月への誘い 迫田俊和

「いらっしゃいませー」


 ママさんのゆったりした声が響いて、三人の視線が私に注がれた。


「あら、初めてのお客さんね。珍しい」


 ママさんが、にっこり笑いながらそう言った。私は逆に聞き返した。


「え? 表通りからこんなに近いんだから、飛び込みのお客さんも来るんじゃないの?」

「ここが飲み屋だってこと、すぐ分かるようにはしてないもの」


 それって……。言われてみれば、とても奇妙な店だった。単に狭いというだけじゃない。


 じっくり店内を見回す。室内には一面灰黒色のクロスが張られている。壁にはポスターや絵のような装飾品は一切ない。天井にはいくつか小さなダウンライトが設けられているけれど、薄暗い。

 お洒落かといえば、そうじゃない。とんでもなく殺風景なんだ。音楽も、有線が小さく小さく流れているだけ。カラオケや、ボトルキープの賑やかな酒瓶の列もない。あと、カウンターの上には一切灰皿がない。禁煙ってことか。


 カウンターの最奥に小さなバーコーナー。そこに長髪の、若くて美人のバーテンダー。カウンターの中程には、カジュアルな服装に前掛けをしただけの、学生っぽい板さん。そして一番手前で、何もせずにただカウンターに寄りかかって微笑んでいるだけのママさん。


 普通の飲み屋には必ずあるのに、ここには決定的に欠けているものがある。ああ。そうだ。ここにはホスピタリティがないんだ。来るものは拒まないけれど、わたしたちはそれ以上何もしませんよというような、ものすごい素っ気なさ。飲み屋として最低限必要なツールだけ集めてきて、ただ機械的に並べてある。そんな寒々しさ。こらあ、酔いが醒めちまうな。そう思った。


 ママさんが、私の顔色をうかがうようにして言った。


「居ずらいようなら、無理なさらないでね」

「いや、変わった店だなーと思っただけです。ああ、ビールをもらえます?」

「はあい。卓ちゃん、突き出しお願いね。あさみちゃん、ペールエールをグラスに入れて」


 二人とも、はい、としか返事しない。まるで沈黙を命じられているかのように無口だ。


 ママさんが、トレイに小鉢と箸、グラスビールを乗せて持ってきた。


 私は、その小鉢に目が吸い寄せられた。

 おお! この突き出し、やっつけじゃないぞ。湯引きした鯛の皮身を細く切ったものに、さっと湯通ししたわけぎと針茗荷を添えて、上から黄身酢を落としてある。

 桜色、芥子色、濃緑こいみどり。うーん、色目がとても美しい。目で食わせるとはよく言ったものだ。すぐに箸をつけるのが惜しくなる。


 茗荷がふわりといい匂いを漂わす。口に運ぶと、鯛の皮身のコクとわけぎの歯応えのバランスが絶妙だ。妙に旨いぞ! しまったー。こんな旨い小鉢が出るんなら、ビールじゃなくて、日本酒にしておけば良かったな。思わずそう後悔するほど、そいつは旨かった。


 私は、背中を向けてまな板に向かっている板さんを見る。この板さん、突き出しだからといって一切手抜きをしていない。愛想はないが、いい腕だ。学生のアルバイトかと思って甘く見ていたけど、どうしてどうして。

 ビールも、普通の瓶ビールをただ開けたもんじゃない。どこかの地ビールを揃えてるんだろう。個性があって、突き出しの料理をしっかり受け止めてる。温度も泡の比率も申し分ない。うーん。やるな。


 私が笑顔になったのを見たママさんから、ふっと尋ねられる。


「どうですか?」

「いいねー。気に入ったよ」


 そうか。私は得心がいった。ここは酒を飲むところじゃない。居ることを味わう店だな。酔えない店で正解だってことか。酔って正体を無くすと、却ってここに居る意味がなくなってしまう。


 そう言えば、ここに居る意味ってなんだろう? 料理や酒で意表は突かれたけど、それだけでは弱い。でも、まだこの店の意味を決めつけるのは早い気がする……。私が静かにビールを傾けながら店内を見回していると、静かに扉を開いて客が入ってきた。私よりも年配の、初老の男。


「あら、御堂さん、いらっしゃい」

「うん。ああ、ギムレットをもらえるかね」

「はーい。あさみちゃん、お願いね」

「わかり ました」


 店の奥で、美人のバーテンさんがシェーカーを振る。その姿はとても艶かしいが、男はそれに目を向けようとはしない。カウンターの上に肘を乗せて手を組み、目を半分閉じて、じっと何かを思い浮かべている風情だ。


 私の時と同様に、突き出しの小鉢とカクテルがカウンターに並べられた。男はゆっくりと小鉢に箸を付けて、相好を崩す。


「うん、こらあ旨いなあ。楽しみが一つ。増えた」

「あら、そう?」


 ママさんが僅かに口許を緩めた。


 男はグラスに口を付ける。グラスの中で動いた水面から、わずかに樹脂の匂いがたなびく。グラスを置いた男が、再びカウンターの上で手を組んだ。そして目を瞑ると、誰に語りかけるともなく呟いた。


「美月さん。今日はとてもいい月だよ。居待月だ」

「そうね。これから何に焦がれて痩せていくのかしらね」

「さあ」


 これだけの。たった、これだけの会話だ。それが閃光で焼き付けられたかのように、くっきり耳に残った。


 そうだ。確かに私もさっき空を見上げていた。少し歪んだ丸い月が冴えて、電線の隙間から私を見下ろしていた。でも、ただそれだけだった。その同じ月が、先ほどの数語の会話を通して、すでに私の頭の中に別の絵を、物語を書いている。


 ぞくっとした。


 世界、か。それがこの店の持つ魔力、か。私が月の罠にはまっている間に、男は立ち上がって千円札を出した。


「ごちそうさま」

「また、どうぞ」


 男はママさんから百円玉を四枚受け取ると、来た時と同じように静かに店を辞した。わずか十分足らずの滞在。でもこの世界にあって、あの男は充分満たされたんだろう。


 私は。このママさんが何を支配しているのか、どうしても知りたくなった。この店に流れ着いた客にとって、それがこの店を快適にも不快にもするんだろう。


「ねえ、ママさん」


 それを聞いたママさんが、渋い顔をした。あれ? 何か悪いことを言ったかな?


「お客さんにお願いするのもあれなんだけど。私は、ママとかママさんと言われるのが大嫌いなの。申し訳ないけど、名前で呼んでもらえるかしら?」


 あ。そう言えば、先ほどの男も名前を呼んでいたな。確か……。


「美しい月、で、みづき。そう呼んでくださいます?」


 ああ、そうだ。その名前すら、絵に入っていたのだった。


「じゃあ、美月さん。なぜこの店は、半月って言うんですか?」


 美月さんは目を細め、薄く笑いを浮かべて、私をじっと見つめた。そして、歌うように答えた。


「しばらくすれば、痩せた月が陰陽釣り合います。それをしっかりご覧になってくださいね」


 そうして、私から視線を外して、黙した。それは……本当に不思議な一時だった。私は立ち上がって、勘定を聞いた。


「五百円です」


 うーん。これで商売になるのだろうか。客ながら心配になる。私は財布から五百円硬貨を出して、カウンターの上にぱちりと置いた。


「ごちそうさま。謎を解きに、また来ます」


 美月さんがこちらを向いてふっと笑うと、私の名を尋ねた。


「お客さん、お名前は?」

「ああ、迫田さこたです」

「迫田さん、ね。またいらしてください。それから……」


 右手の人指し指を、そーっと持ち上げるようにして斜め前を差すと、それを一点で止めて言った。


「月の謎はね。一つ解くと、倍に増えますよ」


 うーん。やられた。


◇ ◇ ◇


 店の外に出る。コンビニの明かりと出入りする人の喧噪が、私を現実に引き戻す。私は懐手をして月を見上げた。月は何も変わっていない。変わったのは私、だ。


 ほっと一つ溜息をついて、足を一歩送る。

 娘が晩飯を作って待ってるはずだ。さっさと帰ることにしよう。


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