杜のゆりかご

黒松きりん

杜のゆりかご

 夜9時のニュース番組が始まろうとしていた。リビングでは塾から帰ってきた中学3年生の長女が遅い夕食をとっている。わたしは一緒にクッキーでも食べようと冷蔵庫の中を探す。チョコチップクッキーが入っていたはずが、見つからない。もしや長女の仕業か。


「奈々美、クッキー食べた?」


長女の奈々美はテレビに釘付けのまま箸を動かしている。わたしの方を見もせずに質問を返してきた。


「お母さん、震災のときいくつだった?」


「中3になる直前だったから、14歳よ。ねぇ、クッキー食べちゃった?」


「食べてない。お父さんはいくつだった?」


「16歳のはずよ。お母さんの2つ上だから。なんなの、いきなり」


テレビから「東日本大震災から30年、今年も祈りの日が近づいてきました」というレポートが聞こえてきた。画面には「震災遺構」として残った建物が映っている。


「じゃあお母さん44歳なんだ。あーあ、すっかり中年だね。小さい頃、お母さんは歳を取らないと思ってたのに」


「歳を取らないなんて、お母さんを妖怪あつかいしないでちょうだい」


「ね、お父さんから震災の話を聞いたことある?」


「あるよ」


「どんな感じだった?」


「どんな感じって……そうねぇ」


わたしはチョコチップクッキーを探す手を止めて、台所の棚に寄りかかる。そして目をつむり、夫と結婚した頃のことを思い出した。



 わたしは仙台市生まれ、仙台市育ち、そして今は仙台市職員として働く生粋の仙台人だ。旅行以外で街を出たことは一度もない。出ようと思ったことすらない。


 なんといってもこの街は住みやすい。伊達政宗公が基礎を作ったとされる碁盤の目のような道路が東西南北に走り、道に迷うことがない。中心部にあるアーケードには各種の商店がずらりと並び、買い物にも困らない。バスも数多く走っていて、車がなくとも生活ができてしまう。

 なかでもわたしが好きなのは、定禅寺通りと呼ばれる市内北寄りを東西に走る大通りだ。ここでは、春は青葉まつり、夏は七夕まつり、秋は街路樹の紅葉、そして冬はイルミネーションが輝き、四季を通して楽しめる。もちろん通り自体も圧倒的に美しい。2車線道路がはさむ分離帯は、彫刻やベンチが置かれるほどゆったりとしたスペースをもち、まわりに植えられた花々とあいまって異国情緒にあふれている。おまけに五月の深緑の下、ウェディングドレス姿の新婦が新郎と記念撮影をしているところに居合わせたりでもすれば気分は上々だ。本当にすばらしい、わたしの大好きな場所だ。


 夫とは、定禅寺通りにある居酒屋で開かれた合コンで出会った。わたしが20代半ばの頃のことだ。夫は仙台市を拠点にする電力会社の社員だった。

 連絡先を交換し、何度か会ううちに「この人と結婚するかもしれない」と感じた。夫も同じだったのか、お互いの家のことについて話すことにためらいがなかった。

 夫は、気仙沼市出身だ。東日本大震災の大津波で家を失い、あの大火災から逃げ、仮設住宅で暮らした経験がある。一浪のすえ大学へ入学し、いまでも奨学金の返済に追われている。3人きょうだいだったが、沿岸部の会社に就職したばかりだった一番上のお姉さんを亡くしていた。夫は震災のことをめったに話さない。話すとしても、とても淡々と事実だけを並べる。唯一の例外が、新婚旅行の際の一言だった。

 空港行きの電車から見える仮設住宅の跡地をながめながら、夫は言った。


「違うのは、分かっていたことだから」


「どうゆうこと?」


「大学受験に失敗したとき、気持ちがこじれて他の受験生を恨んだよ。受験で行った市内があまりに『普通』だったから。おれが気仙沼の仮設で凍えながら勉強していたあいだに、市内のやつらは普通に暖かいところで、普通に遊んだりしながら、普通の流れで受験しに来たんだと思ったら、やるせなかった。それで布団かぶって泣いていたら、親父がそれをひっぺがして言ったんだ。


『分かっていたことだろ。それがなんだ。お前と同じ思いの人がいれば、違う思いをしてる人だっている。そもそも住んでる場所が違うんだ、当たり前だろ。

 ただな、お前が辛いのも分かる。だからそのぶん、お前は相手の苦労を想像できる人間になれ。そのために大学に行け。ここ以外をしっかり見てこい』


だって。乱暴だよな。でも一浪させてくれたし、いい親父なんだと思う。結婚式であんなに泣くとは思わなかったよ」


ニヤッと笑う夫に、どんな言葉をかけたらいいか分からなかった。「わたしは」と言いかけると、夫が「いいんだ」とさえぎった。


「おれは、のびやかに育ってきた、やわらかくて明るい君のことが大好きだよ。それはおれには無いものだから。あの経験をして良かったとは絶対に思わない。思ってなんかやるもんか。でも、いいんだ。おれは、君が『違って』いてくれてうれしいよ」



 目を開けたわたしは、質問したことすら忘れていそうな奈々美に声をかける。


「お父さんに直接聞いてごらん」


「えー、やだよ。お父さん、『山に向かって走れ』ってしか言わないんだもん」


「あんたがもう少し聞く耳を持つようになったら教えてくれるかもね」


 そこへ、玄関から「ただいま」という声がした。中年になった夫が「クッキー買ってきたぞ」と紙袋を差し出しながらリビングに入って来る。奈々美が不審そうに「お父さん、エスパーなの?」と夫を見上げた。


「なんだよ、藪から棒に」


「さっきまでお母さんがクッキー探してたの」


「そういうことか。まぁ、ほら、お父さんはお母さんが大好きだからな。第六感でピンと来たんだ。今日はお土産にクッキーを買ったほうがいいって」


「はいはいご馳走様です」とからかう奈々美に、夫は少し恥ずかしくなったのか「ちゃんと勉強してるのか」と語気を強めている。いつもの調子でやり合う二人を眺めながら、わたしは「違っているから分かるのかもね」とつぶやき、クッキーの袋を開けた。

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