富岡製糸場の夜と吸血鬼

天色

富岡製糸場の夜と吸血鬼

「随分と星が綺麗な夜だね、お嬢さん。製糸場がよく映える」

 空中に足を組んで腰掛けた青年は、空を見上げつつ、一瞬チラリとこちらを見てそう言った。私の頭上で。


 私は、東京の雑誌社でライターとして働いている。今は主に地方の旅行雑誌の記事を担当しており、今回は世界遺産の富岡製糸場についての取材を行うためにはるばる群馬県富岡市までやってきた。

 富岡製糸場。1872年に日本で初めて建設された大規模な器械製糸工場だ。フランスの技術を取り入れて高品質な生糸を生産し、諸外国へ輸出していた。操業停止後も、その歴史的価値と保存性の高さから重要文化財に認められ、2014年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録された。レンガ造りが特徴的な建物だ。

 しかし、私は悩んでいた。今日1日で富岡製糸場の見学、周辺の商店の調査、市役所観光課へのインタビュー等、一通りの取材を終えた。だが、記事のメインテーマとなるようなことが思い浮かばなかった。

 日はとっくに暮れ、とぼとぼと富岡製糸場の横の道を歩く。どこかで宿をとって明日も取材か、そんな風に考えていると声をかけられた。頭上から。

 その青年の顔立ちは明らかに日本人のそれとは異なっており、彫りの深さが際立っていた。美男子、と言って差し支えない容姿である。どこか時代を感じさせるスーツを身に纏っていた。


「あなたは、誰ですか?」

「ポール・ブリューナ、と言えばわかるかな?」


 私は、私が思っている以上に冷静だった。こういう心霊現象の類を専門にしているライターの知り合いもいる。だからこそ、百年以上前に死んでいるはずの人間に、それも空中に浮いている人間に出会っても叫び声を上げなかったのかもしれない。

 ポール・ブリューナ。富岡製糸場の建設にあたり指導者として活躍したフランス人だ。製糸場の建設地の選定から携わり、本国から機材や技師を連れてきた。この人なしでは富岡製糸場は明治日本の近代化に一役買うどころか、完成することさえなかっただろう。


「なぜ、あなたがここに? あなたは死んだはずでは」

「そうだね、それは僕が吸血鬼だからかな」

「吸血鬼……」


 当時、ポール・ブリューナにはある噂があった。それは彼が吸血鬼ではないかという噂だ。そんな噂が流れた理由には彼が夜な夜な嗜んでいたワインにあった。ワインに馴染みのなかったその頃の富岡市民にはまるで血を飲んでいるように見えたのだろう、というのが定説だ。


「ここは過ごしやすいところだね、ついついフランスではなく富岡に長居してしまう。美味しいものを売っているお店も多いからね。ホルモン揚げはもう食べたかい? 素朴な味ながらどこかやみつきになる味だよ」

「いえ、こっちに来て取材ばかりで……」

「取材? 君はてっきり観光客だと思っていたけど」


 空中に腰掛けていたブリューナはスーッと地面に降りてきて私の前に立って目を合わせた。

 そこで私は、自分がライターであること、富岡製糸場の取材のために富岡に来たことなど、これまでのことを話した。正面から見た彼の瞳には、どこか全てを話してしまいたくなるような、そんな吸い込まれそうな感覚があった。


「ふーん、まぁ、僕には関係ないけど。それにしてもいくら取材とはいえ、ホルモン揚げも、焼きまんじゅうも食べてないなんてもったいないねぇ」

「あまり時間がなかったので……」

「僕は長い間富岡を見てきたけど、街は変わっても変わらないものがある。それは、人だよ。富岡の人は世代が変わってもその人情味が変わらないんだ。だから富岡製糸場はいろんな人の努力のおかげで、できる限り開業当初のまま残っている。同じように名物の味も変わらず受け継がれていく。富岡っていうのはそういう街なんだ」

「あなたは、なぜそんなにも富岡を……?」


 ブリューナは顔を上げ、塀の上に見えるレンガ造りの製糸場を眺めた。私も見上げると、製糸場と並んで綺麗な満月が見えた。


「僕にとっては思い入れの深い場所だからね……。富岡製糸場を立派な製糸場にするにはそれはもう苦労したものさ。だからかな。こうして時折、夜の富岡を散歩したり、観光客に紛れて美味しいものを食べたりするんだ。とにもかくにも、肩肘張りすぎなんだよ、君は。もっと富岡を楽しみなよ。そうすればまた違ったものが見えてくるんじゃないかな」

「違ったもの……」


 確かに、そうかもしれない。今日も取材ばかりで、地元の人との触れ合いや食べ歩きなど、観光に近いことはしていなかった。もっと私の書いた記事を読んでくれる読者目線になるべきではないのか。そんな単純なことに気付けなかったなんて。


「少し長話をしすぎたかな。あまり長く接しすぎると君がそういう体質になってしまうからね」

「血は吸わなくてもいいんですか」

「君は僕のことを本当に吸血鬼だと思っているのかい? まあ、たいして変わらないけれど」

「あなたが言ったんじゃないですか!」


 呆れたような表情をする彼は怒る私をよそに、突如屈み込んで私の手を取り、手の甲に口づけをしてきた。一瞬の出来事に私の動きは固まった。仮にも美男子からの口づけである。手の甲でもその衝撃は凄まじかった。


「いい記事が書けることを願っているよ、マドモアゼル。それと、良い夢を」


 ブリューナは立ち上がると、足元から消えていってしまった。残されたのは接吻の動揺冷めやらぬ私だけである。

 私は、明日は富岡の観光を楽しむこと、そして絶対に記事にポール・ブリューナについて詳しく書くことを心に決めたのであった。そうでもしなければ気が収まらない!


「これで僕のことを記事に書いてくれるかなぁ」


 製糸場の屋根の上でそんな呟きがなされていたことを彼女は知らない。

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