月への誘い 伊東あさみ 二


 翌朝。目が覚めたら、美月さんが枕元でわたしの顔を見下ろしていた。


「おはよう」

「おはよう ござい ます」

「よく眠れた?」


 ええ、それはもうぐっすり。伯父の家が針のむしろだったことを思えば、快適一直線。わたしは、笑顔でそれを表現したつもり。


 顔を洗って、昨日と同じ服を着る。昨日は美月さんのパジャマを借りたけど、いつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。いやでいやでしょうがないけど、伯父の家に一度は戻らなきゃならない。着の身着のままで飛び出したから、着替えも何もないもん。わたしの荷物をこっちに持ってこなきゃ。


 あー、でも気が重い。行きたくない。


「仕事は夕方からだから、それまでは好きなことしてて」


 わたしは、新聞の余白に書き書き。


『伯父の家に行って、わたしの荷物を請け出してきます』

「これまで伯父さんのところにいらしたの?」

『もう両親は死んで、いないので』

「あら」

『でも、伯父はどうしようもないエロおやじだったので、身の危険を感じてました。このままじゃいつかはって。だから、美月さんのところに寄せてもらって、本当に助かりました』

「それは……よかったわ。でも、大丈夫なの?」

『いざという時は逃げます』

「心配ねえ……」


 美月さんはちょっと考え込む仕草をして、それから店に出て灯りを点けた。カウンターの奥の方で、なにかごそごそやってる。


 あれ? なに、その小さな茶封筒?


「あさみちゃん。出かける時に、これを懐に入れておいて。お守りよ」


 お守り、かあ。頼りないなあ。


「あら、頼りないって思った?」


 美月さんは微かに笑みを浮かべると、わたしの心を見透かしたかのように、そう言った。


「大丈夫よ。あさみちゃんには私が付いてるから。ね?」


 なぜか、すごく安心した。


「じゃあ いって きます」

「気をつけてね」


◇ ◇ ◇


 伯父の家の玄関前に立つ。


 中学二年からここに居たけど、わたしの親代わりをするつもりなんて気はさらさらなかった、冷血で因業な夫婦。


 伯母にとってわたしは、会話障害のある役立たず。しかも猜疑さいぎ心が強くて、わたしが伯父に色目を使ってると思い込んでる。わたしを家から追い出したくてしょうがない。伯父は、どうしようもない好色オヤジ。わたしのカラダをもてあそぶ機会を、ずっとうかがってた。だから手元に置きたがった。なにもしてくれないくせに。

 幸か不幸か、伯父と伯母の絶対に一致することのない思惑が、結果としてわたしを辛うじて守っていた。昨日までは。


 わたしは子供じゃない。会話のハンデさえなければ、どんな仕事だってこなす自信はある。でも、そのチャンスはずっと巡って来なかった。学校は中学までしか行けなかった。伯父たちは、中学を出たわたしをほとんど家に閉じ込めた。まるで、わたしへの仕打ちを世間から隠すかのように。この年になるまで、わたしは何も出来なかった。させてもらえなかった。


 人間じゃなく、イヌのように。家に閉じ込められて、飼われて。伯父と伯母が、わたしの両親の財産を我が物顔で食い潰すのを毎日見せつけられながら。悔しくて。でも、半ば諦めて。


 そして昨日。歪みきっていた関係は突然崩れた。わたしは家を飛び出した。本当にこれで最後にしたい。あんたたちの顔は二度と見たくない。もう、一生見たくない! 無事に永遠のお別れができますように。そう祈って。美月さんの顔を思い浮かべて、呼び鈴を押した。


 つらっとした顔で伯父が出てきた。わたしが家を出ても行くところなんかどこにもない、すぐに戻ってくると思っていたんだろう。ああ、胸糞悪い。吐き気がする。

 だけど伯父は、わたしを見て顔を強張らせた。いつもなら鼻の下を伸ばしながら恩着せがましくすり寄ってくるのに、今日は様子が変だ。妙に怯えてる。


「ど、どうしたんだ」

「にもつを とりに きた だけ です。すぐ でて いき ます」


 伯父はわたしから目を逸らして、ひどくほっとした表情を浮かべた。伯母にこっぴどく絞られたんだろうか? そうすると、伯母のヒステリック波状攻撃を実弾込みで受ける恐れが……って言ってる間に、伯母がものすごい形相で突進してきた。


 うわわわわ! やばい! ……と思った矢先、伯母の勢いがへろんと削がれた。伯父と同じで、わたしを見てひどく怯えている。


「は、はやく荷物持って、出ていってちょうだい」


 あれえ? どうなってるんだろ?


 とりあえず、必要最小限の衣類と身の回りのものだけバッグとショッパーに詰め込んで、監獄そのものだった部屋を出る。もうわたしの大切なものなんか何も残ってないし、あとは捨てるなり売り払うなり勝手にして。


 相変わらず、顔を引きつらせたままでわたしを見ている馬鹿夫婦。出しゃばりで厚かましい二人が余計なことを言い出さないうちに、さっさと離脱しよう。わたしは玄関先で、嫌みたっぷりに深あく頭を下げた。


「これ まで すっごく! おせ わに なり ました」


 すっきり気分で、伯父の家を後にする。あー、せいせいしたっ!


「ふう……」


 強烈な嫌悪感と緊張から解放されて、思わず空を仰いだ。うん。美月さんの言うように、お守りはものすごく強力だったな。でも、なんかヘン。わたし以外の何かが見えてたみたいな、そんな伯父たちの怯え方。どんなお守りなのか、あとで美月さんに聞いてみよっと。


◇ ◇ ◇


 半月に戻ったら、美月さんが戸口で出迎えてくれた。


「ね? 大丈夫だったでしょ?」


 えっと。さっき伯父の家から持ち出してきたものの中から、メモ帳とシャーペンを引っ張り出して……書き書き。


『美月さん、あのお守りの正体はなんですか?』

「あら、中身を確かめなかったの?」


 そう言えば、中を見るなとは言われてなかったなあ。ウカツ。


 わたしはジーンズのポケットにしのばせてあった茶封筒を開けて、中を覗き込む。そこには、小さな丸い鏡が入っていた。取り出して掌に乗せてみたけど、何の変哲もないただの鏡よねえ。えーと。これって……。


 美月さんは薄目を開けて、その鏡を指差す。


「鏡はね。そのままの姿を映す。美しければ美しいものを。醜ければ醜いものを。それだけよ」


 そのあと、わたしをじっと見つめながら言葉を足した。


「月は鏡。全ての真実が映るの。残酷なくらい」


 わたしから顔を逸らした美月さんは、静かに目を瞑って虚空を仰いだ。


 わたしは。美月さんに助けてもらった。それだけじゃなくて。わたしが見なければならないものを、これから見せてくれる。そんな予感がした。


 半月でのわたしの暮らしが……これから始まる。



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