夜の病院

 夜の病院は、意外なほどに混雑していた。


 文明が進歩したことによる一番の弊害と一番の功績は昼夜の区別がなくなったことだ。既に日はとっくに沈み、真っ暗な夜が始まっても、電灯という疑似的な太陽を得た人間たちは忙しなく働き続けている。


 混雑している、とはいえ院内でも一部は消灯しているせいか、昼に比べてずっと薄暗い。だが普段よりも暗く沈んだ院内にも、患者は途切れることなく並んでいた。


 時間外にわざわざ診療に来るだけあって、待合所にいる患者も重篤な者ばかりだった。ぐったりと椅子に項垂れるもの、額から血を流すもの。春明の膝の上に抱えられたサヤカも、もちろんその一人である。


 奇門遁甲の術によって病院まで転移した春明は、受付を済ませてまんじりとした時間を過ごしていた。既に兄には連絡を入れたがまだ返信はない。それこそ仕事中なのかもしれない。


 ただ待つだけの時間は冗長に感じるものだが――膝の上に、病気で苦しむ子供がいれば尚更だ――さりとていつものようにソシャゲで楽しく時間潰しをする気にもなれない。こんな状況で、呑気にゲームなど出来るものか。


 それに、気鬱の原因はそれだけではない。


(やっぱりこういうでかい病院には結構『いる』な……)


 視線を向けずとも分かる。ちりちりと肌通して感じる『よくないもの』の気配に、春明はうんざりとため息をついた。案の定、病院とは昔から相性がよくない。


 極力見ないように努めていても、彼の優れた見鬼眼は姿のないモノたちを捉えていた。人の生き死にが多く発生する場所では、自然とこういうものが湧きやすくなる。成長した今となっては有象無象の雑魚霊程度を恐れることもないが、サヤカくらいの幼い頃は、よくあの手のモノに身体を乗っ取られかけた。


 ぎゅっと。


 サヤカを支える手に、心もち強く力を込める。彼女の見鬼眼はなおも封印中である。簡単に見つかることもないが、弱っている子供の身体はあれらにとって垂涎の的だろう。


 かつての自分がそうだったように。


(視えすぎるってのも困ったもんなんだよなー。実際)


 どう足掻いたっているものはいるし、視えるものは視えてしまうのだ。もともと、春明の眼は人間には過ぎた能力だった。あのままの状態でいたら、遅かれ早かれ失明すると宗主からも宣告されていた。


 その後、ある出来事によって体質改善されなければ、自分はとっくに失明していただろう。


「由良さん――由良小夜香さん、診察室までお越し下さい」

「あっ……はい!」


 名を呼ばれ、弾かれたように立ち上がる。立った拍子に、ミノムシのように毛布にくるまったままのサヤカがずり落ちそうになったので慌てて抱え直した。


 暗い廊下の待合室から明るい診察室に入り、眩しさに一瞬目を細める。奥はそのまま病室に繋がっているらしく、こんな時間だというのに医師や看護師さんがばたばたと忙しなく働いていた。症状を伝えると、さっそく採血をされる。


「熱性けいれんですね」


 血液検査の結果細かく説明しながら、目の前の医師はそう断言した。細かく説明されたところで、肝心の内容はさっぱり分からなかったが。


「これくらいの歳の子ですと、高熱を出したときにけいれんを起こしやすいのです。サヤカちゃんは過去にけいれんを起こした経験は?」


「すみません。この子はちょっと預かっている子なので……」


 お父さんではないので分からない。

 あるいは――親ではないので。


 項垂れて告げると、しかし相手は「ああ、そうですか」とあっさり流した。ビジネスライクな態度というより、そういった事情の患者に慣れているのかもしれない。


「いまは意識もはっきりしてますし、お話を聞く限りけいれん自体も長くはなかったようですが、検査結果を見ると数値が少しよくありません。軽い脱水症状も出てますし、今日はこのまま入院して頂いた方が良いでしょう。処置室で点滴をしますので保護者の方は外で待っていてください」


「え」


 待っていてください、と言われて。

 春明はぽかんとした。


「あ……あの、でもその、まだ小さい子ですし……一人になると不安がると思いますので、俺も傍についていては駄目ですか? 点滴とか、多分泣いて嫌がると思うので……」


 その手の質問にも。


 多分、相手は慣れっこだったのだろう。少し困った顔を浮かべて、しかしきっぱりと言ってきた。


「……申し訳ありませんが、小さいお子さんの処置中は、保護者の方には付き添いをご遠慮して頂いております。点滴や注射はどの子も嫌がって、周りの大人に助けを求めてしまいますので」


「ええ、ですから……」


「ですから、保護者の方の付き添いは御断りをしているのです」


 ですから――傍にいたいんです。


 そう続けようとした春明の先手を打つように、相手は静かに告げた。


 あるいはそれこそ、小さい子供に言い聞かせるように。


「どんなにお子さんが泣いて嫌がっても、処置をやめることは出来ません。しかしそうするとお子さんは『自分が助けを求めてるのに、保護者さんが助けてくれなかった』という思いすることになってしまいます。どうせ中断は出来ないので、保護者の方には最初から付き添いをご遠慮頂いているんです。処置が終わった後でしたら面会が可能なので、その時に付き添われる分には構いません」


 それは迷いのない惑いのない実に堂々たる態度だった。

 反論の余地もないほどに。


「……分かりました。よろしくお願いします」

「では準備が整うまでもうしばらくお待ちください」


 後がつかえているのだろう。物腰柔らかに促されて、一旦診察室を出る。採血やらなにやらで目を覚ました子供が不思議そうに聞いてきた。


「もうおしまい? おうち帰る?」


「まだ。これからサヤは別の部屋で薬の時間だって。俺はその間ここで待ってるから、ちゃんといい子に出来るな?」


「えっ」


 言った途端、サヤカの瞳がはっきりと不安に揺れた。小さな手を伸ばし、はっしとこちらの服を掴む。


「や……やだ! やだやだやだ!! おじちゃんもいっしょにいて! 置いてっちゃやだ!」

「サヤ……」


 困惑して眉を寄せる。駄々をこねるのは分かっていたことだが、こればかりは仕方ない。


「置いていかないよ。ここで待ってるだけ。お医者さんが仕事をするから、邪魔にならないように俺は部屋の外で待ってなきゃいけないの。分かるな?」


「やだ! わからない! やだ! いかないで! おくすりがんばるから、さやががんばれるとこちゃんと見てて!」


「あのな……」


 やんわりと言い聞かせてみるものの、ぎゅっと力強く握られた拳は一向に緩む気配はない。一体どこにそんな体力が残っていたのかと思う程の強さだ。それでも残ってやるわけにはいかず、やんわりと手を放す。


「仕方ないの。そういう決まりなの。……すぐに済むから。終わったらすぐ迎えにいくから。家に帰ったらなんでもお願いきいてやるから。ほら、前に欲しがってたパズルあっただろ? ちゃんと一人で頑張れたらあれ買ってやる。病気が治ったら遊園地にも連れてってやるよ。だから――」


「じゃあママを呼んで!」


 その言葉を聞いた瞬間。


 落雷に打たれたような衝撃が、春明の身体を貫いた。


 彼の心を貫いた。


「おじちゃんがいなくなるならママを呼んで! ママなら一緒にいてくれるもん! ママならさやをおいてかないもん! おじちゃんじゃなくて、ママがいい!」


 それは酷く容赦のない、しかしそれゆえに嘘偽りのない、彼女の心からの願いだった。


 心の底に閉じ込めていた、心底からの彼女の本音だった。


「ママがいい……おいてかないでよぅ……そばにいてよぅ……ママ、ママぁ……」


 サヤカは手を放そうとはしなかった。それでも彼女が呼ぶのは『おじちゃん』ではなく別の名前だった。少しこけた顔がくしゃくしゃに歪む。子供は泣き方に躊躇いがない。涙を隠さず、鼻水を流しながら、ぐしぐしと泣き続ける。


「ママ……」


 サヤカは子供だが、大声で泣き叫ぶようなことはない。だけど息を切らし、嗚咽を零しながらひっ、ひっ、苦しげにとしゃくりあげているその様は。まるで悲鳴のようだった。


「……ごめん」


 何もできない。


「ごめん……サヤ、ごめん。ママじゃなくてごめん」


 泣く子供を前に、この子の涙を止めるために、何も出来ない。否。


 ――出来ることが、一つだけあった。


「サヤ、こっちを見ろ」


 本当は、こんなことをすべきではないのかもしれない。


 それでも、他に思いつかなかった。丸い顎を掴んで上を向かせ、二本の指を刀に見立てて泣いている子供の額に当てる。下す勅は一言。ただそれだけで事足りた。


「急急如律令〝開眼〟」


 陰陽師の下した命によって、封じられていた筈の見鬼眼が、その機能を取り戻す。


 再び鬼を視る眼を得た幼子は、一瞬で変化した視界に泣きながら目をぱちくりさせた。次いで喚ぶ。


「識」

「ここに」


 たった一言。名を喚ばれた式神が即座に傍に顕現する。


「……サヤ。あそこに識が視えるな?」


 こくり。


 真っ赤な目のままサヤカは頷いた。供給する霊力さえあれば、主が喚べば式神はどこにでも顕現できる。彼我の距離など関係ない。無論、実体を伴わない状態であればだが。


 現にいまも、顕現はしたものの識は半霊体のままだ。忙しなく行き交う人々が、次々と式神の上をすり抜けてゆく。だけどそれは。


 サヤカにとっても見知った世界のはずだった。


「病院の決まりだから、俺は一緒にいてやれない。でも識が、識はおばけだから一緒にいても問題ない。その代わり、おばけの識は普通の人には触れないから、お前が注射を嫌がったりしても止めることは出来ない。それでもいいなら俺の代わりに識が傍にいる。いいか?」

「……うん」


 尋ねると、サヤカは少しだけ俯いたあとで再びこっくりと頷いた。式神に告げる。


「識。サヤカのそばについていろ。俺が迎えに行くまで何があっても離れるな」

「御意」


「――由良さん、点滴の準備が出来ました。こちらへどうぞ」 


 看護師さんに呼ばれてサヤカを処置室のベッドに寝かせる。その後、春明だけが処置室から出たが、サヤカは気丈にも泣かなかった。


 代わりに、狐がずっとそばにいた。

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