STORY6 1÷0(4/8)

急坂を登り終えたところで片岡先生が足を止め、「ほら、花が咲いてるよ」と、あたしたちを手招きした。

くるぶしの高さで、石に挟まれた白い花があった。ひとつ、ふたつ。

「あら、キッコウハグマね」

覗き込んだ順子さんが、言うやいなやケータイのカメラを向ける。

等間隔に拡がる十数枚の花弁が、それぞれの先端をくるりと丸めてピンク色の雌しべを包んでいた。「可憐」という日本語がぴったりな、とても小さな花。

「なんか、しおらしい夫婦……双子の姉妹みたいだね」

順子さんの撮影に被せて、片岡先生がつぶやく。「夫婦」を「姉妹」に言い換えたのは、きっと、あたしへの気遣いで……その姿はたしかに夫と妻のようだった。花と花が向き合って、根元の部分で手と手を繋ぎ合っている。

「葉っぱが亀の甲羅のかたちでしょ。それに、花びらが白熊の毛みたいから、キッコウハグマって言うのよ」

開花が10月までのキク科で、タンポポの仲間で、アジアに分布する植物種だと順子さんは説明し、「こんなにちっちゃな花でも、この時期まで咲くのね。えらいわぁ」と声を高めた。

白熊。タンポポの綿毛。

……そう、熊みたいな人だった。

牧原賢治郎さんは、アニメやゆるキャラのクマさんに似ていた。

街中のカフェで牧原美保さんが見せてくれた写真は、札幌の時計台で撮った夫婦のツーショットで、フレームに映る細かな雪が宙に浮かぶ綿毛みたいに瞬いていた。


牧原さんと再会したその朝、17年もの逃亡生活を送っていた指名手配犯の逮捕をニュースで知った。その女性は事件当時の風貌をすっかり変え、恋人と暮らしていたらしい。あたしだったら、逃げ続ける罪悪感に耐えられないだろう。きっと、何を見てもキミを想い、どこにいても人の影に怯えていく。いまも先も、[嶋マユナ]は、どこでもないここで生きるしかないのだ。

だから、「家の外で話したい」という牧原さんの電話を、あたしは受け止め、できる限り失礼のない化粧と服で、混み合うカフェのテーブル席に座った。

ウエイトレスが忙しく行き交う店内で、牧原さんはスカラハットを被り、飲み物が運ばれてきても脱ごうとせず、頬に垂らした長い髪と虚ろな眼差しは加害者と被害者を逆転させたような雰囲気だった。

「手紙、読んだわ」

そう告げて、牧原さんは細い指でカフェオレボールを傾けた。

平坦な口調は、3週間前の玄関先での昂りと真逆なもので、たまたま相席になった者が時候の挨拶を交わす感じだった。

陶器がソーサーに置かれたタイミングで発した「ありがとうございます」がざわめきに消され、あたしはテーブルの木目に視線を落とした。

「……嶋さんは結婚して何年?」

ふうっと息を吐いて、彼女は水のグラスに手をかけた。

きりっと整った眉尻、鼻梁のまっすぐなライン、小ぶりで薄めな唇……そうした品格に不釣り合いなシャンパンゴールドのアイシャドーがアイホールに濃く塗られ、表情全体をくすませていた。

苗字に「さん」付けしてくれたことが嬉しくもあり、怖くもあって、あたしはえずきそうになりながら「入籍して3年です」と答えた。

「若い結婚だったのね」

冷めた表情で、牧原さんは飲み物を含んだ。

「申し訳ありません……」

両手をテーブルについて、あたしは深く頭を下げた。なす術のない自分の若さがただただいたたまれなかった。

「……私は亡くなったあなたの夫を赦すことはできないわ。一生憎み続ける。交通事故は偶発的なものかもしれないけど、私にとっては通り魔殺人と同じ。お金で賠償されても、奥さんのあなたにどんなに謝罪されても、夫は二度と帰ってこない」

牧原さんのセーブした声色が体の奥深くを突き抜け、あたしは雨垂れみたいに零れる涙をハンカチで抑えることもせず、うつむき続けた。

「あなたの手紙をね……」

一呼吸置いて、牧原さんは周囲の騒々しさに眉をひそめると、ハットのつばをあたしに近づけた。

「あの手紙を別の女性に読ませていいかしら? マスコミじゃなくて、普通の人だから外には知られないわ」


階段状に並ぶ石と採伐された太木が、道を左にカーブさせている。

杖に寄りかかる姿勢で一時停止すると、順子さんが「よいしょよいしょ」と声を出して登ってきた。片岡先生は体力に余裕があり、後続のあたしたちを垣間見ながらスピードを調整している。

片岡先生と順子さん、牧原美保さんと賢治郎さん。

夫婦という血縁関係に、あたしは思いを馳せる。とりもなおさず、キミとあたしのことも。

牧原さんは「別の女性」と言った後、微かに手を震わせた。

他人には不可侵の何かがじっと息を潜めていた。

「普通の人だから」と付け足された言葉をあたしは慎重に飲み込み、手紙を第三者に読ませることの許可を得るためにだけ、彼女があたしに連絡してきたことを知った。

そんなにも真面目で常識ある人の夫を奪ってしまったのだ。

わざわざ断らなくても、電話でも良かったはずなのに、忌まわしい加害者との面会を選ぶなんて……いま思えば、牧原さんの中に迷いがあって、あたしの判断に委ねようとしたのかもしれない。

そして、「別の女性」の正体を訊く理由もなく、牧原さんの行動が夫の賢治郎さんを想ってのことだと理解した。

「はい……どなたに読んでいただいても構いません……『誠に申し訳ありませんでした』とお伝えくださるとありがたいです」

打ち寄せる感情をストレートな言葉にして、途切れ途切れにそう発した。そして、牧原さんの瞳に溜まった涙を見て、あたしは人目を憚らず、テーブルに突っ伏して泣いた。



(5/8へ続く)

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