第2話

 


 何不自由ない暮らし、というのが何を指すのか、知らないわけではない。


 マツリはいつも質の良い服を身につけ、計算された献立と厳選された食材で作られた食事を食べていた。良いものをね、と母は言う。

 家は大きい。日本家屋だ。いまどき珍しい、純和風の家は、ふすまを外して広げれば見渡すような畳敷きの広間にもなった。盆暮れ正月にはそこに、親戚や客が集まる。

 それを切り盛りするのは、マツリの母だった。苦もなくやれていたのは、そこが母の生家だからだ。子どもの頃から母の母、つまりマツリの祖母について客あしらいを覚えたのだと言う。父は婿入りしたのだ。

 とすれば、母からそれを引き継ぐのは姉である。姉の名は、菫すみれ。野に咲く小さな花の名を持つ姉は、病弱だったが、長子としての役目を良く果たしていた。


「茉莉はいいのよ、遊んでらっしゃい」


 やんわりと、しかしきっぱりと、マツリは表舞台から遠ざけられていた。幼心にもそれを感じていたが、それをおかしいと思ったことはない。榊家は女系だった。家督は女が継ぐと決まっていた。なにも男子を差し置いたわけではなく、生まれるのはなぜか全て女子なのだった。だから、姉がいずれ家を継ぎ、マツリがここを出てゆくのは誰の目にも明らかな未来だ。

 出てゆく。それは希望だった。この家からなんの制約も受けなくなる、未来。自由、と言い換えることもできる。


 何不自由ない暮らしだった。けれど、不自由だった。

 決められた献立は、それ以外を口にしてはならないという規則だ。甘味も料理人が作るもの以外は許されず、ましてや買い食いなど出来るはずもない。小遣いにあたるものはなく、学用品は申告して買ってもらうものだった。仕立ての良い服は、母が選ぶ。良いものをね、が母の口癖だ。

 良いものをね、茉莉。

 良いものを食べ、良いものを身につけなさい、茉莉。


 テレビはない。許されないから。映画は母の選んだものが月に2本だけ。

 友達はいなかった。許されないから。家に帰れば宿題をすませ、家庭教師と過ごし、週に一度は施術師が来て髪と肌の手入れをする。体重は管理され、医師が毎月診察をし、目が悪くならないよう本は取り上げられた。

 しかしマツリは本が好きだった。友達のいない、あるいは普通の生活さえない人生の中で、人の心は本で学んだ。どう言えば傷つくのか、何をすれば喜ぶのか、恋とはどんなものか。答えは本の中にだけあった。母の目をこっそり盗んで、様々な本を読み漁った。図書館は、マツリが行政の恩恵を一番身近に感じられる場所だ。


 母の目から離れる時間は、学校とそして、年上の婚約者と出かけるディナーだけだった。彼は優しい。マツリを呼ぶ声は低く、学友とも父とも違った。学者然とした生真面目なスーツ姿を崩さなかったが、さらりとした髪は、カラーリングこそされていなかったが、サラリーマンのようには固めず流されていて、父親の仕事を手伝っている、という跡継ぎらしい自由さもあった。切れ長の目はごくまれに緩む。マツリ、と呼びながらスマートにエスコートをする所作には、育ちの良さが滲みでていた。



 おかしいと思わないのか、と、クラスの子が一度だけ言った。

 何を知っていた訳でもないだろうが、テレビも見ない友達とも出かけない、話題についてゆけないマツリが、両親にスポイルされていると感じたのかもしれない。出自がそのままヒエラルキーになる学内においては、社交も教育の一部だった。にもかかわらず誰とも交わらないマツリは、異質なのだ。


「おかしいだろう。君の家は」


 ただ一言だけそう言ったのは、同じ図書委員だった男子で、マツリはそれに対して、彼がサボった仕事について一言申し述べた。彼はそれ以上榊家の事情には触れず、肩をすくめて貸出件数の統計表作成に戻って行った。



 今思えばおかしいことだらけだ。



 いずれ出てゆく身であれば、人づきあいを覚えるべきだろう。しかしそれは厳しく制限されている。野菜一つも買うことが出来ない現状は、とても社会生活を営めるとは思えない。あらゆる判断は母に委ねられている。

 マツリの意識が自分のものとして動くのは、本を読んでいる時だけだ。それに慣らされ、もはや判断と言う言葉の意味さえ認識は怪しい。母の意思に沿う、それがマツリの判断だった。


 おかしいと言うことにさえ気付かなかった。


 いや、気付きたくなかったのだ。夏の日の図書室の、あのブレザーのネクタイをきっちり締めた男子の一言は、確かにマツリをゆさぶったのに。


「茉莉。病院へ行くわよ」


 母の言葉はいつも、何かを尋ねるものではなかった。決定であり、従わせる言葉しか使わない。マツリはいつの間にか、その母の物言いを真似るようになっていたが、母本人にそれを向けることはなかった。


「はい、お母様」


 なぜ、と問うこともせず、マツリは母に連れられて病院へ行った。いつもマツリの体調を管理している医師だ。こんにちは、と挨拶をする。医師は応えなかった。難しい顔をしていた。いつものことだが、いつもより固い。

 そうしてマツリは知った。


 自分が、病弱な姉の移植用パーツとして生まれたことを。


 姉は体が弱かった。特に肝臓の機能が弱く、代謝性の悪性疾患を抱えている。いずれ移植手術が必要だとは知っていた。

 そのいずれ、が来たのだ。マツリの肝臓は、母によって、良いものに育てられたから。


 人づきあいなどいらなかった。悪い友達にそそのかされて、体を汚されては困るというのが母の考えだ。16歳で母が連れてきた婚約者も、思春期のマツリに与えられた道具なのだという。恋愛に現を抜かすよりも、母の目の届く範囲で恋のまねごとをさせるほうが良いと思ったのだろう。予定通り、マツリは彼に恋らしきものをした。産まれて初めて、身近に感じられる異性のぬくもりは、初心な少女の心を簡単に掴んだ。まるで物語のように、彼を思って心を痛める日もあった。彼も同じ気持ちをマツリに告げていたが、どうやらそれは嘘だった。

 不思議なことに、部品だと言われたことよりも、婚約者が母の手配だと知ったときのほうがショックだった。彼に対する思いが深かったのか、それとも、人間としての意義を否定されたことが認めがたかったのかもしれない。認めてしまえば、自分を失ってしまいそうだったから、意識をすり替えたのか。


 母が全てを管理をした。姉のために。

 まるで家畜だ。質の良い、高級な食材と何ら変わりがない。

 そして、肝臓は大部分を切り取ってもいずれまた元の大きさに戻る。


「一度で済めばいいわね」


 微笑みながら母は言った。マツリは、死ぬまでこの家からは出られないと気付いた。死ぬまで姉のパーツとして体内で内臓を育て続けるのだ。希望が潰えた瞬間だった。


「はい、お母様」





 検査のために入院したその夜、マツリは病院の屋上から飛んだ。

 耳元でひゅうひゅうと風が鳴る。



 茉莉、と呼ばれた気がした。

 低く優しいあの声が。





 あるいは全てただの幻。



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