第29話 幻惑と歌声

 美しい極彩色の翼を持つ少女は、久方振りに拘束を解かれた。

 自身の両手に当たる黄色と橙色の翼を広げ、大きな大きな欠伸あくびをする。


 幻想的な水色の鍾乳洞内に咲く色鮮やかな翼に、レントは目を奪われてしまっていた。しかし、すぐに今の急迫した状況を思い出し、その極彩色の少女の顔を覗く。

「お、起きたなら、お前は早く逃げろ! ここは今、危ないから……!」


 視線をあちらこちらに移しながら、レントはその少女に鍾乳洞から出るように伝える。だが、少女のそれに対する答えは素っ頓狂なものだった。


「ねぇ……。それより、歌っていい?」


 —— — — —


 豪快な音と共に地がえぐれ、天井まで伸びる石柱が次々と折れていく。狼人族ろうじんぞくの男は、飛び回りながら逃げるラドを、その足技によって追い詰めていた。


「いい反応だ」

 地に降りた瞬間を狙った回し蹴りを、上空に飛んで回避する。

 徐々に戦闘に適応していく小竜を見て、狼人族ろうじんぞくの男は不敵に笑った。戦闘狂の気質があるこの男は、まだ子どもながらにして戦闘の素質を垣間見せるラドを相手に、純粋な愉しみを感じていたのである。

 気持ちの高揚に身を任せ、回し蹴り、空中からのかかと落とし、蹴り上げ——。

 鋭い目つきの中に黒い輝きを散らつかせながら、狼人族ろうじんぞくの男は次々とラドへと迫っていく。



 ラドは全身を駆け巡る吐き気に耐えながら、目の前の男からの攻撃を避けることに全力を注いでいた。

(ハクの元へ行くには、こいつをまずどうにかしないと……)

 ほんの十数メートル離れた先で弟が苦しんでいる。蹴り飛ばされて石柱に激突した苦痛で顔を歪ませながら、それでも立ち上がり、必死に闇精族あんせいぞくの男を睨みつけている。

 ラドは足技の数々を避けながら隙を伺うが、そのたかだか十数メートルを進むことができない。


 ラドの前方——狼人族ろうじんぞくの男の奥で、闇精族あんせいぞくの男が短刀を構えて分裂を始める。そしてその数が十人程になったところで、その構えた短刀を振りかざした男達はハクに襲いかかった。

 分裂したことは衝撃的だったが、それは些細なもの。にやにやと笑う男に対して込み上げる怒りが、ラドの精神を飽和させていく。


 回転蹴りをもって自身へと肉薄する狼人族ろうじんぞくの男に再び視線を戻す。ラドは意を決し、ついに反撃へと転じた。

「そこを……どけぇー!!」

 ラドは叫ぶ。そして飛びながら、男の蹴りに真っ正面から対抗する。

 繰り出される男の発達した右足に、ラドはその小さな顎を大きく広げて噛み付いた。小さいながらも頑強な牙が、男のすねに食い込んでいく。


「甘いッ!」

 しかし、狼人族ろうじんぞくの男は噛み付かれたのも気に留めず、その右足を振り抜いた。その発達した足の筋肉は、まだ子どもの竜の牙には負けることはない。


 蹴りの衝撃に負け、ラドは後方へと吹き飛ばされる。だが、顎がその右足から離れる瞬間。瞬時にプラーナを練ったラドは、咄嗟とっさの判断で炎を吹いた。

 母が吹く炎のブレスと比べれば完全に見劣りするが、ラドは初めて本格的なブレスを吹くことができた。

 小さい体から吹き出される炎が男の右足を焦がす。

 ラドは蹴られた衝撃に抗うことができず、五メートルほど後方へと吹き飛ばされた。


「ぬぅ……!」

 振り抜いた右足を戻した狼人族ろうじんぞくの男は、酷い火傷の痛みで体をよろめかせる。

「ふふ……。いいぞ……! もっとだ……! もっと竜の力を見せてみろ!!」

 鋭い目を見開き、全身の毛を逆立てながら、狼人族ろうじんぞくの男は叫んだ。そして、顔を綻ばせながら、未だ煙と血が出ている右足を踏み出す。

 先ほどよりも加速し、一直線にラドへと向かい襲いかかった。


 —— — — —


 分裂した闇精族あんせいぞくの男達は一斉にわらった。

「ざぁーんねんッ! こっちだ!」


 ハクの右腕に短刀による切れ目が生じる。

 自身から見て左側にいた男が襲いかかってきたため、ハクはそれを避けようとした。しかし、その男はハクに触れるか否かの間際に黒い煙と化し、そして逆側にいた本物の男がハクの右腕を切りつけたのである。


 闇精族あんせいぞくは、生物の精神や意識に干渉する術法を使う。それは、ほとんどの種族に有効であり、動物にもその効果は及ぶ。

 しかし、自身の周囲という限られた範囲でしかその効果は無く、個々の身体能力も低いという欠点を持つ。



 鋭い痛みと共に、ハクの右腕を鮮やかな赤色がつたっていく。

「……っ!!」

 ハクは左手で右腕を抑え涙をこらえて、なおも男を睨み続ける。石柱に激突した痛みに鋭い痛みも加わり、全身から脂汗あぶらあせが噴き出していくのをハクは感じていた。


「いい表情かおするじゃないかぁ」

 闇精族あんせいぞくの男は狂気の笑みをたたえたまま、再びハクに向かって短刀を振り下ろす。

 左足の太もも、右頬、背中——。

 すべを持たないハクは、ただただ刀傷を増やし、その身に流れる血を流していく。


 小さい体に力を込め、突き刺すような痛みに耐えながらも、ハクは懸命に意識を保って涙をこらえる。

「いつまで耐えられるかなぁ? そらっ、そらぁっ!!」

 右に避けようが、左に避けようが、ハクの行動をまるで読んでいるかのように、闇精族あんせいぞくの男は執拗しつように急所を避けてその短刀を振り下ろす。男は術法をハクの精神に干渉させ、幻惑を見せているのである。


 新たに刀傷をいくつか増やしたところで、下卑げびた表情の男は動きを止め、その口角を少し下げた。

「頑張るねぇ、坊ちゃん。けど、そろそろしまいにしようかねぇ。妖精族のガキも始末しなくちゃいけねぇし——」


(——こいつ……!!)


 ハクはその時、何かが自分の中ではじけたのを感じた。


 そして、いつか聞こえた自分を呼びかける声が、再び脳内を侵食していく。



 ——(力が……欲しいか)

 低く、力強い声。

(……欲しい)

 ハクは心の中で、その問いに答える。


 ——(何故なにゆえにそれをほっす)

 心を問うような声。

(……みんなを守るために)

 ハクは目を閉じ、兄と、友達と、母の姿を思い浮かべる。


 ——(おの宿命さだめを受け入れるか)


 もう目の前で誰かが傷つくのは耐えられない。

 もう兄に守られるだけなのは耐えられない。

 母を救えなかった悔しさを、誰かを失う苦しみを、もう二度と味あわないために。

 そして、何よりも、大切な人を守るために。


 ハクは意を決した。

(——受け入れる!!)



 目を見開き、ハクは自身のプラーナを解き放つ。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーー!!」


 そして、ハクは再び、雄叫びをあげた。



「くくく……。どうした坊ちゃん、怒っちゃったのかなぁ? ……ん?」

 ハクの雄叫びを聞いた闇精族あんせいぞくの男は、それがただの苦し紛れの叫びだと思った。しかし、徐々に姿を変えていく少年を見て、先ほどまでのわらいの表情が一気に崩れていく。


 以前、人族の兵士達と対峙した時と同じように、ハクはその身体の一部を変貌させる。

 目の色が茶色から紫色に変わり、右肩から右手の先にかけてが竜のそれとなる。


「おいおいおい……導師がいるなんざぁ聞いてねぇぞ……!?」

 あらゆる種族で語り継がれている導師という存在、伝承でしか聞いたことのない人物が目の前にいる。そのことに闇精族あんせいぞくの男は、驚愕と、それ以上の恐怖により心が乱れていくのを感じていた。


 —— — — —


「いい? いいよね!? もう……我慢できない!」

 極彩色の翼をもつ少女は、レントの制止も聞かず、もはや禁断症状の域の欲望をさらけ出した。


 そしてそのまま目を閉じ、少女は場違いに美しい歌声で自身の種族に伝わる歌を歌い始める。


 鍾乳洞内に、悲しみと喜びが入り混じった旋律が響いていった。

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