団子坂 明智小五郎登場!

駅員3

団子坂 明智小五郎登場!

 『団子坂』は、これほど多くの有名な作品に登場する坂は、他に例をみないのでは無いかと思うくらい色々な作品に登場する。

 森鴎外の『青年』、二葉亭四迷の『浮雲』、夏目漱石の『三四郎』、室生犀星の『坂』、そして忘れてならないのは、江戸川乱歩の『D坂殺人事件』・・・明智小五郎のデビュー作品である。


 D坂殺人事件は、坂の途中にある喫茶店に入った主人公と、この小説で初登場となる明智小五郎が、通りをはさんだ向かいの古本屋で発生した殺人事件を発見する話しである。

 江戸川乱歩は、1919年(大正8年)に上京すると、ここ団子坂で古本屋『三人書房』を始める。乱歩は後年「D坂殺人事件の背景は、団子坂で自身が経営した古本屋の店構えや近所の様子を念頭に置いて書いた。」と語っている。


 『団子坂』は、文京区千駄木2丁目と3丁目の間を西から東に下る坂である。下りきると団子坂下交差点で不忍通りと交差し、そのまま真っ直ぐ進むと、谷中霊園のところで右に大きくカーブして、上野駅北側の渡線橋でJRの線路を越え、昭和通りに下る。この渡線橋を『両大師橋』という。

 『団子坂』の名前の由来は、「坂の近くに『団子屋』があったから」とか、「坂が急で、転ぶと泥だらけになり団子みたいになったから」ともいわれている。

 また、ここは本郷台地の東縁にあたり東京湾が望見できたことから、『潮見坂』とも呼ばれたようだ。

 さらに、坂下には七面堂があったことから、『七面坂』とも呼ばれたらしい。


 江戸時代の『御府内備考』には、「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」とあり、昔は、正式名称が『千駄木坂』で、俗称が『団子坂』だったようだ。

 明治時代半ばまでは二間半というから、4.5m程度の細い道で、坂もかなり急だったらしい。その後上下二車線に歩道の付いた広いところでは20mはある都道452号となり、多くの乗用車やトラックが行き交う。


 団子坂下交差点で不忍通りと交差し、直下には東京メトロ千代田線千駄木駅がある。交差点から坂を見上げると、S字カーブを描いて登っていくのであるが、坂の両側はマンションが林立して空が狭く、坂上を望むことはできない。


 交差点北西の角には、大正ロマンを彷彿とさせるレトロな建物が建っている。入口の両側には、縦長の楕円の窓が開いていて、その中にはメニューが掲示されている。木製の扉を開けて中に入ると、タイムマシンで昭和初期にタイムスリップしたかのような世界が広がる。床は木製で、白く塗られた壁に電球色の照明がとても温かい雰囲気を醸し出している。ここは、『IL SALE』というイタリアンのレストランだ。

 外に出て坂道を登り始めると、数十メートルで左に緩くカーブして、右手(北側)に古い石垣が現れる。何回も工事をして坂道の傾斜を少なくしたということからこういう切り通しが残ったのだろうか。


 『団子坂上交差点』から振り返って東を望むと、坂の両側から団子坂下交差点の向こうまでマンションやビルが林立し、遠望かなわない。江戸から昭和の戦後までは、『潮見坂』とも呼ばれていたことから、東京湾から遠く房総半島の山々まで見渡せたことだろう。地図ソフトを使ってこの地点の上空230mから見える地形を描かせると、確かに東京湾から房総半島の山々まで綺麗に見渡せる。


 森鴎外記念館(観潮楼跡)はこの団子坂上交差点の南側にある。坂上と名付けられた交差点から、さらに登り坂は続く。坂の傾斜を緩くするために削られて坂の頂上がさらに先に伸びたのだろうか?


 団子坂にはいくつかの『元祖』がある。その一つは、誰もが知っている菊人形の発祥の地である。菊で飾った人形で芝居の名場面を見せる見世物だ。

 始まりは江戸時代のことで、ここから程近い巣鴨の植木職人が菊細工を作って寺に飾っていたものを、明治期になるとここ団子坂に集めて飾り、たくさんの見物客を集めるようになったのだ。秋になると、当時は団子坂の両側にはたくさんの菊人形を飾った小屋が立ち並んだ。


 次の元祖は『藪そば』だ。そば通には有名な蕎麦屋の屋号『藪そば』は、今は神田、上野、浅草が有名だが、江戸時代に神田藪の本家がここ団子坂にあったのである。


 そして、『女性解放』運動の原点がここにある。1911年(明治44年)6月に平塚らいてう(1886~1971)が中心となり、青鞜社が結成され、この地に事務所が置かれた。同年9月には、雑誌『青鞜』が創刊され、その発刊の辞に「元祖、女性は実に太陽であった」と書かれたことは有名である。

 また、あまり知られていないが、表紙の絵は後に高村光雲の長男、高村光太郎と結婚する長沼ちえの作品であった。

 今は団子坂上交差点近くのビルの壁に、文京区の設置した『青鞜社』の由来を記した銘板が残るのみである。


 団子坂上の近くには高村光雲の遺宅がある。とても都心に近いとは思えない緑の多い閑静な路地を入っていくと、木造二階建ての古風な住宅が現れる。ここを訪れた3月上旬には、庭に咲く白梅はぽつぽつとほころび始めていた。


 高村邸から東に不忍通りを目指すと、途中に本郷台地の斜面をうまく利用して作られた須藤公園がある。

 江戸時代は加賀藩の支藩である大聖寺藩(10万石)の下屋敷跡を明治になり、長州出身の政治家品川弥二郎の邸宅となった。

 さらに、1889年(明治22年)に実業家須藤吉左衛門が買い取った後、1933年(昭和8年)に東京都に公園用地として寄付されたものが、後に文京区に移管されて現在に至っている。

 公園に近くなると水の流れる音が聞こえてくるが、豊かな水量の滝が園内にはある。もともと湧き水を利用していたのだが、残念ながら数年前に枯れてしまい、現在では循環式のポンプが設置され水が流れている。


 現代の団子坂を歩くと、古きよき時代を感じさせるものがたくさんある。出来るものなら、いつまでも後世に伝えていきたいものだ。

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