2-2 神の暴挙エクソダス(2)

 主の思いつきで引き返したと言うことは、シナイ山での契約「十戒」は、当初の予定に入っていなかったことになる。エジプト軍を倒した後、カナンの方向に向かわず、そのままシナイ山に物見遊山にでかけた。シナイ山の近くには、モーセの舅エテロが住んでいる。


 モーセを訪れたエテロが、

「あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい(出18:20)」

 と助言したことに触発され、イスラエルの民の決まり事を山で公表する流れになったのだろう。

 イスラエルの民が山に着いてから二日待たされたのは、契約内容をまとめるための時間を稼ぐためだろう。モーセが授かった律法は、主の気まぐれによる急ごしらえの産物だった。


 イスラエルはシナイ山にたどり着き、モーセは十戒を授かる。主は民が山に登ることを禁じ、モーセに山に登るよう告げた。この十戒で、神が唯一の神であることと、偶像崇拝が禁じられるが、モーセが山の上で啓示を授かっている間、山の下にいたイスラエルの民は、偶像を作っていた。山から戻ったモーセは、そのことを知って激怒する。


 十戒自体は短いが、実はこのとき十戒だけではなく、契約の書と呼ばれる多くの細かい律法も授けられた。出エジプト記ではこの様子がわかりにくく書かれている。聖書を読む限りでは、モーセが山に上がり、下山して主の言葉を民に告げたのが、一度で済んだようには思えない。


 二日間の準備の後、モーセは一人で山に上がり、そこで十戒と契約の書の内容を授かる。民のもとに降りて、「主のすべての言葉と、すべてのおきて(出24:4)」を民に語る。

 十戒の前文に、「神はこのすべての言葉を語って言われた(出20:1)」と記されているので、十戒が全ての言葉で、契約の書が全ての掟のようにとれる。


 それからモーセは、契約の書を書き記し、山のふもとに祭壇を築く。そのあとで契約の書を手に取り、民に語った。契約の書を書き記してから、その内容を語ったということは、契約の書を記す前に語った内容は、契約の書の内容ではなく、十戒だけということになる。

 つまり、十戒と契約の書を語ったのは、別のタイミングということだ。聖書における文章の量では、十戒は十七節、契約の書は百五節。二回に分ける必要はあるのだろうか。


 次に、アロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。それはすぐ用件が済んだようで、その後また、二枚の石板を持ってヨシュアとともに山に行く。四十日後、山から降りてきたモーセは、民の偶像崇拝を知って激怒し、主自ら言葉を書き記された石板を割ってしまう。


 モーセは、また主のもとに行き、自分が板を割ったことはさておいて、民の罪に対し許しを願った。モーセは宿営と離れた場所にテント(会見の幕屋)を設け、そこを主との会見場とした。そのテントにはモーセの従者ヌンの息子ヨシュアが常駐し、そこに近づくことは禁じられた。


 主は再びモーセに、石板を持って山に登り、今度は自分で十戒をそこに記すことを命じた。モーセは二枚の石板を持って山に登る。四十日後、石板を持って民の前に立ったモーセは、顔から光を放っていた。神の栄光によるものとされる。


 主から授かった石板を預言者が壊すのは、民が子牛の像を崇拝するより遥かに罪深いはずだ。それなのに、主はそのことをとがめない。これは、あらかじめ打ち合わせ済みの狂言だったからだ。


 モーセは、エジプト王家で育ち、モーセ五書の作者とされるくらいだから、博識と思われがちだが、出生は創作で、職業は羊飼いだ。「モーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし(出24:4)」とあるが、文盲が当たり前の時代だ。モーセは読み書きができたのだろうか。モーセが文盲の場合、契約の書を読むことはできない。


 最初に山に上がったモーセは、長い契約内容を暗記できず、そのうちの重要ポイント十戒だけを覚えて民のもとに帰った。モーセ本人は十戒だけを語り、後にモーセに化けた天使が契約の書(手にとった契約の書自体も幻)を語った。本物の契約の書を書き記したのは、文字を知る他の者だ。アロンは言葉に秀でているということだから、当然文字を知っているはずだ。


 アロンは、本当にモーセの兄だったのだろうか。文盲のモーセでは預言者として不安なので、補佐役として、天使たちが以前から知識人として信頼していたアロンが選ばれたのではないだろうか。モーセの兄という設定にするなら、せめてアロンもナイル川に捨てられたというくだりが欲しかった。


 紙に記された契約の書だけでは保存性に劣るので、モーセは石版を持って山に上がる。ヨシュアと一緒だ。二人とも文字を知らなかったが、天使が示す文字の幻影を見て、あるいはアロンの記した契約の書を開いて、がんばって石板に主の言葉を刻んだ。

 素人のすることだ。かなり出来が悪かったはずだ。おそらく最初のうちは慣れないので文字が大きく、最後のほうは余白が足りなくなるので、大変小さくなっていたことだろう。


 天使は出来上がりをみてあきれはて、もう一度最初から作り直させることにした。天使は民のもとへ行き、彼らの偶像崇拝を知った。モーセに山から下りて、偶像崇拝に対し怒り、その板を割るように指示した。後世、イスラエルに災いが起こる度に、主は偶像崇拝のせいにするが、それはこのとき始まった。もし偶像崇拝が行われていなければ、別の理由でモーセは激怒したはずだ。


 季節についての記述はないが、小屋もない山の上では、身体的精神的に負担が大きいだけでなく、作業がはかどらない。それでモーセは会見の幕屋を作り、ヨシュアをそこに入れる。ヨシュアの役割は板に文字を刻むことだ。


「モーセは宿営に帰ったが、その従者なる若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋を離れなかった(出33:11)」

 モーセは、新しく用意した石板を持って山に上がるふりをして、幕屋に入った。


「だれもあなたと共に登ってはならない。また、だれも山の中にいてはならない(出34:3)」のは、モーセが幕屋に入るのを見られてはいけないからだ。


 四十日に渡り、ヨシュアとモーセは板に文字を刻んだ。二度目はうまくいった。しかし、モーセは律法について民に語ることは無理だとごねる。そこで天使は、ヨシュアの顔をモーセに変え、民の前に立たせることにした。

 服は光っていたという記述はないので、本物の服だと思われる。ということは生身の人間ということになり、顔だけが天使の描く幻で、モーセに見せかけられていた。


 ヨシュアは文字の刻まれた二枚の石板を持って、山から下りてきたモーセのふりをする。契約の書の時のように、天使がモーセに化けなかったのは、物理的に石版を運ぶ必要性があるからだ。石板はプレゼンテーションにも使う。ヨシュアの仕事は石板を掲げるくらいしかなく、モーセの声は天使が出す。律法を作り出した天使自ら、律法を民に授けるので効率的だ。


 モーセ本人が民の前に立ち、天使の朗読する律法に合わせて口を動かせばいいと思えるが、口の動きがおかしいことがすぐにばれる。モーセ本人の顔にモーセの顔のイメージを投影することは、さすがの天使にも難しい。モーセ本人もやる気がなく、非協力的だ。ヨシュアが選ばれたのも、モーセと背格好が似ていたからだろう。


 顔が光っていたのは、照度が強かったからだ。夜ならいいが、日中に幻をはっきり描くのは、かなり強く照らすことになる。天使自身が化ける場合にはさほど光らないようだが、天使が外部に映像を投影するとき、問題になるようだ。


「モーセは彼らと語り終えた時、顔おおいを顔に当てた(出34:33)」

「モーセは行って主と語るまで、また顔おおいを顔に当てた(出34:35)」


 ヨシュアはモーセの役をつとめるとき、幕屋から民の前までの移動中も顔を隠していた。動く対象物に幻影を投影することは、難易度が高かったのだろう。わかりやすく言うと、ヨシュアの顔とそこに投影されるモーセの顔がずれてしまうのだ。

 ある人物の顔に別の人物の顔を投影する手法は、後々にも応用されるので覚えておいていただきたい。たとえば、本人の代わりに替え玉が処刑される場合など。


 十戒とは、文盲かつ高齢のモーセが記憶できる限界だった。十個くらいなら覚えられると、天使は判断したのだ。十戒を覚えたくらいで、モーセはあまり役に立たなかった。彼がいなくても、アロンとヨシュアだけで事足りたようだ。


 シナイ山での契約が終わると、モーセはイスラエルを率いてカナンに向かう。途中、食糧不足と水不足に悩まされる。天使達はマナ(甘露)と水源を見つけだし、民は命をつないだ。民がマナに食べ飽き、モーセに苦情が及ぶと、もともと預言者になりたくてなったわけではない彼は、指導者の仕事は荷が重いので、いっそのこと殺してくれと主に訴えるまでになる。そこで主は鶏肉を用意した。


「さて、主のもとから風が起り、海の向こうから、うずらを運んできて、これを宿営の近くに落した(民数記11:31)」


 天使が声を出せるということは、空気を振動させる能力があることを意味し、風を吹かせることも可能なのだろう。クルアーン二十一章でも、アラーはソロモン王に風の起こし方を授けたそうだが、後世、ソロモン王は魔術師とされたので、嘘ではなさそうだ。


 残念ながらモーセは、カナンに到着する前に亡くなった。主がヨルダン川を渡らせなかったからだ。聖書の数字はそのまま信用するわけにはいかないが、数ヶ月もあれば到着する距離を、四十年もかけて移動したのは、主のモーセに対する嫌がらせだったのだろう。


 生前、カナンの地を見ることなく亡くなったテラは、以前から態度が悪く、肝心の十戒であまり役に立たなかったモーセに、自分と同じ悔しさを味会わせようとしたのかもしれない。だが、主はモーセが亡くなる前に、彼をネボ山に登らせ、カナンの地を眺めさせた。


「それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。しかし、その地に、はいることはできない(申命記32:52)」


 主はモーセが亡くなると、後継者ヨシュアにヨルダン川を渡るように命じた。

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