手袋はいらない【街コン作品】

冬野瞠

手袋はいらない

 福島の祖母が亡くなった。

 家と犬を遺して。

 一念発起した私が、会津に越したのは十二月のことだった。



 葬儀を終え、埼玉の実家に戻ると、母は肩の荷が降りたように嘆息を漏らした。一人娘だった母は関東に出て結婚し家を建ていたため、祖母の家はもう無人だった。飼い犬は近所の家に預けてある。実母を亡くして取り乱していた母は、今やすっきりした表情になっていた。


「私、お祖母ちゃんちに引っ越す」


 そう私が言い放つと、両親は呆気に取られた顔をした。

 読経を聞いている時、心に決めた。空き家にはできないし、犬もいる。今も東京で一人暮らしなのだから、どこに住もうと親にとっては同じはず。物書きの仕事は地方でもできる。関東から福島は意外と近いから、友達に会うには私が出ていけばいい。

 関東育ちのあんたが会津で暮らせるわけないと、地元嫌いの母が鼻で笑った。

 行かなきゃ分からない、とむきになって答えた。その月のうちに家電を処分して荷物をまとめ、狭いワンルームを引き払った。



 会津の冬は白と黒の世界。果てなく続く雪原と、黒々とした木々、所々にある熟れた橙色の柿、そのコントラストが鮮やかだ。

 祖母の家は持て余すほど広く、蔵もあった。柱時計が時を刻む以外に音はない。太い大黒柱がある古い家で、隙間風がひどく、底冷えがした。雪が室内で吹きだまっていて唖然とした。

 炬燵にあたって息を吐く。啖呵を切り、勢いで来てしまったが、ちゃんと暮らせるか不安だ。

 うとうとしていると、玄関からおばんです、と男性の声がした。はっとして広々とした土間に降り、ガタガタと引き戸を開ける。途端に、鉄砲玉みたいに毛玉が飛び出した。


「茶々丸!」


 祖母の犬だ。雑種の、ふくふくした愛らしい小型犬。ちょうど祖母のよう。


はす向かいの長嶺ながみねです、この子を預かってた」


 着膨れした男性がぺこりと頭を下げる。私と同じ年頃、二十代半ばから後半の、精悍な顔立ちの人だ。葬儀で見た覚えがある。どこか都会的な風を纏っていて、不意に心臓が跳ねた。

 犬を制しながら、慌てて頭を下げ返す。


「伊藤です、お世話になりました。あの、おばんですとは?」

「ああ、会津では夜の挨拶をそう言うんです」

「へえ」


 目元を緩ませた彼が、ふっと真顔になる。


「この度は御愁傷様でした。栗城くりきさんにはお裾分けを貰ったり、お世話になりました」


 栗城は祖母の姓だ。いえいえ、と恐縮する。


「俺も何年か東京にいたんですよ。これからこちらに住むんですよね?」

「はい」

「困ったら遠慮なく言って下さいね」

「ありがとうございます」


 茶々丸が、彼の背中をつぶらな黒い瞳でじっと見ていた。 



 雪国の洗礼を受けたのは何日か後だ。

 茶々丸が丸まって私の布団の上で寝ている。彼がいて良かった。でなければ、この寒々しい家に一人きりだった。三年前に祖父に先立たれた祖母が犬を飼い始めたのも頷ける。

 重たいものがザザーッと盛大な音をたてて屋根を流れ落ちる音で目が覚めた。冷気に身を震わせつつ、磨りガラス越しの外が妙に眩しく見えるのを訝りながら、玄関を開けて唖然とした。そこに背の高さほどの雪の壁ができていた。


「雪崩で山ができますから、毎日片さないといけないですよ」


 軽い目眩に襲われた私は長嶺さんに助けを求めた。彼はお父さんとスノーシャベルを担いで駆けつけた。


「なんだべ! 雪かたしもしたことねぇのに会津さ来たのかい」


 お父さんは目を丸くする。


「雪、かたし?」

「会津の雪かきの言い方です。中通りは雪かき、浜通りだと雪はきになります」

「へええ」


 三人で懸命に(私はほぼ戦力外だったが)雪かたしをする間にも、牡丹雪がしんしんと降り続いていた。濁った薄灰の空を見上げながら、長嶺さんが真綿の息を吐き出す。


「これは根雪になりそうだ」

「ねゆき?」

「春まで溶けないで残る雪です。毎年クリスマス頃から根雪になりますね」

「今降った雪が春まで溶けないんですか?」


 関東でぬくぬく育った私には衝撃的な言葉だった。長嶺さんは屈託なくええ、と私に笑いかけた。

 その顔を見て、凍えるほど寒いのに顔が火照るのが分かった。



 テレビから中身の薄い特番ばかり流れる、殊更寒い晩だった。予想最低気温は零下十度を軽々と下回り、明日は真冬日の予報だった。

 文章を打ちつつ蜜柑を剥いていると、聞き慣れたおばんです、の挨拶が玄関から届いた。

 外に出てみませんか、と長嶺さんに促され、防寒着を着こむ。外はしんと静まり返っていた。雪明かりで青黒い物の輪郭がぼうっと見える。今夜は雪も降っていない。きん、と張り詰めた空気を私は好もしく思うようになっていた。


「空を見て下さい」


 手袋も嵌めていない彼の手が天を指す。会津の冬は風がないから普段手袋は必要ないのだと彼は言っていた。空を仰いで思わずあっと歓声を上げた。

 細かい宝石を天球いっぱいに埋め込んだような、無数のきらめきがちらついていた。

 都会では弱々しいシリウスやベテルギウスの光も、清廉な白や力強い赤の輝きを放ち、五・六等星までくっきり見えるようだった。

 すごいでしょう、と彼が言う。


「夏には天の川も見えますよ」

「肉眼で? すごい……」

「俺も東京から戻って改めて驚きました。こんなに星が見えるのかって。星だけじゃなく、会津の四季ってなんて美しいんだろうと思いました」

「……」

「春には桜とお城はもちろん、水田に磐梯山ばんだいさんが映るのもいい。夏は緑と青々とした山が目に痛いくらい鮮やか。秋は金色の稲穂を風が揺らしていく。冬はこの寒さですが、雪景色も星空も綺麗です」


 そこで彼は私の目を見つめた。


「あなたにはぜひそれを見てほしい。冬に来てうんざりしたかもしれないけど、よかったら会津を好きになってほしいんです」


 私は顎を引き、見てみたいです、とはっきり答えた。

 物音ひとつなかった。世界に二人だけが雪に閉ざされ、隣り合っていた。もう一度空を見ると、白い筋がすうっと視界を跨いで流れた。冷たい星の光を、私たちはずっと眺め続けていた。

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