9-3


「ヨル……血が、」殴られたときに口の中を切ってしまったのだ。わたしは北川くんの腕から離れ、無意識にそちらへ寄ろうとしていた。


が、わたしが行動を起こすより、ヨルの口から言葉が吐きだされるほうが早かった。痛みに歪んだその顔は、なぜか笑っているふうにもみえる。


「そいつは! いつでもどこでも好きにできる、都合のいい存在でしかなかったって言ったんだよ!」


 それは、どう解釈しようにも、明らかにわたしに向けられた言葉だった。体からちからが抜ける。

 反対に、北川くんの全身から沸騰したやかんの湯気みたいに勢いよく、怒りのエネルギーが放たれるのがわかった。


「てめェぶッ殺す!」


 だめだ! われに返り、北川くんを抑えようとするが、もうまにあわなかった。わたしを振り払い、北川くんが再びヨルに飛びかかる。その腕が、したたかにわたしの顔を打った。先ほどのヨルみたいに体が吹き飛ばされた。砂利のあがった渡り廊下の床をすべるように、わたしの体は面白いくらいによく飛んだ。コンクリートに頭を打ちつける。目の前に火花が散った。

 それで北川くんはやっと正気を取り戻したらしかった。「朝日ちゃん!」駆け寄った彼の声はいまにも泣だしそうに弱々しかった。「ごめん、ごめん、ごめんね! 大丈夫?」背中に手がまわされ、体が起こされた。その手は打って変って、こわれものを扱うように繊細だった。痛みにより生理的な涙が浮かぶ。ゆらゆら揺れる視界の隅で、舌打ちしたヨルが乱暴な足音とともに去っていくのがみえた。


「お前ら何してんだよ!」


 和也先輩の叫ぶ声。ダダダダと派手な二人分の足音がして、顔をあげると狼狽しきった表情の和也先輩が、こちらの顔を覗きこんでいた。


「怪我してんじゃん!」


 しゃがんだ和也先輩から伸ばされたあたたかい手が、わたしの頬に触れた。ピリッとした刺激がはしり、ちいさく声を漏らしてしまう。それにつられるみたいに――まるで連動しているかのように――、北川くんの口からも短い悲痛な声が漏れた。


「お前がやったの? 何したんだよ、おい。何があったらこんな短時間で、朝日ちゃんがこんなボロボロになるんだ」


 北川くんは答えない。苦しそうに、呻くような声を漏らしただけだった。わたしも何か言えるような状態ではなかった。体が、というより、精神的にだめだった。

 いや。違う。そんなの。表面張力が臨界点にたっし、ゆらゆらと水分を保っていた目からおおきなひとつぶが落ちた。

そんなの、はじめからわかっていたことじゃないか。いままでヨルははっきり言葉にしなかっただけで、全身で彼はそうだと言っていたじゃないか。

だって、ヨルが好きなのは……


 ヨルが好きなのは。


 わたしの目から水分がこぼれるのを見つけた和也先輩が北川くんを怒鳴りつけ、その腕からわたしの体を取りあげた(へんな表現だ)。いつのまにか和樹先輩もそばにいて、わたしの頬を冷やしてくれる。水道でハンカチを濡らしてきてくれたらしい。

みんな黙って、急にあたりが静かになった。ただ、虫たちの合唱だけが、渡り廊下全体に白々しい明かりを投げかける蛍光灯のもと、響きわたっていた。







「すみません、あの、送っていただいて」


 恐縮のあまり、ぺこぺこあたまをさげる。和也先輩が家まで自転車のうしろに乗っけて、送ってくれたのだった。

 あのあと。まず北川くんが帰った。北川くんの右手をあらためると、ひどく腫れ上がっていて、当然ながら今日は練習どころではないのだった。頭の冷えた北川くんはかわいそうになるほどしょんぼりとしていて、わたしを送ると申しでてくれたのだけれど、和也先輩が許さなかった。心配そうに何度もこちらを振り返りながら、なかば追い払われるかたちで帰っていった北川くんのうしろすがたは、ほんとうに憐れっぽくって、すこし気の毒だった。

 その次にわたしも帰ろうとしたら、和也先輩と和樹先輩が猛反対をした。


 ――そのカッコみたらお母さん心配するよ!

 ――だってまるで襲われたみた……

 ――それ以上言ったら今度はおれがお前を殴るよ和樹。


 だから送ってあげる。和也先輩はそう言ってくれたけれど、母ならいつも遅くならないと帰らないから必要ないと断った。傷が完治に向かう頃になっても、彼女はわたしが怪我をしていたことにさえ気づかないかもしれない。

けれど、二人は頑なに譲らなかった。


 ――同じ方向じゃん。帰り道だから。

 ――でも、悪いです。

 ――北川が怪我させたんだ。バンド内のトラブルを解決すんのもリーダーの役目だしね。お兄さんに任せなさい。遠慮しちゃだめ。仲間だろ?


 でも……ともう一度いいかけたところで、和樹先輩が、


 ――じゃあ、俺ん家泊まってったら。


 などと言いだしたのでびっくりした。


 ――え、え、や、なんでそうなる……

 ――お前なあ、和樹。アホか。


 和也先輩もあきれ顔で、そりゃあそうでしょうと内心頷いていると、

 

 ――お前彼女いるだろ。それに絶っ対やらしいことするからだめ。


 そうだった。こないだ彼女いるって言ってましたよね(そのあとの言葉については聞き流すことにした)。和也先輩の言葉は続く。


 ――それならうちん家泊まらせるから。うちなら姉貴いるから着替えもあるし。

 ――ええ!?

 ――なんで。和也にだって彼女いるのに。

 ――いやいやいやそういうことじゃないですっ。


 いやいやいやだってちょっと待ってくださいなんでそうなるんです、と言いかけたところで、和也先輩はにやりと笑って、


 ――どうする? ひとりで帰すくらいならおれん家に連れて帰るけど。


 と言った。だったらもうこちらが折れるしかない。


「しかも、病院にまで……」


 そうなのだ。しかも帰り道だしと病院にまで連れて行ってくれたのだ。誰が? 和也先輩が。


「いいのいいの。女の子のさ、顔に傷がつくってとんでもないことだし。万が一残ったりしたらと思うと一生おれ北川が許せなくなっちゃうし」こういうときはすぐ病院行かなきゃだめだよ。

「でも、やっぱりあの、診察代は払いますっ」

「いいんだって。北川がつけた傷でどうして朝日ちゃんが支払わなきゃなんないわけ。そうだ、忘れないであいつに慰謝料貰いなよ?」

「やー、でも……」


 もとはといえば、ヨルが北川くんを怒らせたからこうなったわけで。もごもご言っていると、和也先輩は先ほど病院でのできごとを思い出したようでくつくつ笑った。

 

「あの看護婦のオバチャン、すっげー顔しておれのこと睨んでたよね」

「ごっ、ごめんなさい!」


 わたしはますます恐縮して、ペコペコ頭をさげた。


「完全に勘違いされちゃいましたね……」違うって言ったのに。


 診察室のあかるい部屋であらためて傷を確認してみると、飛ばされて転んだ時にすりむいた箇所はぜんぜんたいした傷ではなかった。ただいろんなところを打ったので、あざができるかもしれないけれど。頬にしたって、ちょっと赤くなっていて、ちょっとひっかき傷ができた程度で(でも先生にはこれから腫れたりするのだとおどかされたが)、そんなにさわぐ必要はなかったというのに、手当をしてくれた看護婦さんはいちいちの傷におおげさなリアクションをしてみせた。そしてその都度、待合室のほうを睨むのだ。さしずめ和也先輩のことを暴力彼氏か何かだと思いこんで、怪我をさせた張本人に向かってわざと聞こえるようにとおおきな声を出していたのだろう。当然わたしは何度も訂正したのだけれど、結局最後まで濡れ衣を晴らすことができなかったのが無念だ。

 しかもお会計のときなど、わたしが支払うと主張しそれを和也先輩が制した際など、さも和也先輩が支払うのが当然と言わんばかりのふるまいだったのだ。怒ってもいいほどの無礼である。


「すみません……」わたしのせいで。

「なんで」と言って和也先輩はおうように笑った。なんて寛容な人だろう。しかしそのあと「一番は北川のせいだかんね。二三発は殴らせてもらうよ」と物騒な言葉をつづけるのも忘れなかった。


「ほんと気にしなくていいからね、朝日ちゃん。まだメンバーになったばっかだからしょうがないけどさあ、朝日ちゃんはもうちょっとおれらに頼ってね。そもそもメンバーじゃなくたって、物騒なのに女の子ひとりで帰したりなんかできないよ」

「ありがとうございます……」


 バンドを始めてからというもの、いままでこんなふうに丁重な扱いなど受けたことのないわたしには、くすぐったくってしかたがない。わたしは赤くなってうつむいた。

 和也先輩は笑って、わたしのあたま軽くポンとたたくと、「じゃ、おれはこれで」と言った。


「明日からの練習はまた連絡すんね。北川と話さなきゃ」それに殴らなきゃとまた物騒なことを言う。

「……はい」


 自転車のスタンドが倒される。わたしは顔をあげ、自転車にまたがりいまにも漕ぎだそうとしていた和也先輩を呼びとめた。


「あの、北川くんは悪くないんです。ヨルが、その、元彼が、わたしの悪口を言ったので、怒ってくれたんです」


 和也先輩はあきれたように苦笑した。「そんなことだろうと思ったけどね」


「だとしても、あいつ人を殴っただろ、学園祭前の大事な時期にギタリストがそんなことしちゃだめだろ。挙句に朝日ちゃんにまで怪我させて」

「じ、事故なんです」


 わかってるけどね。和也先輩はふかぶかとため息をついた。


「しばらく、練習は休みにしようと思うよ。あと一ヶ月もなくて大事な時期だけど、ここんとこ詰めすぎたし、すこし休憩を取ろうよ。……朝日ちゃんは大丈夫なの?」

「わたしは、」

「ひどいこと言われたんじゃないの? 幼馴染に。歌うたうような気分にならないでしょ」


 今度はわたしが苦笑する番だった。


「……付き合い長いですから。わたしたちはもう、家族みたいなものなんです。別れて、恋人同士じゃなくなっても。家族に遠慮とか気を遣ったりとかしないみたいに、わたしたちはずっと、こんな感じなので。いまさら、傷つきもしないですよ」


 はんぶんは、自分に言い聞かすための言葉だった。

 和也先輩はかしこい人だから、それがすっかりわかったみたいだっけれど、何も言わず、ただ息をひとつ吐いただけだった。


「ま、いずれにしたってあいつの手がどんなことになってるか。人なんか今まで殴ったこともないくせに。慣れないことするとね、怪我すんのは自分のほうなんだよ。だから、北川の状態次第だね。とりあえず、二、三日は練習なんかできないだろうよ」


 じゃ、今度こそ帰るね。軽く手をあげて、和也先輩は帰っていった。わたしはお辞儀をして、そのうしろすがたを見送った。

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