梅おにぎりくんを救って下さり、本当にありがとうございました。私の大好物なんです♪」

 茉希はにこやかな表情のまま、聡史が右手に持っていたおにぎりの袋を掴み取る。そしてそれを肩に掛けていた通学鞄に仕舞った。

「どういたし、まして」

 なんだ、この不思議な子は?

聡史はただただ呆然と立ち尽くす。

「あのっ、聡史くん。私から、ちょっとお願いしたいことがあるの」

茉希は急に真剣な眼差しになり、聡史の目をじっと見つめてくる。

「なっ、何かな?」

 聡史の心拍数はますます高まった。

茉希はちょっぴり俯き頬をほんのり赤らめて、すぅと息を大きく吸い込んだ。

そして、


「聡史くん、私、あなたに一目惚れしちゃったの。真面目そうで誠実そうで、賢そうで心優しそうなところに、すごく好感が持てたの。あのっ、これからいっしょに暮らして下さいっ!」


周囲に響き渡る大きな声で、なんと聡史に告白して来たのだ。

「えっ!? いっ、いっしょに、暮らしてって……」

 聡史は当然のごとく動揺の色を隠せなかった。

「今から聡史くんを、私のおウチへご案内しまーすっ!」

「うわっ!」

 そんなことはお構いなしに、茉希は右手をぎゅっと握り締めてくる。マシュマロのようにふわふわ柔らかい感触が、聡史の手のひらにじかに伝わって来た。

「こっちです、こっちです」

「わっ、わわわわわ、ちょっ、ちょっと」

聡史は茉希にグイグイ引っ張られていく。

茉希の背丈は一五〇センチ台後半くらい。聡史よりも小柄だが、彼は完全に力負けしてしまっていた。

「あっ、あの、手を、離してくれないかな?」

「嫌です。せっかく出会えたのに。絶対離しませんっ!」

 茉希は聡史の方を振り返りながらそう告げて、聡史の手をさらに強く握り締めた。

「そっ、そんな……」

 下手に抵抗して痴漢だとか叫ばれでもしたら非常に困る、と危機感を抱いた聡史は茉希にされるがままにされるしかなかった。

あれよ、あれよという間にマルーンの車体で知られる阪急電鉄の踏切を通り抜け、さらに北の方角へ。急な坂道を駆け上がりつつ閑静な住宅街を走り抜け、青々とした木々に囲まれた五十段ほどの緩やかな石段を駆け登らされ、ついには山がすぐ背後に迫った所まで連れて行かれた。

「ここでーす。私のおウチ♪」

 茉希はようやく手を離してくれる。

「……すっ、寿司!?」

 聡史はゼェゼェ息を切らしながら、すぐ目の前に聳える建物を見上げて驚く。

 窓ガラスは所々に見受けられるものの、外壁が握り寿司のシャリそっくりな形をしていたのだ。齧ったらその味がしそうなくらいに。

屋根瓦は葺かれてなく、赤い物体と東雲色の物体と白い物体が乗せられていた。

まさに巨大なトロとサーモンとイカの握り寿司だった。

「雅で美味しそうな建物でしょ? 三階建てで中はごく普通だよ。さあ、聡史くん。どうぞこちらへ」

「わわわ」

 聡史は再び茉希に右手を握り締められ、ズズズッと引っ張られていく。

「ただいまーっ!」

 茉希は、わさびを模したかのような黄緑一色の横開き玄関扉をガラガラッと引くと、元気よく帰宅後の挨拶をした。

「おかえり、茉希ちゃん」

 数秒待つと、奥から一人のお婆さんが現れた。

「お婆ちゃん、この誠実そうなお兄さんを、新しい管理人さんにしよう!」

 茉希は聡史の右手を握り締めたまま、元気な声で伝える。

「へっ、へっ!?」

 聡史は目を大きく見開いた。

「茉希ちゃん、そちらのお兄さん、かなり動揺してるよ。事情はちゃんと説明してあげたのかい?」

 お婆さんはにこにこしながら二人のいる方へ歩み寄ってくる。

「あっ、いっけなーい私ったら。ごめんね聡史くん」

 茉希はてへっと笑う。

「あっ、あの、ですね……」

 聡史は棒立ちのまま、口をパクパクさせていた。

「お兄さん、聡史ちゃんって名前なのかい。汗ようけかいとるね。きつい坂上って来て疲れたろう? ちょっと休憩していきな」

 お婆さんに手招かれる。

「いっ、いえ。その、俺は……」

 聡史は慌て気味に断ろうとした。

「聡史くん、上がって、上がってーっ!」

「わわわわわ」

 しかし茉希にまたも右手をぐいっと強く引っ張られ、無理やり上がらされてしまった。

 聡史と茉希は玄関先で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。

目の前はロビーとなっていた。

外観とは対照的に、特に奇抜さは感じられなかった。

なんか、旅館っぽいな。

聡史はそんな第一印象を抱く。

「聡史ちゃん、茉希ちゃん。ここへお座り」

 お婆さんに案内されたのは玄関入って左側に見える、高級そうな桐座卓をコの字型に囲むように抹茶色のソファーが並べられてある場所。座卓のすぐ横には四六V型液晶テレビも置かれていた。右側には食事スペースなのか、わりと大きめの漆塗りダイニングテーブルと、それを囲むように木製椅子が六つ並べられてあった。

 ソファーに聡史と向かい合うようにお婆さん、聡史のお隣に茉希が座る。

「聡史くん、こちらのお婆ちゃんのお名前は辰馬みつゑさん。お歳は九三歳だよ」

 茉希は自慢げに紹介した。

「はじめまして、聡史ちゃん」

みつゑさんは聡史に優しく微笑みかける。このお方は髪の毛こそ綿菓子のように真っ白であったが、顔にはあまり皺は無く背筋もぴんと伸びていた。身のこなしも機敏で声も元気溌剌としていて、とても九三歳とは思えない若々しい風貌だった。

「はっ、はじめ、まして」

なんだよ、これ。新手のキャッチセールスか? だったら早く逃げないと……。

 聡史はおどおどしながらも、ぺこりと頭を下げた。

「お客様ですかー?」 

 奥からもう一人、中学生くらいのヨーロッパ系外国人だろう女の子が現れた。三人のいる方へ歩み寄ってくる。

「そうだよ、聡史くんっていうの」

 茉希は嬉しそうに伝えた。

この女の子の背丈は一五〇センチ台前半くらい。卵顔でおでこが広く、ブルーの瞳に縁無しのまん丸な眼鏡をかけていた。髪の色はクリーム色。和風な桜の花のチャーム付きりぼんで三つ編み一つ結びにしていて、見た目から優等生っぽさが感じられた。

「いらっしゃいませ、聡史お兄さん」

「あっ、どうも」 

 爽やかな笑顔と流暢な日本語で挨拶され、聡史は頭を少し下げて会釈した。

「聡史ちゃん、礼儀正しいねえ」

みつゑさんは感心する。

「いえいえ。俺、それほどでは……」

 聡史はすぐに謙遜した。

「聡史ちゃん、スーツは暑かろう? 脱いでリラックスしな」

 みつゑさんは笑顔で勧めてくる。

「いっ、いえ。俺、これでちょうどくらいですから」

本当は暑いけど、いざという時に逃げにくくなるからな。

 聡史は警戒して、身に着けていたリクルートスーツを外そうとはしなかった。黒のビジネスバッグも左手に持ったままだった。

「どうぞ」

 女の子が丹波の黒豆茶と炭酸せんべいを座卓に運んで来てくれた。聡史の目の前にコトンと置く。

「あっ、ありがとう」

あとで高額請求されたりしないだろうな。 

聡史は礼を言うもそんな不安がよぎり、手をつけようとはしなかった。

「わたし、モニカ・ポランスキーと申します。ポーランド出身です。私立摂櫻女子中学の三年生で、理科部とかるた部と茶道部に所属しています。日本語は三歳の頃から習っていまして、漢検準一級と日本語能力検定N1持ってます。わたしの日本語能力は一般的な日本人中学生よりも高い自信がありますよ」

この女の子はモニカというらしい。ちょっぴり照れくさそうに自己紹介をしたあとみつゑさんのお隣に腰掛けた。

「きみも、この旅館っぽい所に住んでるの?」

 聡史は恐る恐る質問してみた。

「はい。わたしと家族は五年前の三月に故郷から京都に移住し、わたしは中学に入学した時から家族と離れてここに住むようになりました。ここは、今は旅館ではなく摂櫻女子中学校・高等学校の生徒寮として利用されてるの。全校生徒一四〇〇名くらいいるうち二割程度が寮に入ってますよ。ただ、みんな同じ寮というわけではなく、いくつかの提携寮に分散させているんです。ここ鶸松(ひわまつ)寮のようにこぢんまりとした寮から、百名以上収容出来る大きな寮までいろいろありますよ」

「そっ、そうなんだ」

 モニカの説明で、聡史は腑に落ちたようだ。

「そんで、おらがこの鶸松寮の現管理人なのさ。聡史ちゃん、おら、見ての通り高齢だろ? 卒寿もとっくに過ぎていつポックリいくか分かんねえから、管理人の後継者となる若い子を探してたのさ。まあ、おらもまだまだ引退しないけど。少なくとも百まではね」

 みつゑさんはにこにこ笑いながら言う。

「お婆ちゃんは二〇歳以上から七〇歳くらいまでの人を募集してたんだよ」

 茉希は説明を加えた。

「学校のホームページに、求人広告を出そうかと思ってたとこなのさ」

 みつゑさんはさらにこう伝えた。

「そうなん、ですか」

 聡史はぽかんとなる。

ミャーォ。

 突如、奥からネコの鳴き声も聞こえて来た。

ほどなく四人の前に姿を現す。

 白、黒、茶、三色の毛並み。三毛猫だった。茉希の方へとことこ駆け寄ってくる。

「この子は鶸松寮のペットでマスコット的な存在の萬藏(まんぞう)っていうの。私は萬ちゃんって呼んでるよ。メスだけど萬藏、男の子の名前みたいで面白いでしょ。お婆ちゃんが若い頃大人気だったお相撲さんの名前から取ったんだって。今四歳だよ」

 茉希は嬉しそうに紹介する。

 その萬藏と名付けられた三毛猫は、茉希のお膝の上にちょこんと乗っかった。茉希は頭を優しくなでてあげる。

「三毛猫は、ほぼ百パーセント、メスだよな」

 聡史は的確に突っ込んだ。

「オスの三毛猫なんて、おらも九〇年以上生きて来たけど一度たりとも見たことねえな。ここは旅館として大正時代から長年経営してたんだけど、震災で一度全壊したんだ。建て直したさい元の姿を再現したんだけど、客足が震災以前に比べると大幅に減ってしまって経営が苦しくなってね。そんで、平成十年度からは摂女の提携寮として使うようになったのさ」

 みつゑさんはこの寮の沿革を簡潔に語る。

「震災って、阪神淡路大震災のことですね。俺は生まれてたけど幼過ぎて覚えてないな」

「あの日はたまたま休館日にしてて、宿泊客がいなかったのがまだ幸いだったよ。ところで聡史ちゃんは、今どんなお仕事してるんだい? 見たところごく普通のサラリーマンっぽいけど」

「いえ、その、俺は、スーツを着ていますが……無職です。大学を卒業して以来、ずっと」

 みつゑさんから突然された質問に、聡史はびくっと反応したあと重々しく口を開き、俯き加減に打ち明けた。

「おやま、そうだったのかい、なら一層好都合じゃあないか。聡史ちゃんは、タバコは吸うのかい?」

 一瞬沈黙があった後、みつゑさんは興味深そうに尋ねてくる。

「いえ、全く」

「パチンコや競馬、競艇とかの賭け事、風俗店の利用は?」

「それらも、一切手を出したことはないです」

 聡史は訊かれたことに無表情で淡々と答えていった。

「そうかい、そうかい。とても品行方正な子だねぇ。じゃ、喜んで採用するよ。まさに求めていた人材ぴったりだ」

 みつゑさんはにっこり笑いながらおっしゃった。

「えっ…………えええええええええええええええっ!!」

 すると聡史は目を白黒させ驚愕の声を上げた。

「とりあえず、最初の一月くらいは試用期間ってことになるけど、他に仕事無いならやってみないかい?」

 みつゑさんはとても嬉しそうに誘いかけ、聡史の肩をポンッと叩く。

「あの、それって、俺を、ここの旅館、ではなく寮の管理人として、雇うということ、なんです、よね?」

 聡史は唇を震わせながら、言葉を詰まらせながら質問する。

「その通りさ」

 みつゑさんはにこやかな表情で告げた。

「本当に、俺なんかを、採用して、いただけるんですよね?」

 聡史は怪訝な表情を浮かべ、再度尋ねる。

「もちろんさ。住み込みでね」

 みつゑさんはにこやかな表情で告げた。

「……ってことは、俺も、ここで、暮らせということなんですか?」

 聡史はきょとんとなった。

「おう、鶸松寮はかわいい子満載だよ」

 みつゑさんは笑いながら答える。

「聡史くん、鶸松寮の新しい管理人さんになって、なってーっ」

「わたし、聡史お兄さんなら大歓迎ですよ。かなり真面目そうなお方ですし」

 茉希はもちろんのこと、モニカもそれを強く望むような言葉をかけた。

「今日は木曜かいね。引越しの準備もあるだろうし、聡史ちゃん、来週月曜から来てくれないかい?」

「えっ、あっ、はい。もちろん、いい、ですけど」

「採用に当たって、履歴書と健康診断書を提出してくれないかい?」

「わっ、分かり、ました」

 みつゑさんからの要求を、聡史はやや戸惑いながらも引き受けた。

「おらはべつにそんなのはいらないと思ってるんだけど、学校側が提出を求めてるんでね」

 みつゑさんは大きく笑った。

「いやぁ、身元確認のために必要だと思うのですが……」

 聡史はやや困惑顔で突っ込む。

「聡史くん、寮生はもう一人いるよ。中学二年生の西風詩織(にしかぜ しおり)ちゃんっていう子、呼んでくるね」

 茉希はそう伝えると、ロビー隅にある昔ながらの箱階段を駆け上がり二階へ。

「詩織ちゃん、あの男の子が新しい管理人さんになってくれるよ。お顔見せてあげて」

「……」

 茉希がお部屋の出入口を引いてこう叫ぶと、詩織という子はお部屋から出て来て、階段の所からロビーに向けてぴょこっとお顔を出す。無言のままぺこりと頭を下げて、すぐにお部屋へ戻っていった。

あの子か……。

聡史はその子と一瞬だけ目が合った。一五〇センチに届かないだろう小柄さ、丸っこいお顔とくりくりしたつぶらな瞳。ほっそりした体つきで、ボサッとした墨色の髪を水色リボンでポニーテールに束ねていたことが確認出来た。 

「詩織ちゃんは人見知りの激しい子なの」

 ロビーへ戻って来た茉希は手短に紹介する。

「あの、そんな繊細な子がいるのに、俺みたいな、今日初めてここを訪れた者が管理人をして、大丈夫なのでしょうか?」

 聡史は不安げに問うた。

「大丈夫だよ、聡史くん」

「詩織さんは、きっと聡史お兄さんのことを気に入ってくれると思いますよ」

 茉希とモニカは自信たっぷりに言う。

「聡史ちゃんなら、詩織ちゃんとも絶対上手くやっていけるさ」

 みつゑさんも同じく。

「そうで、しょうか? あの、おばあちゃん、俺のような、今まで延々と就職活動をして来て、企業から何百社も不採用にされ続け、公務員試験にも落とされ続け、どこからも雇ってもらえなかった、かつてないほど無能な俺を、採用して下さり、誠に、誠にありがとうございます」

 聡史はみつゑさんに向かって深々と頭を下げる。聡史の目には、ちょっぴり嬉し涙が浮かんでいた。

「いえいえ、何をおっしゃいます。こちらこそ大感激さ」

 みつゑさんはにっこり微笑みかける。

        *

「こんな場所だったんですか。俺んちから三キロくらいですね。では、失礼致します」

聡史はあのあと、みつゑさんから鶸松寮の見取図、アクセスマップ、仕事内容の説明などが記載された書類を受け取り、ここをあとにした。

ついに……ついに、ついに採用されたんだな、俺。まさか、こんなことになるとは……人生何が起こるか分らないものだな。寮生も女子寮モノの漫画やアニメに高確率で出てくる俺の苦手なビッチ系や酒豪で気の強い姉御肌の子がいなくて、俺好みの垢抜けない純真無垢な感じの子ばかりだったし、管理人体験やってみたいなって感じたよ。外観も風流だし。こんなお誘いが来るなんて、俺、無い内定でよかったかも。 

聡史はこれまで二十四年と半年ちょっとの人生の中で最高とも言える高揚感を味わいながら、徒歩で自宅へ帰って行く。

……待てよ、採用してくれると聞かされて、つい我を忘れてよく考えないまま承諾の返事をしてしまったけど、これって……採用詐欺なんじゃないのか? 冷静に考えると、今まで派遣やバイトですら採用されたことがない俺なんかを、こんなにあっさり採用してくれるなんて、あり得ないことだよな?

 けれども途中で急にこんな不安もよぎって来た。

         ☆

「おふくろ、親父。俺の、就職先が、決まったんだけど……」

聡史は自宅に帰り着くとすぐさま還暦を迎えた母と、定年退職間際に迫った父に報告した。

「えぇぇーっ!! 嘘ぉ!?」

 母は目を丸くする。聡史の就職先が決まることは、宝くじの一等に当選するようなものだと思っていたからだ。

「本当に、決まったのか?」

 父も同じような反応をした。

「うん、一応……」

彼からの問いかけに、聡史はこくりと頷く。

「何という名前の会社?」「初任給はどのくらいや?」「いつ創立されたん?」「資本金は?」「社員一人当たりの売上高は?」「社員数は?」「どういった事業を展開してるん?」

 父は次々と質問してくる。

「その、なんというか、普通の民間企業のように、他社と激しく競い合いながら利益を上げるとかそういう感じのところではなくて、教育施設の事務職みたいな感じで……その、今日受けに行った会社は即不採用にされたんだけど、その、帰る途中に、女子高生にここに誘われて、それで、簡単な面接を受けたら、あっさり採用されて…………」

聡史はそう伝え、父にみつゑさんからいただいた書類を手渡した。

聡史の父は私立中高一貫校に理科教員として勤めている。公務員ではないが、比較的安定した身分だ。倒産やリストラされる心配もほとんどない職業といえよう。

「生徒寮の、管理人をするのか!?」

父はけっこう驚いていた。

「そうなんだけど、この鶸松寮っていう寮、私立摂櫻女子中・高の提携寮の一つみたい」

「摂櫻!? その学校って、なかなかの名門校やない。そこと提携している生徒寮なのか。それは良かったじゃないか」

 聡史がそう伝えると、父の表情に笑みが浮かんだ。

「生徒寮の管理人って……生徒達の相談相手とかになってあげんといかんし、人付き合いや対人能力が相当いるでしょ。聡史、そこで本当にやっていけるのかしら」

 母は少し心配になったようだ。

「まあ母さん、ここを見ると、聡史にとってぴったりの職業かもしれないじゃないか」

 父は柔和な笑顔で言う。仕事内容が説明されてある書類には、求める人物像:品行方正、素直で正直者、誠実、地道な努力を怠らず真面目で心優しい人。と書かれてあった。

 まさに聡史のことだ、父は感じたのだ。

私立摂櫻女子中学校・高等学校は、聡史の父が勤めている学校のライバル校らしい。入学難易度も同じくらいではあるが、父の勤めている学校はスポーツ万能な活発系、摂櫻の方には真面目で大人しい文化系の子が多く集まる傾向にあるという。

そう聞かされた聡史は、今回の件は採用詐欺ではなさそうだと確信した。

さてと、提出用の履歴書を書かなきゃ……これが、最後になればいいな。

 自室へ入るとすぐさま机の引出から新品の履歴書用紙を取り出し、万年筆を右手に持った。丁寧な字で履歴書の各項目を埋めていく。

始めに日付、氏名、生年月日、満年齢、郵便番号、住所、電話番号を書き、性別欄の男に○を付ける。

次に学歴欄。聡史は小中高とも公立で、一浪後に国立大学へ入学した。そして講義にはいつも真面目に出席し、レポート課題も提出期限をきちんと守り、留年も休学もすることなく、きっちり四年で卒業。 

職歴欄には〝なし〟と記入。一行空けて右詰に〝以上〟と書く。これまで書き直しを含め、何百枚も書いて来た聡史の筆遣いは馴れたものだった。

 志望動機欄も記入していく。

志望動機か……どうしよう? 思いがけず採用されたし、おばあちゃんは空欄のままでいいって言ってたけど。

 ここは空欄のままにしておいた。

資格欄他の項目も全て記入したあと、最後に証明写真を貼り付けて履歴書は仕上がった。

健康診断書、一応問題無いけど……。 

 痩せてはいるが持病は一切無く至って健康。ただ、視力はかなり悪かった。裸眼視力は両目とも0.1未満だ。そのため彼は度の強い眼鏡を愛用している。

わりと広いんだな。

聡史は続いて鶸松寮の見取り図を確認した。

玄関があるのは南側。寮の一階、ロビーの奥には北に向かって廊下が伸びており、西側に台所と談話室、東側に共同トイレ、管理人室、書斎が南側から順に並んでいる。廊下をさらに奥へ進むと両側に中庭が見えて来て、そこを十五メートルほど突き進むと平屋建ての別館へ辿り着く。そこは大浴場となっていて、外観は冷奴を模っているとのこと。

客室は本館二階と三階にある。各階四屋ずつの全八屋。どのお部屋も広さ十畳ほどの和室だ。寮生三人は二階の客室を利用しており、茉希が201、モニカが202、詩織が203号室。生徒寮といえば相部屋がイメージされるが、ここでは珍しく一人一部屋ずつ用意されていた。

鶸松寮の内装は大正五年の旅館創業当時からほとんど変わりないものの、建て直すさい建物の一部を旧来の木造から耐震性の強い鉄筋コンクリート造りに変えたらしい。

外観は二〇〇五年に白漆喰塗り杉板張り&抹茶色屋根瓦から、和食を模ったものに改装したそうだ。

     ☆

午後八時頃、鶸松寮。

「聡史くん、早く来ないかなぁ。楽しみだなぁ」

「とっても誠実で心優しそうな人だったわね。わたしも一目で気に入っちゃった♪」

茉希とモニカ、そして詩織も、大浴場の湯船にゆったり足を伸ばしながらくつろいでいた。浴室には、一度に十人以上は入れる大きな檜風呂が備え付けられてあるのだ。

「詩織ちゃん、新しい管理人さんになってくれる聡史くん、すごく良さそうでしょ?」

「……分かんない」

 茉希の問いかけに、詩織は困惑顔でこう答えた。

      ※

「アイス、アイス♪ これからはアイスが美味しくなる季節だねえ」

 茉希は風呂から上がり脱衣場で体を拭くと、そのまま台所に駆け込み冷蔵庫の前へ。中から抹茶味のアイスキャンディーを取り出しロビーへ向かい、ソファーに座ると同時にパクッと齧りつく。

「茉希ちゃん、聡史ちゃんが来たら、そんなはしたない格好のままうろついたらいけないよ」

 みつゑさんはにこにこ微笑みながら、抹茶アイスを美味しそうに頬張る茉希に優しく注意した。

「はーい」

 茉希はてへりと笑う。バスタオルを一枚、膝上から肩の辺りにかけて巻いただけの姿だった。

「わたしも気をつけなくては」

「あたしも気をつける」

 同じような格好でロビーに現れたモニカと詩織は、ちょっぴり反省する。

 三人とも脱衣場へ戻りパジャマを着込んだあと、またロビーへ。

 その途中、茉希はもう一度台所へ寄り、戸棚にあった鯖缶を持って来ていた。

「萬ちゃん、エサだよ。おいでーっ」

 ミャァー♪ 

 茉希が鯖缶を開け床の上に置くと、萬藏が一目散に駆け寄ってくる。

 萬藏は鯖が、ネコにはありがちだが一番の大好物なのだ。

「萬ちゃん、美味しい?」

 茉希がにこやかな表情で話しかけると、

 ミャァーンと、萬藏はとても幸せそうな表情で返事をした。

「そうか、そうか。鯖好き萬ちゃんだねぇ」

 茉希は萬藏のふわふわした胴体を優しくなでてあげた。

「茉希ちゃん、なかなかの逸材を見つけて来たね。いまどき滅多にいないよ、あそこまで純朴で人柄の良い子」

 みつゑさんは柔和な笑みを浮かべる。とても嬉しそうだった。

「私、一目見て不思議な魅力を感じたの。聡史くんは普通の人とはオーラが違うなぁって」

 茉希はてへりと笑う。

「でも、どうしてあんなに良い人そうなのに、今までどこからも雇ってもらえなかったのかなぁ?」

 ソファーに腰掛け、ゆったりくつろぎながらバラエティ番組を眺めていたモニカは、ふと疑問を浮かべた。

「聡史ちゃんは確かに誠実で謙虚、心優しく慈悲深く、素直で正直者で品行方正な善良な子だよ。おらは一目で聡史ちゃんの人となりが分かったさ。でも、大人の社会では聡史ちゃんみたいな性格の子であっても、人間的に優秀だと評価されるとは限らないのさ。モニカちゃんは、無職っていうとどんなイメージ持ってるんだい?」

「うーん……平日の昼間からパチンコ店や、競馬場に入り浸ってる柄の悪そうな人達かなぁ? 社会科の先生も、無職にはろくな人間がいないっておっしゃられてたよ」

「私もそんなイメージ持ってた。でも、聡史くんは例外だね」

 みつゑさんからモニカにされた質問に、茉希も答えた。

「いやいや例外ではないのさ。無職の中には親や学校の先生とかから言われたことはきちんと守る。学業優秀、そうではないにせよ自分なりに日々コツコツ努力する。不良行為や賭け事にも一切手を出さず真面目に生きて来た。こんな良い子として育って来た人間性のとても優れた子もいっぱいいるのさ。世の中には人の悪口を言ったり、騙したり、暴力をふるったりお金を盗んだりが平気で出来るような、奸悪な一面がある子達もたくさんいるけど、そういう子達の方が世の中で求められてるリーダーシップやコミュニケーション能力、社交性が優れているとかって社会から高く評価されて、就職もその後の出世も上手くいくケースも大人の社会じゃよくあるものなのさ」

 みつゑさんはため息交じりに長々と話し伝える。

「みつゑお婆ちゃん、学校社会でも似たようなことが言えるよ。真面目で勉強が出来て大人しい子より、バカで陰ではいじわるしてくる明るい子の方がクラスの人気者になって、先生からも好かれるし」

 詩織はむすっとした表情を浮かべ、不満そうに伝えた。

「詩織ちゃんの言うことも、ほぼその通りだね。学校でも社会に出てからも、良い行いをして来た子達っていうのは、気苦労をすることが多いものさ。聡史ちゃんもきっと、今まで気苦労ばかりして来てるよ。おらにはよく分かるさ。でもみんな、絶対非行に走っちゃいけないよ。真面目に慎ましく生きてても、報われることだってたくさんあるんだから」

 みつゑさんは優しく微笑みながら伝える。

「それはお婆ちゃんの言うとおりだよ。私も学校でみんなからいじめられてる子を助けたら、私までいじめられたことがあるけど、その子から感謝されたし、私の行いを評価してくれたお友達もいっぱいいたもん。私、絶対良い子のままでいるっ!」

「わたしもです。ずる賢いことして褒められても嬉しくないもん」

「あたしも、ずっと良い子のままでいるよ。悪い子は大嫌い」

 寮生三人は固く誓った。

「さすが鶸松寮生だ。ずっと就職試験に落ち続けて来た聡史ちゃんが、茉希ちゃんと出会え、鶸松寮の管理人になれたのも、日頃の行いが報われた結果に間違いないさ。あの子は絶対すごくやる気のある子だよ。無職の中で若い子達はニートとか引き篭もりとかって世間じゃ悪く言われてるみたいだけど、そんな子達でも仕事にすごくやる気がある子、仕事さえ与えられれば真面目に働く子はたくさんいると思うのさ。ただ、そんな子達は不器用で自己主張が不得意で、友達が少なくて人前で話すことが苦手な子も多いんだ。一般的な社会っていうのは友達がいっぱいいて体力があって、明るく活発で要領が良く饒舌な人間を欲しがるもんだから、そんな子達がなかなか仕事にあり付けないのは無理もないのさ。おらはそんな子達でも快適に働ける職場ってのを、せめて鶸松寮の中だけでも提供してあげたくて……おらが新しい管理人を募集しようと思ったのは、そんな理由もあったからなのさ」

 みつゑさんはしみじみと語る。 

「そうだったんだ。わたし達が就職する頃には、日本のみならず世界中が聡史お兄さんみたいな感じの人が、もっともっと心地よく働きやすい世の中になればいいな」

「そうだねモニカちゃん。今の大人の社会は学校の社会よりも遥かに理不尽で厳し過ぎるみたいだもんね」

「あたしもそう願うよ。みんな平等が一番だよね」

 寮生三人は興味深そうにみつゑさんのお話を聞いていた。

      ☆

午後九時半頃。

「わたしのとこの寮、来週から新しい管理人さんが来るよ。みつゑお婆さんも引き続き管理人は続けるけどね」

 自分のお部屋へ戻ったモニカは、同じクラスの親友で自宅生の胸永杏子(むねなが あんず)という子にスマホで連絡した。

『本当!?』

 その子がけっこう驚いていることが電話越しにでも分かった。

「もうどんなお方か拝見したんだけど、とても真面目そうで心優しそうな若い男の人だったよ」

 モニカは嬉しそうに伝える。

『若い男の人って! 大丈夫なん? 女子生徒寮の管理人を任せて』

「絶対大丈夫よ。みつゑお婆さんがすごく気に入って採用を決めたんだもの」

『みつゑ婆ちゃんがっ! それじゃ、性犯罪起こしそうにないまともな人かな?』

「まともな人に決まってるわっ!」

 杏子の浮かべた疑問に、モニカは満面の笑みで自信満々に答えた。

          *

「お母さん、来週からね、鶸松寮に碓永聡史くんっていう新しい管理人さんが来てくれることになったの♪」

『それはよかったね。茉希とっても嬉しそうね。声が弾んでるわ』

「うん! とっても嬉しいよ。お婆ちゃんもモニカちゃんも萬ちゃんもすごく喜んでた。お婆ちゃんお墨付きのとってもいい人だから、詩織ちゃんもきっと喜んでくれるはずだよ」

 茉希は城崎にある実家にスマホで連絡。

          *

《カホ、鵙松寮に新しい管理人さんが来るみたいだよ。来週の月曜日から》

詩織も同じクラスのお友達、二星果帆(にほし かほ)にラインで知らせた。

《衣笠先生、来週の月曜日から、鶸松寮に管理人さんがもう一人増えるみたいです》

 そしてもう一人、クラス担任にも異なる文面で送信した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る