第16話 暴走。そして
少年の発した突然の咆哮に、マルドゥク率いる兵士達は思わず足を止めた。
人族の仇である導師がすぐそこにいる。
それは、何よりも最優先されるべき討伐対象である。しかし彼等の兵士としての信念は、恐怖を目の前にした途端に容易く折れてしまった。隊長として兵を率いているマルドゥクでさえも、その例外では無かった。
咆哮が止む。
そして、叫び終えたその小さな身体が兵士達へ振り向く。
ハクの目が茶色から紫へと変わり、さらに右腕から肩にかけて徐々に赤く染まっていく。そして次第に右手の指先は鋭利な鉤爪となり、赤く染まった右腕の皮膚は堅牢な鱗と化す。
ラドとライアスは、その変貌していくハクを見て言葉を失ってしまった。
口から炎を零しながら、ハクはマルドゥクを睨む。
「ひっ……!!」
その
少年とは思えないような低い声で唸りながら、ハクはゆっくりとした足取りでマルドゥクへと近づいていく。
「……! 止まれっ!」
ライアスはハッとして、ハクを止めようと地を蹴った。ハクをすぐ近くまで捉え、ライアスは右手を伸ばす。
しかし、その手は虚しく空を切った。
「ぅがぁぁぁっ!!」
ハクは本能に従うまま疾駆し、マルドゥクに肉薄する。
その地を駆ける速度は、もはや人族の範疇を超えていた。
猛スピードで迫り来る少年に恐怖し、マルドゥクは尻餅をついたまま後退りする。
「ひぃっ……! 来るなっ! 来る——」
グシャッ、という鈍い音を立てて、ハクの右手がその喉元を貫く。
マルドゥクの口から血が噴き出し、恐怖で引きつった表情のまま腕がだらりと下がる。
血だらけになった右手を、ハクは無表情で引き抜く。そして支えを失ったその体は、重力に従うままその場に倒れ込んだ。
上官のあまりに
「ぅっ……ぁぁ……あぁぁぁっっ!!」
ハクは呻きながら逃げていく獲物を見据える。そして再び地を駆け、群がりの中に飛び込んだ。
「お前達!! 逃げろぉー!!」
ライアスが叫びながらハクを追いかける。だが、その超然たるスピードに一向に追いつけない。
体を斜めに引き裂かれ、頭を貫かれ、首元を潰されていく兵士達。
彼らがいくら泣こうが喚こうがハクは止まらない。
ラドは虚ろな眼差しで、この地獄絵図を呆然と見つめていた。
ハクがその姿を変貌させてから三分が経過した。その僅かの時間の中で、およそ百個の無残な屍が出来上がっていた。
そしてまた、心臓を抉られた新たな屍が一つ——。
自分一人では暴走したハクを止められないと判断したライアス。彼は呆気に取られて立ち尽くしているラドに向かって叫んだ。
「おいっ! そこの竜! 惚けてないで、あいつを止めるのに手を貸せ!!」
ビクッと身体を震わせ、ラドが正気に戻る。
ハクのあの変わり果てた姿は何なのだ。
母を殺した人族は憎い。
しかし、ハクのあの行動は間違っている。
無闇に人族を惨殺するのは間違っている。
ラドは自問する。
では母の仇、人族の連中をこのまま見過ごしていいのか。
——否。
では未だ殺戮を続ける、ハクをこのままにしていいのか。
——否。
母の言葉を反故にしていいのか。
——否。
結論は一つだった。
「ハクー!! もうやめろぉー!!」
ラドは飛び立ち、弟を正気に戻そうと空中を走る。
そして、ラドのその必死な言葉を聞いたハクが一瞬だけ動きを止める。ライアスがその隙を見逃さず、背後からハクの両腕を締めあげる。
ハクがライアスの腕を振り解こうと、もがき始める。
「くっ……!!」
少年とは到底思えない余りの強さだったが、ライアスは歯を食いしばって辛うじて耐えている。
ラドはハクに接近し正面に回り込むと、ハクの四肢を両腕と両足で器用に掴む。
そして自分の顔をハクの顔に近づけて、あらん限りの声で叫んだ。
「ハクっ! もう止めるんだ! こんなの……こんなの間違ってるよ!!」
「ぅぅ……あぁぁぁー!!」
ライアスとラドの二人に拘束され、身動きの取れないハク。必死に振り解こうとするが敵わず、ラドの言葉も届かない。
「母ちゃんは……、母ちゃんは! こんなことを望んでない!!」
ハクの動きが止まる。すでに兵士達は遠くへと逃げ去っている。
静寂が訪れる。
「ねぇ……ハク……。……もう……やめよう? 母ちゃんを……殺した人族は憎いけど、でも……だからって……人族を殺しちゃったら……、その人族と同じだよ……?」
その竜の目から涙がポロポロと溢れていく。
「……あぁぁ……。……っく。……ひっく」
ハクの体から力が抜け、低い唸り声から小さな子どものすすり泣く声へと変わる。そして、段々と鱗が体内に吸い込まれ、目の色も紫から茶色へと戻っていく。
ライアスはそっとハクの拘束を解き、天を仰いだ。
ラドもハクから離れ、翼を一回羽ばたかせて地に降りた。
先ほどとは打って変わり、空には雲一つ無い星空が広がっている。
夜空を見ながらライアスは目を伏せ、静かに黙祷を捧げた。
周囲を屍に囲まれたこの星空の下で、いつまでも止まらない二つの泣き声がどこまでも響き渡っていった。
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