弓張りの相聞

有海環

第1話

「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」

 時期外れの風鈴にかき消されそうなか細い声で、しかし滑かに、雅を感じさせるような言の葉だ。心地よい和歌の響きは、それを発した玉木先輩の薄く艶やかな唇とひと続きであるようだった。

 季節は秋。残暑が息を引き取って、木の葉が寂しく鳴く季節。

 地上をまさに射んとする弓張り月が夜空に浮かぶ中、僕らは今、和歌を詠んでいる。

 

 幼い頃から漠然と志望していた大学に合格した僕は、文学好きが高じて文芸部に所属した。この大学の文芸部は世間一般の文芸部よろしく、月に数度の読書会と、同人誌の製作を活動の中心にしている。

 文芸部と言っても、僕と玉木先輩と、幽霊部員が数人だけのとても小さな集団だ。もともと地方の県境という立地ゆえに生徒数もさほど多くなく、ましてや文学斜陽のこの時代に、文芸部になんて加入する好事家ほとんどいない。

 けれども僕は、何もそこまで文学に熱い思いを持っているという訳ではない。大学入学当初には、「苦しい受験も終えたのだから何か軽いサークルに」くらいの気持ちだったから、文芸部に入るだなんて全く考えていなかった。テニスサークルにでも入って、大学生活を謳歌しよう。そんな風に考えていた矢先に、僕は文芸部に、いや、玉木先輩に出会った。

「文学に、興味ありませんか?」

 背後から不意に、声がかかった。

 新歓活動のさなか、鮮やかな茶色に髪を彩り、ばっちりと化粧を施した今時の女の先輩たちからの勧誘を楽しんでいた僕は、左右のバラ色ハレーションに幸せな皮算用をしていたときだった。

 振り返ると、東風に揺られる短めの黒髪を片手で押さえた小柄な女性が、「文芸部」とゴシック体ででかでかと書かれたチラシを差し出していた。

「小説、よく読みますか?」

 目に入らんとする黒髪に必死で抵抗するように、彼女はそっと片目をつむった。決して意図的ではなかったのだろうが、その仕草が妙にいたずらっぽくて、僕は心臓がどきんと跳ねたのを感じた。

「私ね、明治初期の作家が好きなの。二葉亭四迷とか、夏目漱石とか、泉鏡花とか。あなたは好きな作家とか、いたりする?」

 綺麗だ、と僕は思った。

 答えるべき作家の名なんて山ほどあったはずなのに、僕は適当な一人でさえも口にすることは叶わずに、ただ温かな瞳を見つめてその場に立ち尽くしていた。。

 

 玉木先輩の存在は、僕が文芸部に入るのに充分すぎる理由だった。

 実は、僕も近代小説が好きだった。鏡花は高校時代に読み漁ったし、二葉亭四迷はまさに今読んでいる。漱石に至っては僕のバイブルになっている。いつか漱石の小説に登場するような女の子と付き合おう、それが僕の往年抱き続けた気持ちだった。

 玉木先輩は一つ上の学年の二年生で、専攻も近代文学、所属サークルも文芸部という、絵に描いたような文学好きであった。部員として新たに加入した僕は、他の先輩や同期には目もくれず、常に玉木先輩を目で追うようになっていた。

 幸いなことに、明治初期の愛読者は文芸部にも少なかった。だから僕と先輩が二人で会話をする機会は、必然的に他より多くなったのだった。授業が終わるとすぐに文芸部に足を運び、夜遅くまで玉木先輩と語り合う。観念小説や硯友社、博文館や予備門など、近代文学の黎明について、僕らはなんども論を交わした。それが僕の日常だった。

 大学生活の一年目はあっという間に折り返しを迎えて、気がつけば銀杏が暖かに彩り始めていた。

 

 その日も、僕らは夜遅くまで近代小説の始まりについて議論していたところだった。

「やっぱり、和歌をちゃんと理解できないとだめね」

 いつものように、言文一致の潮流を生み出した二葉亭四迷は云々とか、鏡花の文章は明治二十九年を境にかんぬんとか盛り上がっていると、唐突に玉木先輩が言った。

 近代小説のはじまりは特に、文語から抜け出す過渡期にあるから、古文、それも和歌のような複雑な表現技法を確実に理解できるようにならないと、作品の真の理解はできないとのことだった。

 確かにその通りだな、と思った僕は、安直に百人一首なんかを引いてみた。玉木先輩も同じことを考えていたようで、平兼盛が詠んだ歌を早速口にする。

「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」

 かつては「恋」を「孤悲」と書いた。誰かを思う気持ちというのは常に孤独でなくてはならず、人に気付かれてはいけない。それが昔の感性だった。そんな文脈の中で、「誰か好きな人でもいるんですか?」と人に尋ねられるくらいに、心に秘めた思いが顔に表れてしまった。そういう状況をこの歌は詠んでいる。

「昔の人ってさ、恋は独りでするもので、誰にも言わずに相手を思うことが美徳だったんだよね」

 本に目を落としたまま、玉木先輩は無邪気に言う。

「現代人には失われてしまった感覚だけど、それって素敵なことだわ」

 彼女は不意に顔をあげて、僕の目を見てえへへと笑った。

 千年前に平兼盛に尋ねた人間が今僕の目の前にいたなら、「ものや思ふ」と笑いつつ、僕も問われたかもしれない。

 僕は今、恋をしている。


 帰るのがあまり遅くなってしまってもいけないということで、もう二、三の歌を詠んで感想を述べあうと、僕らは帰宅の途についた。田舎の大学ゆえに下宿が限られているせいか、僕と玉木先輩は帰る方向が途中まで一緒だ。

 この感情に気づいたのはごく最近のことだけれど、今思い返してみると、初めて出会ったあの日から、すでに始まっていたのかもしれない。

 現代を生きる男なら潔く思いを伝えるべきなのだろう。けれど、玉木先輩のまとう空気は、現代的とは少し違う。だから僕は、それを言葉にするべきなのかよくわからず、二の足を踏んでしまうのだ。

「忍ぶれど——」そう歌をそらんじた優し気な瞳を僕は思った。恋とは彼女にとってひそかに思い続けることであって、誰かに、まして本人に伝えるべきことではないのかもしれない。

「何、考えてるの?」

 彼女の声で思考が途切れた。ふと顔を上げると、少しだけ前を歩く彼女が僕の顔を覗き込んでいた。

「さっきから、ずっと黙ってる」

 僕を覗き込む二つの瞳が、ふっと少しだけ優しく緩んだ。

 綺麗だ、と僕は思った。初めて彼女の目を見たときと全く同じ感想を、今も確かに持っている。

 りん、とどこからか風鈴の音が聞こえてきた。どうやら、学校の近くの民家に取り付けてあるらしい。夏の風物詩のはずなのに、秋に聞く鈴の音も、風流を感じさせる。

 玉木先輩の質問には答えずに、僕は雲ひとつない空に高々と浮かぶ月を見上げた。

 整然と並べられた街灯が闇夜を照らすせいで、星はあまり見えない。真っ暗な空にぽつんと取り残されたその姿は、まるで「孤悲」をしているように見えた。

「玉木先輩」

 自分のものとは思えない、蚊の鳴くような、かすれた声が出た。なあに、と屈託のない笑顔で玉木先輩は僕を見やる。

「月が綺麗ですね」

 月から視線を離さずに、僕は言った。

 千年前の日本人なら、なんと表現したのだろう。僕の遠い遠い、ご先祖様のそのまたご先祖様は、この気持ちを伝えるときにどんな言の葉を紡いだのだろう。

 玉木先輩は、歩を止めた。

 僕は三歩先を進んでから、ゆっくりと振り返った。

 街灯に隔てられた闇に佇む僕らは、今この瞬間、きっと世界の理から外れた場所に生きているのだろう。それは肉体だったり物質だったり、無機質さだったり惰性だったり。はっきりとはわからないけれど、そういうものは無縁な世界のはずだ。暗闇の中には、隔絶された二人だけの世界が確かに存在した。

 月によってうっすらと照らされた玉木先輩は、僕を見ているのか、後ろにある「孤悲」の姿を見ているのか、ただまっすぐに正面を見つめていた。

 どれくらい時間が経ったのだろう。

 風鈴が遠くでまたりん、となった。

 月のせいかもしれないけれど、玉木先輩の顔が少し火照っているように見えた。

 僕らは何も言わずに歩き始めた。どちらからともなく横並びになる。

 街頭の合間、等間隔に置かれた暗闇を抜けると、再び光が僕らを照らした。

「……死んでもいいわ」

 玉木先輩が言った。

 決して戻ることのできない千年前を、僕は思った。

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