第2話 高谷医師

 医者は名前を高谷といった。


 彼に診てもらった結果、骨折したかもしれないと思った左手首は、ただの捻挫だということだ。


 ベッドに腰掛けた状態の私の左腕に、高谷は丁寧に湿布を貼り、包帯を巻きながら、ゆっくりとした口調で話をした。


「何が起こっているのかわからず、パニックにさせてしまったかもしれないね。目覚める時には部屋に居ようと思っていたのだけど……。悪かったね」


 高谷の声は相変わらず枯れていたが、話していると少し気分が落ち着いた。乾燥した声だと感じていたが、今はその声に、心地良い温かみさえ感じられた。この医者はもしかしたら以前からの知り合いなのかもしれない。


「いえ……。大丈夫です。ただ、今の状況がまるでわからないんです。私、事故にでもあったのでしょうか? 実は、何も覚えていないんです。何が起きたかとか以上に、自分の名前さえも思い出せなくて……。すみませんが、先生の事も」


 こんな事を言ったら、きっと彼は驚くだろうと思い、その表情を伺ったが、高谷は驚くどころか、安堵とも取れるような表情で私に微笑みかけた。


「そう、良かった。あ、いや、今の君には全然良くないだろうけど。その状態は、君にとって悪い事では無いんだよ」


「はあ……」


 私が記憶を失う事が悪い事では無い。そんな状況とはどういった事情があり得るかを考えようとした時、包帯を巻き終えた高谷が席を立った。


「これから説明するので、ちょっと場所を移動してもらっても良いかな?」


 彼は部屋の奥から車椅子を用意すると、ベッドの横に用意した。


「ここは病室なんだ。あまり長居していても良い気分じゃないし、君の部屋まで案内するから、続きはそこで説明しよう。車椅子は今の君はちょっと歩かせられないから、念のため」


「私の部屋? もう退院できるんですか? 今から?」


 突然の高谷の行動が理解できず呆けていると、慌てて高谷が言う。


「ああ、ごめん、そういう事じゃなくて、この建物内に君用の部屋が用意されているんだ。 説明には時間がかかるから、そこへ行って説明させてくれるかな。ここからエレベータを使ってすぐだよ」


 今の時点で質問したいことは山ほどあったが、まずはその場所へ移動しなければならないことを理解し、私はベッドから立ち上がり車椅子に座った。


「じゃあ、行くよ」


 安全ストッパーを慣れた様子で外す高谷を見ながら、私はここでの生活が長くなる気配を感じていた。


 病室を出ると、建物の中廊下に出た。

車椅子に座った状態では視界が低く分かり辛かったが、建物の中心部は天井までの吹き抜けになっている様だった。

 その吹き抜けを一周する形で絨毯敷きの中廊下が円状にある。

 そして今出てきたドアと同じものが、その廊下に沿って、吹き抜けを取り囲むように二十程も並んでいる。

 相当高い建物の様で、ここからでは天井まで確認は出来ない。吹き抜けに沿ってガラス張りのエレベーターが、何機か設置されていた。

 私達は一番近いエレベーターの方へ進んだ。その廊下を10メートル程いった所で高谷がエレベーターの上ボタンを押す。そのボタンの上には金文字で数字の2と書かれたのサインがある。


「ここは2階だったんですね」

私が言う。


「ああ、今から28階まで行くよ」


エレベーターから「チン」と到着の合図が鳴る。ゆっくりと中に進むとガラス越しに1階の様子が見えた。

 手入れされた中庭にはレンガが敷き詰められており、ときおり植物も植えられている。今は時間的に閉まっているようだが、何セットかのテーブルと椅子、カウンターなんかをみると、カフェか何かがあるのだろう。


「ホテルみたいですね。古そうだけど」


「以前ホテルだった事もあるみたいだよ。 その前は高層マンションだったって言ってたかな。 ここはずいぶん昔に埋め立てられた土地でね。 高層マンションを建ててみたものの、人気が続かなくて、色々と経てこの施設になったんだ」


エレベーターは静かに上昇を続け、また到着のベルが鳴る。

「チン」


「さあ、ついた。降りよう」


 エレベーターを降りると、さっきとは逆にあたる、向かって右側の方向へと進んだ。病室のあった側とは、吹き抜けを挟んでほぼ対面の部屋の前で、高谷は車椅子を止めた。

「42820」と部屋番号がドアに印されている。

 高谷はジーパンの右のお尻のポケットからカードキーを取り出すと、ドアを開き、車椅子を部屋の中へ押し進めた。


 部屋に入ると先程の病室とほぼ同じ作りだった。狭い廊下の両サイドにトイレやお風呂と思われるドアがあり、その奥のドアの向こうに、窓のある15畳程の部屋がある。

 基本の作りは同じだが、内装には違いが多かった。

 小さなミニキッチンが左奥についており、その前には一人用のダイニングテーブルセットが置かれている。

 ベッドが右奥の端に置かれており、小さな窓には趣味の良い薄いピンクのペイズリーのカーテンが付けられていた。病室とは少し違うだけだが、この場所は自分の趣味に近い気がする。


「君はベッドに腰掛けてくれるか。私はここに座るから」


高谷はそう言うと、車椅子をベッドの横に着け、自分はダイニングテーブルの椅子を引っ張り出し、ベッド側に向け腰かけた。


「まずは、君から何か聞きたい事はあるかな? それともこちらから説明していこうか」


「まず、最初に、一つだけ聞きたいことがあるんです」

私は答える。


「ああ、良いよ」


高谷は組んでいた足を解き、少し身構えた。


「私の名前は、何ですか?」


私はまず思い出しておきたい事を聞いた。目覚めてからずっと、ガラスに映った自分の姿を確認した時でさえ、自分の動かすこの体が自分のものだとは思えなかった。まるで自意識が留まる場所を見つけられず、体内で迷子になっているようだった。自分の名前を聞けば、少しはその感覚を鎮められるのではないかと思ったのだ。


「君の名前は、江崎叶だ。江崎叶、24歳」


「えざきかなえ……」

まるでしっくりこなかった。


「というか、今日から君は江崎叶という事になる」


「今日から? じゃあ今までは……」


頭は混乱しているが、話の先が知りたい欲求だけで会話にしがみつく。


「今までの事は教えられないんだよ」


「え?」


「これからは、この施設の説明にもなるけど、目覚める前の君、江崎叶になる前の君は自ら望んでこの施設に来たんだ。ここに来る人達は、殆どがその様に、自らの意思でここに来るんだよ。ここは一般的な病院という施設ではないんだ」


「皆はどういった目的でここへ?」


「記憶を無くしに来るといったところかな」


高谷はこちらの反応を少し待ったが、私の方は咄嗟にその意味を理解できずにいた。もう会話を成立させることが出来ず、高谷の次の言葉を待っていた。


「ここに来る人は皆、人には言えない深刻な経験を、自らの力で乗り越える事が出来ず、それを忘れにこの施設へやってくる。過去の経験からのトラウマで、楽しく人生を送れない人や、不安症や恐怖症を患いながら生きて行くことに辛くなった人たちが、この施設で過去の記憶を消す処置を受け、人生をやり直す為にやって来るんだ。それには、もちろんそれ相応の金額が必要だが、それも処置前に全て支払ってもらっている。もちろん君も例外ではない」


「じゃあ私も、何かそういった過去を抱えて、ここに自らの意思でやってきたという事ですか……。 そしてそれは話せないと……」


「そういう事になるね」


「なんかそれ、今の私にはものすごく残酷な話ですね。今までの自分について何も記憶のないまま、これから暮らして行けって事ですよね。家族とか友達とか全部なかった事になるなんて……。ましてや自分の名前も変えて別人として生きていくなんて、公に許されている行為なんですか?」


少し声を荒げてしまった。


「もちろんここは国からも認可された施設だよ。それに言っておくがこの処置を受ける前の君は、今の君のどんな想像よりも悲惨な状態だったよ。そしてその君が選んだのが、こういった生き方だ。今の君が何と言おうとも、過去の君の意志を覆すことは出来ない。ちなみに江崎叶という名も、過去の君が望んだ名だよ」


 険しい表情で話を続けていた高谷は、一度ため息を付くと、穏やかな顔でこちらを見ながら立ち上がった。


「コーヒー、入れてもいいかな?」


 私はこくりとうなづく。高谷はミニキッチンの方へ行くと電気ケトルに水を入れ、スイッチを押した。何個かの引き出しや釣り戸棚を開け、発見したドリップコーヒーを2つのカップに設置した。


「私にはこれからどんな生活が待っているんですか?」


「今全てを伝えるのは難しいけど、とりあえずはこの施設で経過を慎重に見させてもらう事になる。君も気付いているだろうけど、記憶を消すといっても、全ての記憶が消えているわけではない。これから生活していくのに必要な記憶や、生活習慣的記憶は残されている。それらはある程度こちらで選別して処置が行われたわけだが、すぐ社会復帰できる程度のものかどうかは、少し時間をかけて見て行く必要があるんだ」


「どのくらいかかるのものなんでしょうか?」


 高谷は少し困惑した表情で答える。


「それは、人によってかなり違う。5、6ヶ月の人もいれば、何年かかかる人もいる。悪いが今はなんとも言えない」


 それを聞いて、私は、さっき見てきた無数のドアの向こうにも同じ様な立場人間がいるのだという事を改めて認識した。


「私の他に、この様な立場の人はここに何人くらいいるんですか?」


「この棟の中には400名程かな。ここにいる住人達は全員似た様なケースの人達だから」


高谷の言葉がひとつ気になった。

「この棟?」


「ああ、他にもすぐ近くにこの建物よりも大きなものが3棟あるよ。全員あわせると2000を超す人数だ。まあこんな施設は珍しいからね。色々なところから人が集まって来るんだよ」


高谷は両手にコーヒーを持ち椅子の方まで戻ると、ひとつをこちらに渡した。私はどうにか右手を伸ばしてそれを受け取ったが、高谷の話に、呆気にとられていた。2000人以上もの人が人生をやり直すため、大金を積んで、ここに自分を捨てに来ているということが信じられなかった。人間はそんなに簡単に自分を捨てられるものなのだろうか。さっきまで自分の不幸を哀れに感じていたが、その様な人間が2000以上も近くに存在するのだと思うと、自分を捨てる行為への軽蔑と、自分がそれを行ったという残念な思い、仲間が他にもいる安心感とが入り混じった、奇妙な気分になった。


「人の多さに驚いているかもしれないが、日本の年間の自殺者数は毎年約3万人。それを考えると、人生リセットしたい人間はもっともっと存在すると思うよ。今、日本の人口は減少し続けてて9千万人を切っている。今の医学は進んでいるから、癌なんかの死亡率はどんどん下がっているのに、働き盛りの人間達の自殺はなかなか減少しない。政府としても、心の病で死を選ぶ人が居るなら、体はそのままに中身を入れ替えて、人生をリセットする事で、また日本の動力となってほしいと思っている。ここは政府からの後押しもあって運営されているんだよ」


熱いコーヒーをゆっくり飲みながら高谷は話を続けた。


「これから毎日をここで過ごしてもらうわけだけど、この棟の住人とは何かと関わりを持つ事になるだろうから、みんなが自分と同じ様な立場だということは、忘れずにいてほしい。あと色々なルールだったり施設の使い方は、明日以降、住人の中の案内係が教えてくれるから」


「外には出られないんですか?」

叶が尋ねる。


「申請なんかを出してくれれば、出ることは出来るけど、いきなり出ても右も左も分からないと思うよ。今の君は外に知り合いもいない訳だしね。ここにはスーパーやスポーツジム、映画館や、レストラン、バーなんかもあるから不自由はしないと思うよ。あとそこで働いてる人間も、殆どがここの住民だから。君もいずれは社会復帰目指して、ここで何かしら仕事をすることになるからね。何かこの中で入手できないものに関して欲しい物があったら、私に言ってくれれば大丈夫だから」


「なんだか、至れり尽くせりの、凄い施設ですね」


「そうだね。ゆっくり頑張っていこう」


「はあ」


 高谷は残りのコーヒーを飲み干すと、すっと立ち上がった。


「これからは僕が君の担当だから、困ったことがあれば何でも言ってくれれば良いよ」


 コーヒーをミニキッチンのシンクに置き、椅子をダイニングテーブルの下に戻す。


「1日おきに朝、回診に来る事になっているから、明日は朝の7時半にまた来るよ。とりあえず今日はもう遅いし、また明日にしよう。あ、あとリハビリついでにこのコーヒーカップは洗っておいてね」


 彼はそう言うと、少しいたずらっぽく笑い、この部屋のカードキーをテーブルに置き、部屋を出て行こうとした。


「とりあえず、そのカードで支払いとか全部できるから。なくさない様にね。じゃあまた明日。おやすみ」


 ドアノブに手をかけた彼を慌てて引き止めた。


「あ、あの……」


 高谷が振り返る。ひとつどうしても気になる事があったのだ。


「この……、このカーテンはもしかして、昔の私が選んだものですか?」


 私はこの部屋唯一の窓である、羽目殺しの窓にかかったカーテンを手にしながら言った。彼は、一瞬驚いた顔を見せた後、今まで見た中で一番優しげな笑みを浮かべ答えた。


「ああ、そうだよ。良い柄だよね」

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