奇門遁甲

尋常でない事態だ。それは一目で分かった。


「ああああああああああああああああ!!!!」


 パニックに陥っているのか、サヤカは火がついたように泣き叫んでいる。それはもう泣き声というよりも悲鳴であり、悲鳴というよりも慟哭だった。自分の意思とは無関係に動く身体に恐怖し、泣いている。しかし、混乱しているのはこちらも同じだった。


「えっ……さ、サヤカ……!?」


 泣き声は盛大だが反面、顔色は驚くほどほど悪い。特に唇は信じられないほど青い。紅を刷いたように、ではない。まるで青い絵の具を唇に塗りつけたように真っ青だった。


 チアノーゼを起こしている。


 病気は陰陽師の領域ではない。しかし、しがない拝み屋程度にすら分かるほど、彼女の症状は明白だった。


(ち……チアノーゼってことはええと、血の色が赤いのはヘモグロビンによるものだから、つまりヘモグロビン総量の急激な増加――だったっけ……?)


 うろ覚えの知識を脳内倉庫から引っ張り出してくる。現象は分かったものの、かといってどう対処すればよいのか分からない。


「ど……どうすればいいんだ……どうすれば……?」


 何もできない。泣き叫ぶ子供を前に、動揺する以外のなにも。


 そんな彼の混乱を打破したのは、聞き慣れた式神の声だった。


「主殿!」


 一喝が。


 煮え立った頭に冷水をぶちまけるような、鋭いその一喝が、春明の冷静さを引き戻した。


「早くその子を椅子から降ろして横に寝かせてあげてください! お早く!」


 弾かれたように動き出す。


 すでに痙攣は止まっていた。手足が硬直した子供を椅子から引っこ抜き、柔らかな布団の上に寝かせる。念のため、口に残っていたゼリーの残りを指で掻きだしていると、唇の赤味が戻ってきた。そのことに、泣きそうになるほど安堵する。


「よかった……サヤカ……サヤカ……!」


「けいれんを起こした子供をゆすってどうするのです馬鹿者! 気持ちは分かりますが、そんなことをしている暇があったらまずさっさと救急車をお呼びなさい」

「き……救急車?」


 身近ではあるが馴染みのない単語にぎょっとなって聞き返すと、式神はあからさまに苛立った眼差しを向けてきた。


「どう見ても、いまのこの子が尋常の様子ではないのは明白でしょう。顔色も悪いままです。次の発作がこないとも限りませんし、早く医者に見せないと。この付近ですと、救急搬送の受付をやっているのは四つ先の駅にある総合病院が一番大きな――」


 言いかけて。 


 狐は何かに気づいたように、ふとこちらを窺った。一瞬。ほんの一瞬だけ痛ましげな色を浮かべたあと、すぐ気を取り直して続ける。


「……大きな病院のようです。今は容体も落ち着いたようですし、この距離だと救急車を呼ぶより直接向かった方が早いですね。駅に行くのも面倒です。私が一跳びすればこのぐらい――」

「いや、いいよ。病院には俺が連れていく」


 早口になる識の言葉を遮って。


 春明はきっぱりとした口調で告げた。式神が反論するより早く続ける。


「人間の大人がいるってのに、狐が保護者ってのもおかしいだろ? それに、俺なら救急車よりもお前よりもずっと早く行ける」


「ですが主殿は……」


「なあ式神」


 なおも反論しようとする過保護な式神の言葉を、最後まで聞かずに再び遮る。どうやらこの式神にとって、自分はまだサヤカと大差ない子供に思われているらしい。さもありなん。年を経て妖狐にまでなった狐から見れば人間など、きっと誰もかれもが子供のようなものなのだろう。


 特に自分に対しては。しかしこの時ばかりは春明も譲らなかった。


「泣く子供のために何もしてやれないなら――俺は一体何のために青春時代を犠牲にして水垢離までしたんだ?」


 それは――別に現世でのモテ道のためでもなく、就職のためでもなく。


 子供一人すら助けられないで、一体なにが大人なのか。


 狐は何か言いたげに一旦口をつぐんだが、しかしそれ以上は何も言ってこなかった。それを同意と取り、早速準備をする。


 ぐったりと意識のないサヤカの身体を毛布でくるみこみ、靴を履いて庭に下りる。外に出た瞬間、冬の冷たい夜気が容赦なく肌に突き刺さった。その寒さから弟子を守るようにしっかりと背負い、すり足で地面を踏みしめる。


 禹歩、あるいは反閇と呼ばれる独特の足運びだ。


 左足を一歩踏み出し、前足に引き寄せるようにして次の右足を前に出す。歩法による呪術の一つ。


 ステップを踏む間も、上半身は一切動かさない。下半身の動きだけで行われるすり足の歩行法。足腰をよほど鍛えていなければ不可能だが、幼い頃から飽きるほどに繰り返してきた鍛錬は春明の身体を迷いなく動かした。一歩、二歩、三歩。三歩九跡のうちに地を画し、悪星を吉へと転ず。


 冬の夜気とは違う何かが間宮家の庭を満たし始めた。


「臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前」


 臨める兵闘う者、皆人列ねて前に在り。 


 呪を唱えながら庭をゆっくりと練り歩く。足運びを繰り返すうちに、彼の舞が『場』を生み出す。旋乾転坤し、気線をめぐらし幽冥と通じて門が開く。


 道がつながる。


 唐突に。


 ふっ――と庭先から、春明の姿が掻き消えた。忽然と。まるで、最初からいなかったかのように忽然と。


 地に開いた龍脈を潜り、病院へと向かった師弟たちを見送って。


 たった一匹残された狐は、誰もいなくなった庭にぺこりと静かに一礼した


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