関のボロ市〜父の思い出〜

五月乃月

関のボロ市〜父の思い出〜

 都市の容相は目まぐるしく変化し、成長し、発展していく。その一方で、古くから伝わる物事を変えず、守り続けようともしている。何年も、何十年も、何百年も。


 西武新宿線武蔵関むさしせき駅、駅番号SS14。周辺は関町せきまちと地名が付けられている。由来は関所が置かれていたことから、石神井川のせきがあったことからの、二つの説がある。各駅停車しか止まらないこの駅はこじんまりとした駅ビルこそあれ、大規模な開発の手が入っていないこともあって、あまり昔と変わらない。それでも、空き地や畑だった場所は、今では何かしらの建物がひしめいている。

 南口へ出るとロータリーになっていて、タクシー乗り場と関東バスの停留所がある。正面に書店と銀行、左手には、のぼりと暖簾のれんがはためく和菓子屋が目に入る。昭和20年創業のこの店の暖簾は手作りのものだそうで、四季折々で色が変わる。定番商品の最中は三度笠を形どっており、商品名にも地名の由来が盛り込まれている。右手には交番を挟んで左右に道が分かれ、それぞれ商店が並ぶ。コンビニやマンションなど近代的な建物も点在する中、煎餅屋、玩具屋、洋品店、喫茶店など、そこかしこに残る昭和の雰囲気を感じられる。

 北口へ出てみよう。実のところ、駅の北側にはほとんど来たことがない。銀行、ドラグストア、スーパー、美容院、生活に関わることは全て南側で用が足りるからだ。

 改札を出て左、駅ビルの階段を降りる。商店街を東へ向かえば、西武バスの通る道へ出る。西方向へ向かって道なりに行くと、人がようやっとすれ違うことができるほどの狭い橋がある。石神井しゃくじい川だ。その橋を渡りきってすぐの通りを左へ折れると、法耀山ほうようざん本立寺ほんりゅうじ入口の石段が右手に現れる。

 橋と通りを渡ってまっすぐ行けば、通っていた幼稚園への道だ。おそらく通園に使っていた道なのだろうが、駅からのこの道筋はほとんど記憶にない。お墓が怖かったことは鮮明に覚えているが。

 そうだ、その頃はまだ駅ビルも北口もなかったはず。バス通りの踏切を渡ってから商店街に入っていたと思う。1964年東京オリンピックの後、70年代の話だ。記憶は薄いが、途中から車の入れないこの道の当時の風景も、雑草がないだけで今とさほど変わらないのだろう。2020年になっても、きっとこのままだと思う。

 普段は人通りもまばらな地域住民のためのこの道が、年に二日、12月の9・10日だけは大賑わいする。知る人ぞ知る『関のボロ市』だ。日蓮宗本立寺のお会式とともに開かれ、9日の夜には『練供養ねりくよう』という万灯まんどう行列が武蔵関駅前を練り歩く。残念なことに、一度も見たことはないけれど。

 飲食、衣料品、骨董品、仏具など三百軒もの露店が所狭しと並び、人出は八万人と言われている。練馬区指定無形民俗文化財に登録されていて、日蓮上人にちれんしょうにんの命日にちなみ、江戸時代中期である1751年からと歴史は長い。当初は農業地帯だったことから農機具などの生活用品を売られていたことが始まりで、その後は古着や草鞋わらじの鼻緒を作るためのぼろきれなどを売っていたことから、この名がついたそうだ。

 いにしえの旅人たちがくたびれた鼻緒をここで修繕したのかもしれないと、勝手に想像している。練馬の冬の風物詩なのだか、実際『ボロ市』に行った記憶は片手で余る程度だ。


 遠い記憶を辿ってみたら、ふと思い出した。今は亡き父との思い出だ。小学校に入るか入らないかの幼い頃、父と二人『ボロ市』へ行った。

 当時、厳格な父はスナックや駄菓子、インスタントの食べ物を好まなかった。加えて、買い食いも食べ歩きも許さなかった。だから、屋台の食べ物などはもってのほか。あんず飴に綿あめ、たこ焼き、とっても魅力的なそれらを横目に、はぐれないよう父の歩調に付いていくしかなかった。

 ところが、棒状の上に人形の顔のついた笛を首から下げ、このうえない弾んだ気持ちで笑っている自分が脳裏に浮かぶ。あれはハッカパイプ。きっと、相当の駄々をこねたのだろう。「家に帰るまでは口をつけてはいけない」と父は言ったはずだ。なのに私は、父の目を盗んで笛を口に含み二、三回吸ったのだろう。見つかって叱られた記憶も、うっすらと残っている。

 嬉しさと恐さの入り混じったほろ苦い記憶ではあるが、もっと早くに思い出したかったと後悔した。父との会話の一つとして、お互いにその時のことを笑って話してみたかった。

 父と『ボロ市』へ行った記憶はその一度きり。代わりに、中学生くらいからは年が明けてお正月のものになる。母に着物を着せてもらい、玄関先で父が写真を撮ってくれた。そのあと隣駅の東伏見ひがしふしみにあるお稲荷さんへ、揃って初詣はつもうでに出かけた。りんご飴を買ってもらい、境内けいだいを食べながら歩いた。「着物を汚さないように」という母の厳重注意がもれなく付いてきたが。

 父にどんな心境の変化があったのだろう。食べ歩きを許してくれるようになったのは、周囲の雰囲気に影響されたからか、大きくなった私を信用してくれたからか。もう確かめることはできない。

 ああ、父は五平餅が好きだった。年末年始は着物、夏は甚平を着ていた父の姿が目に浮かぶ。

 下駄を鳴らして歩いている人がいると、ふと探してしまうことがある。歴史が得意で伝統や文化を重んじた父は、今も空の上でカランコロンと粋な音を響かせているのだろうか。


 日本を観光するならば、ガイドブックに載っているメジャーな場所に加えて、こうしたローカルイベントに足を運んでみるのも一興だろう。目には見えないが、地域の人々の思い出が詰まっているのを肌で感じることができるかもしれない。

 師走ではあるけれど、年に一度くらいはゆるゆると歩いてみようか。人の流れに逆らわず、父に手を引かれたこの道を。

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