1-1 宇宙はコンピューターゲーム(3)

 事故直前のハルミは、彼女の夫に向かって、自分の力で道路をほぼ一定の速度でまっすぐ進んでいた。


 ニュートンの運動法則一。外から力が作用しなければ、物体は静止したままか、等速直線運動をする。そこに暴走車の衝突で、外部からの力が加わった。

 運動法則二。物体に力が作用すると、力の方向に加速度を生じる。加速度はその物体が受ける力に比例し、物体の質量に逆比例する。

 運動法則三。すべての作用に対して等しく、かつ反対向きの反作用が常に存在する。


 そういった原理に従い、彼女の体は空中を飛んでいる。衝突の力と向きだけではなく、地球からの重力と遠心力、空気抵抗。それら位置エネルギーと運動エネルギーが合成された結果が今の彼女だ。

 普遍の原則は変わらないはずだが、スローモーションのように遅く感じるのは、時間に絶対性がないということなのか。


 衝突は車との一回だけではない。次に地面や壁などと衝突するはずだ。彼女は空値抵抗をものともせず、空中を止まることなくゆっくりと進むのだった。

 後頭部が地面にぶつかった。それでもう終わりと思ったが、意識は途絶えることはなかった。目を開いたまま仰向けに倒れているのか、青い空と白い雲が見えている。その光景は、ロールスクリーンを巻き上げるように、ゆっくりと下のほうから消えてゆく。代わりに白無地の壁が現れた。


 ――何、これ? 幻覚?


 倒れたはずなのに、まっすぐ前を向いて立っている感覚がする。顎を引いて自分の体を見ると、さっきまで着ていたワンピース姿だ。白い床も見えた。

 彼女は周囲を見回した。一辺の長さが四メートルほどの立方体の中にいる。照明がないのに中は明るく、壁、天井、床、全てがシミ一つない完璧な白色だ。そのまましばらく白一色の世界を眺めていたが、前の壁に突然、巨大な映像が表示された。


 幼い頃すんでいた家。岐阜市市街地にある古くて小さな一軒家。結婚後すぐに、父が祖父の家の近所に借りたものだ。

 その縁側で、赤ん坊の自分を祖父が抱きかかえている。祖父は、「ハルちゃん、ハルちゃん」と言いながら、にらめっこのようにおかしな顔をして、赤ん坊を笑わせようとしているが、彼女は無表情だ。 


 シーンが変わり、三歳くらいの女の子が家の前の道で母親に追いかけられている。

「待て!」

「やだ!」

「つかまえた」

 幼児の脚力では大人に勝てず、彼女は母親に持ち上げられ、どこかへ連れていかれる。


 ――これって走馬燈? 第三者目線なのは近くから撮影していたってこと?


 六歳になったばかりの頃。弟が生まれたのをきっかけに、ローンでもう少し大きな家に住むことになった。同じ岐阜市でも郊外のほうだ。それからすぐ小学校に入学した。勉強は出来たが、運動はからっきしだめだった。

 授業で挙手している写真と、運動会のかけっこでビリでゴールした写真が交互に表示された。それも一年生から六年まで、各六枚ずつ。

 ――最新の手法? 映画みたいに編集してるってこと? 


 普通なら走馬燈の内容に夢中になるのだろうが、彼女は自分の過去よりも、どのような仕組みでこの現象が起きるのか知りたかった。

 映像は鮮明で、現実と見分けがつかない。脳に記憶された映像なのか。それなら本人の視点でないことがうまく説明つかない。


 彼女は前の壁に近づき、映像に触れてみた。すると、映像の中央付近に記号入りのボタンのようなものが浮き出た。


 横一列に並ぶ緑色の四角いボタン。テレビ番組を録画するハードディスクレコーダーの操作ボタンのようだ。ボタンは全部で十個あり、象形文字のような記号が記されている。左のほうから押してみると、停止再生、早送り、巻き戻しなどレコーダーと同じように反応した。

 ボタンだけではない。タブレット端末やスマートフォンのように、画面に指を触れたまま動かすと、映像全体がその方向に移動することもわかった。二本の指を映像に接触したまま、指の間を広げると拡大、狭くすると縮小するのもタブレットと同じだ。


 ――走馬燈ってソフトウェアだったんだ。考えてみれば、当然な気もする。ロシアの超能力者で、失踪者の写真と事件の日付をアクセスキーに、事件のビジョンを透視する女性がいるけど、彼女なりの検索ソフトを動かしていた。全人類の体験履歴データのなかから、写真で画像検索し個人を特定。日付を絞り込み、犯罪などのイベントがおきていないか、一日の体験を高速で読み込んで、該当箇所を映像で表示――


 ロシアの超能力者が事件の映像だけを透視するように、走馬燈の内容は、人生の主要なシーンに限定されていた。どういう基準でハイライトシーンを選んでいるのか知りたい。失踪や犯罪なら機械的に選択することが可能だろうが、走馬灯の場合は難しそうだ。誰か編集者でもいるに違いない。


 早送りしたので、映像の中の彼女は小学校を卒業し、中学生になった。進行が早すぎるので逆戻し。小学校低学年に戻った。下を見ると、映像のとぎれた端に十字型の記号が出ており、ごくゆっくりと右側に動いている。再生ソフトと同じように、早送りや逆戻しを使わずに、十字を左右に動かし、見たい再生位置に持っていくことができると推測。そこで体を屈めて、指先で十字を右方向に動かした。


 一気に高校時代までタイムスリップ。皮膚が若いことを除いて、今と同じ顔だ。受験生の頃など見たくないので、さらに先に。大学は希望校に合格でき、上京した。


 左から四番目のボタンを押すと仰天した。画面は文字で埋め尽くされている。文字は日本語やアルファベットばかりで彼女にも読める。その内容は曲の一覧だ。なかには知らない曲もあったが、ほとんどは聞き覚えのある曲名だ。これまでの人生で聴いたすべての楽曲がリストアップされているようだ。それも聴いた回数の多い順に並んでいる。


 ――走馬燈の最新バージョンはBGM選択機能搭載ってことみたい。個人ごとに走馬灯プログラムは異なるのか、それとも一斉にアップデートされるのか、どうなのかな?


 今は音楽は邪魔になるので、選曲を避ける。同じボタンが明滅していて、押すと走馬燈に戻った。

 五番目のボタンを押しても何も変わらず。


 その右。左から六番目のボタン。それまで人生の主要な場面だけ抽出して再生されていたが、このボタンを押すことで、実際と同じ進行速度で映像が展開する。

 彼女の場合、最初から最後まで見るのに、三十六年かかることになる。いかに自分の人生といえど、そんなものを延々と見せつけられてはたまらない。さきほど反応しなかった左隣の五番目のボタンが明滅している。このモードになって初めて選択可能ということらしい。


 押してみる。

 すると、視点が本人のものになった。

 本人の視覚をスクリーンに映しているのではなく、今ハルミがその本人になりきっている。それも視覚だけでないようだ。

 ――なにこれ? 過去に感じてた感覚をそのまま体験できるってこと? 


 今、彼女は十八年前の下宿のアパートに引っ越したばかりの時点に戻っている。部屋の隅に積み上げたダンボール箱を開け、当時はなんとも思っていなかったが、今では懐かしい品々を取り出し、指の感触まで感じている。

 木造アパートの前の道を往く車の音も聞こえるし、古くさい部屋の臭いもする。つまり、臭覚、聴覚、触覚までもが再現されているのだ。当時、感じていた感覚をそのまま再体験しているが、自分の意志で動くことはできない。過去の自分という乗り物を体感するアトラクションのようだ。


 イデアの世界で、過去の感覚データが記録として残っていたのか、あるいはリアルタイムで当時の感覚を再計算しているのか、それとも脳の記憶が蘇っただけなのかわからないが、娯楽としては秀逸だ。

 彼女は、しばらくの間過去の自分に戻り、当時の思考や感情を除いた引っ越し後の繁忙を再体験した。しかし、いつまでものんびりしてはいられない。こうしている間にも現実世界の時間は刻々と過ぎていっているに違いない。このモードではスクリーンがなく、ボタンを押せない。ここから抜け出る方法は?


 彼女は、無理に積み上げたダンボール箱のことが気になっていた。このままだと確実に崩れる。昔の自分はそれに気づかない。予想通り、一番上の箱が彼女の足の上に落ちた。

「痛い!」

 十八歳の彼女が声をあげた。

 同じように三十六歳の彼女も、

「何で二回も同じ苦痛を味わなければいけないの。勘弁してよ」

 と声を上げた。すると彼女は白い部屋にいた。声を出すことで戻るようだ。前の壁には、第三者目線の映像が映っている。


 七番目のボタン。映像全体が前方に移動する。八番目はその逆で後方。


 九番目のボタンを押すと、走馬燈から別の画面に切り替わった。縦に三枚、横に十枚、合計三十枚の人物写真が並んでいる。一番上は顔写真。真ん中は前から見た全身写真、下は後ろから見た全身だ。それが十人分横に並んでいる。

 映っている人たちはどうも多国籍で、しかも時代も異なっているようだ。一番右は彼女自身だ。その左は四十代と思われる白人女性。そのまた左は神父か牧師の格好をした白人男性。アラブ人女性、黒人男性……。左に行くに従って時代が古くなっているようだ。

 ――何、これ? ひょっとしてソウルメイト、魂レベルでつながった真の仲間? 


 最後の十番目のボタンを押すと、不思議な映像が映し出された。

 星の瞬く夜空? 水深の浅い夜の海中? 寒天? いや、ゼリーの海。


 一言で表現するのは難しいが、コーヒーゼリーの中にクリームの粒々がたくさん浮かんでいるような感じだ。黒みがかっているのでコーヒーゼリーと表現したが、それほど黒くはなく、全体的にきらきら輝いているようだ。


 その中でひときわ明るいのは、ミルククリームの粒のようにあちこちに浮かぶ球体だ。全部で百個はあるだろう。球ごとに大きさや明るさが異なり、球が光を放っているようで、球の周囲は比較的明るい。ゼリーは場所によって明るさが異なる。球体は静止しているのに、それ以外の部分は波が動いている。つまり光が絶えず移動している。画面のど真ん中にある球はひときわ大きくて明るい。


 彼女は適当に球を選んで、指先で触れてみた。何も変化はない。タブレットの操作で、画面を素早く二回叩くダブルタップのことを思い出し、その球に連続で二回タッチした。すると球は明滅した。選択されたということなのか。

 その状態で一番左の再生ボタンを押す。すると、土佐犬のような犬の走馬燈が流れた。すぐに停め、画面を戻し、中央の大きな球を同じように選択し、再生してみる。彼女の走馬燈の続きが流れた。


 間違いない。球は生命だ。また十番目のボタンを押し、ゼリーの画面に戻す。

 この世界を拡大するとどうなるのだろう? 

 彼女は、両手の人差し指をくっつけるように映像の中心辺りに触れ、勢いよく左右に動かした。タブレットより画面が広い分、急激に拡大できる。それでもかなりの回数を繰り返して、ようやくこの世界の量子らしき存在にたどり着けた。


 この世界も細かい粒子でできているようだ。だが、隙間だらけの素粒子から成る宇宙と異なり、立方体が隙間無くブロックのように積み重なっている。ブロックは光と闇の二種類。規則性はなくランダムに積み重なっている。光のブロックの比率が多いほど明るく、光は闇より比率が少ない。

 球の部分も見てみると、同じように二種類のブロックからなるが、光の比率が高い。画面をそのままにして、しばらく観察すると、部分的に光と闇が入れ替わっているのがわかった。入れ替わるというより、同じブロックが明るくなったり、暗くなったり変化しているのだ。特に球とその周辺の変化が激しい。


 光と闇の切り替わりはすごくデジタルっぽく、オンとオフ、つまり二進数の計算をしているようだ。AND、OR、NOT、XORなどの論理演算を行っているのかもしれない。

 彼女は、イデアプログラムデータ領域にアクセスしたのだろう。それもソフトウェアではなく、ハードウェア、つまり機械としてのコンピュータの次元だ。激しく変化している部分が演算部、いわゆる計算素子で、変化の少ない部分はデータ部分の記憶素子と彼女は推測した。球の周りが明るく、移動する光が多いのは、球と他とでデータのやりとりをしているからだろう。


 縮小して、右方向に移動してみる。注意深く映像を見ていたので、このゼリーの世界におけるいくつかの特徴がわかってきた。球は球でない部分より明るい。球から遠ざかると明るさが減る。球が光を放っているようだ。小さい球は暗いものが多く、大きい球は明るいものが多い。暗い空間ほど、そこに浮かんでいる球が小さく、数も多い。まるで悪い箇所にできたできもののようだ。


 いつまで進んでも、果てがない。方向を下に変える。ゼリーはどんどん明るくなる。その原因が判明した。超巨大な球体だ。他の球の数万倍の容積がありそうだ。神々しく輝き、いまにも爆発しそうな風船みたいだ。彼女は、たわわに実った果実を連想した。

 拡大してみる。どこもかしこも光と闇のブロックが半々の比率で、闇だけの箇所はない。全体がイデアのハードウェアで、その一部である球が生命とするなら、巨大な球は高度な知的生命体ということだろう。球は光を生産しながら、成長を続けるのだ。


 さらに先に進むと、球が光を生産するという仮説に矛盾するような現象に出くわした。球が全くないゼリー空間だが、異様に明るい。彼女は、さきほどの巨大な球体を思い出し、これは球が破裂して、中の光が周辺に飛び散った跡だと推測した。

 発生して成長するだけでは、ゼリー空間は球で一杯になるから、球はいつか消滅するはずだ。恒星だって超新星爆発で最期を遂げる。風船をふくらませ続ければ、破裂するように、球も成長の限界に到達すると爆発し、周囲の空間に光を拡散して消滅する。そうすることでゼリー空間に、光が供給される。

 光の供給。それこそが、球が存在する目的だろう。


 実際、超新星爆発が生物の進化に貢献したという研究もある。爆発により放射性物質が地球に到達し、生物の突然変異を引き起こした。イデアの領域で考えると、恒星に費やされていた膨大な計算資源が周辺にばらまかれ、一部が地球上の生物のシュミレーションと進化後の維持に使われたということだ。


 球、つまり生命は光の生産装置なのだ。光とは二進数のオン。計算、つまり情報処理に必要な要素。1ブロックは1ビット。ビット数が多ければ多いほど、計算能力が高い。有機コンピュータのようなゼリーは、自らを維持向上するためのエネルギーを必要としており、生命体がその生産を担っているのだろう。


 このコンピュータ全体が神であり、二進数の情報処理により、宇宙という仮想現実シュミレーションを運営し、神から分離した魂がその幻に浸り、盛んに反応することで、神が自らを維持発展させるためのエネルギーを供給している、ということなのだろうか。


 右方向と同じで、下も限界はない。どこまでも続く。また適当に球を選び、そこで九番目のボタンを押す。するとさきほど見た写真の一覧画面に変わった。

 今度はどれも昆虫だ。左から六匹は蝉で、残りはかぶと虫の仲間のようだ。画面の空白部分を指で押さえて右に動かすと、画面もそれに従ってずれ、左のほうから新しい写真が現れる。蝉がかまきりに変わり、それが六枚続き、それから蝶になった。


 ――わかった。これ、過去生一覧なんだ。昆虫も輪廻転生するみたい。ということは、自分の過去生だけでなく、かつて存在した全ての生物の走馬燈を見たり、その全体験の感覚を第三者が味わうこともできるということ。私の過去生はあの白人女性。興味津々――


 彼女は次々とその生命の過去生をさかのぼった。何百枚も前に戻していると、見慣れない生き物を発見。その顔写真(?)に振れてみる。すると、その生き物の一生のハイライトシーンが流れた。


 森のような場所。森の一角に卵の群れ。卵のひとつが孵化し、幼虫が中から出てくる。幼虫は数十体ほどの群れで生活し、植物を食べ成長していく。幼虫が育ち、写真の生き物となった。

 この状況でさきほどと同じようにボタン操作をすれば、その生き物の感覚を味わえるのだろうが、やめておいた。

 同種の生き物と交尾を行い、まもなく大型の昆虫のような生き物に食べられ、映像は終わった。短い一生が終わると、走馬燈は消え、白い壁に戻った。

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