第16話 夢の中で

 夢を見ていた。


 夢の中で、ぼくはルシルになっていた。

 ルシルは、夕暮れの森を走っている。

 木々の枝が体にぶつかり、肌に細かい傷を作ったが、気にする様子はない。

 焦燥感に駆られ、息を切らせながら、ただ走る。


 やがてルシルの鋭敏な嗅覚は、森の中で不吉な予感を捉える——草木の香りに混じった、血の匂いを。


 血の匂いをたどったルシルは、一人の男を発見する。

 顔ははっきり見えないが、年齢は三十歳前後。日本人のようだった。

 場に不釣り合いな黒スーツに身を包み、彼は一本の樹の根元に腰掛けていた。


「なんで……?」


 ルシルは驚愕し、言葉を失う。

 男の脇腹には、何かでえぐったような大きな穴が空いていた。流れ出た血で、元は白かったであろうシャツは赤黒く染まっている。


「やあ、来てくれたか……」


 男は弱々しい声で話しかける。

 ルシルは男に駆け寄り、傷の深さを確認し、息を呑んだ。

 男は荒い息を吐きながら、ルシルに話しかける。


「歪みは……ラファさんが修復した。使って……」

「なんですって!?」

「今回の、歪みは……特別だと……。誰かが向こう側から……閉じなければいけないと、言っていた……。このザマだから、止められなかった……」

「もういいわ。しゃべらないで! 傷の手当てを……」

「ラファさんは、言っていた……。……だから、悲しまないでほしい、と……」


 そこまで言うと、男は苦痛にうめいた。すでに目はうつろで、彼の命の火が消えようとしているのは、ルシルにははっきりと分かった。

 そのとき、ルシルは何かに気がついたように目を見開き、男の体を軽く揺さぶる。


「そうよ! 世界樹の実はどうしたの! お祝いに持たせてたでしょう!」

「……それなら……使っちまったよ」


 「誰に……」と言いかけたルシルの口が、ハッとしたように止まる。

 男は力なく腕を持ち上げ、森の奥を指さした。


「おかげさまで……あっちは無事だ……」

「まさか……」

「行ってやってくれ……。お前がついて……やって……俺は……もう……」


 すべてを言い終わらぬうちに、男の腕から力が抜けた。

 血に濡れた手が、地面に触れ、落ち葉が弱々しい音を立てる。


 ルシルはしばらくの間、呆然と立ち尽くし、動かなくなった男と、彼が指さしていた方角を交互に見比べていた。

 そして意を決したルシルは、再び森の奥へと駆けだした……。


* * * *


「あ……」


 目を覚ますと、眼前に白い天井があった。

 見たことがない場所だ。どこだろう……? 少なくとも、春日部の自宅ではない。

 鼻の奥に、甘い残り香を感じた。


「あ、起きた!」


 かたわらから素っ頓狂な声が上がった。


「もう! 起きないから心配しちゃったじゃない!」


 声の主はルシルだった。

 気がつけば、ぼくは頑丈そうな木のベッドに寝かされていた。シーツは清潔で、良い匂いがした。

 

「ここは……?」

「村の公民館。二階の客室よ。ま、客なんか滅多に来ないから、実質的には空き部屋だけどね」


 部屋はけっこう広かったが、家具と言えばぼくが寝ているベッドと、ルシルが座っている椅子、あとテーブルとソファ、古めかしい柱時計だけ。時計の針は五時を指していた。

 気分が落ち着いてくると、ぼくの脳裏に、気を失うまでの出来事が蘇ってきた。

 バイトに行く途中で拉致されて、エルフの保護区に連れてこられて、祖父の後を継げと言われて……そして、異界の魔族とエルフたちの戦いを見たのだ。


「あ、あの……パルムは無事?」

「ええ、ミツルのおかげで。かすり傷で済んだわ。あなたのほうが大変だったのよ。頭を打ってたし、右腕は腱は切れていたし……。あれから半日眠りっぱなしだったんだから」

「え、そんなに!? ……って、あれ?」


 右腕を持ち上げてみたが、不思議なことに痛みは一切なかった。


「治ってる……?」

「世界樹の葉の効果ね。あの程度の傷なら傷ならすぐ治るのよ。施術が早かったしね」


 さきほど鼻の奥に感じた甘い香りの正体は、どうやら世界樹の葉だったらしい。 


「あんな場所だったから、んで口移しで呑ませるしかなかったんだけど、ちゃんと効いて良かった!」


 ルシルがうれしそうに笑う。

 ちょっと待て、いま聞き捨てならないことを言ったよな……?


「口移しって、誰が……?」


 おそるおそる尋ねると、ルシルはキョトンとした顔をした。


「誰って……あたしに決まってるじゃない。あの場で世界樹の葉の扱いが上手なのは、あたしだけなんだから」


 柔らかな形の良い唇がそう言葉を紡ぐのを見て、ぼくは自分の顔に血が上るのを感じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る