峻別の王Ⅶ

「うーん、もうちょっとだと思ったんですけど」

「あれのどこがですか?」

 私にはわかるんですよ、とフィニーはくすりと笑った。

「あの様子なら少なくとも明後日の試験には出るだろうな。その後はまだわからないが」

 シェイドもフィニーに同調するように呟いた。竜也にはまったくわからないが、タナシアのあまのじゃくは二人にはとうに理解されているらしい。

「とはいってもやはりこちらとしては人間についてどう思っているのか、口に出して欲しいところですね」

 どこからともなく紅茶を取り出してフィニーは甘くなった口をなだめる。竜也もそれにならうように差し出されたカップに口をつけた。

「後の一押しはお前の役目だぞ」

 シェイドが竜也を射抜くように見つめる。思わず背筋を振るわせた竜也の紅茶の水面がわずかに波打った。

「何で俺が」

「お前のためにタナシアに試験を受けさせる。なら参加させる努力をすべきはお前だろう?」

「そりゃそうだが」

 それなら上司の無気力を注意してくれ、と思ってしまう。また場の勢いに任せて無意味な仕事を割り当てられているだけのようにも思えた。何か言っておかないと、と考えた頭にフィニーの嬉しそうな声が飛び込んでくる。

「そうですか! 竜也さんにお任せすれば大丈夫ですね」

「いや、何を根拠に……」

「それでは私たちは帰りましょう。後のことはお任せしますね。あ、タナちゃんのお部屋はこの廊下を行った先の左側ですよ」

 竜也に何かを言わせる前にテーブルの上に合った山のようなお菓子の包みがゴミと残りに分けられていく。きっちりと三等分してフィニーとシェイドがそれぞれに自分の取り分を腕に抱え、白いテーブルには竜也の取り分だけが残された。

「それでは」

「よろしく頼んだ」

「あ、ちょっと」

 あからさまに逃げるような早足でタナシアが消えていった廊下とは違う方に駆けていく。運動不足そうな主と違い、段差に足を捕られるようなこともない。今は魔法陣が消えているから走れば追いかけられるが、そんな気分にはなれなかった。

「なんなんだ、一体」

 ここに来た途端に何故これほどまでに信頼を置かれるのか。竜也はその答えがわからないまま、残されたお菓子の山から一つせんべいを取り出した。現代社会の典型のような核家族の一世帯の家で、お菓子はたいてい贈答品のクッキーやらパウンドケーキやらが多かったせいか妙に焦げた醤油の香りは特別感があった。

 自慢ではないが、人間として一高校生として生活していた頃は期待どころか小さな頼みごとも滅多にされなかった。

 面倒事を頼まれることもないが、重要な役を任せられる喜びもない。スクールカーストの中の下というのはそんなものだ。

 ひたすらにクラスの空気と一体になりながら下の人間と入れ替わらないように立ち回る。ただでさえ竜也は天使の存在を信じている妄想癖があると周りから思われているのだ。それについて弄られたことも少なくない。顔に仮面を貼り付けて道化を演じ、本音を隠すことでどうにか空気の位置にしがみついていられる。標的となってしまえば簡単には覆らない。

 いや、あるいは既に竜也は標的に落ちていたのかもしれない。ぼんやりと死を選んでしまいたくなるほどには心を使い切っていたのだから。

「そう考えればここは居心地がいいな」

 タナシアは竜也が天使の存在を信じていることを知っていた。恐らく他の二人も、それからイグニスとキスターも知っているはずだ。それでも貶すことなく竜也と向かい合ってくれる。それはもしかすると天使の存在以上に竜也が欲していたものかもしれない。


 いつの間にか眠ってしまっていたらしかった。空の色が変わらない天界ではそこからどのくらいの時間が経ったかをうかがい知ることは出来ない。

『タナちゃんのお部屋はこの廊下を行った先の左側ですよ』

 ふと先ほどに聞いたフィニーの言葉が思い返される。

「行って、みるか」

 行ったところで何か言うことが見つかっているわけじゃない。出会い頭に追い返されるかもしれない。たださっき眠りに落ちる前に思ったことが本物か。それを竜也は知りたかった。

 ベッドから体を跳ね上げる。もうここに来てから二日以上は時間が経っているだろうが、体に少しも汗が滲まないことに違和感を覚え始めた。そもそも体は人間界に置いてきているのだから当然なのだが、汚れない体がこれほど不安を煽ってくるなんて思ってもみなかった。

 シャワーを浴びたい、と竜也はふと思う。新作のゲームやアニメのDVDボックスを買ったときにはそのわずかな時間すら惜しむというのに、今はあの体にこびりついた何かを洗い流すものが恋しかった。

 真っ黒な空と対照的な白い石畳の上を歩いていく。この色が途切れたら、たとえ辿り着かなくても引き返そう、と竜也は心に決めた。今日イグニスとキスターに連れられていった真っ黒な床は思い出すだけでもすぐにも奈落に吸い込まれてしまいそうだ。この古城のようなレンガの壁も向こう側にはただ黒の空間が広がっているだけ。フィニーの話を聞くにそういうことだろう。天界の全体がどのような形を為しているのかは竜也にはわからないことだが、この壁もどこかの空間を仕切っているだけのものに過ぎない。

 音のしない石畳にようやく慣れてきた頃、まだ続く廊下の左手に確かに扉が見えてきた。真っ黒な窓のような小さなものではなく、きちんとドアノブのついた竜也が見知った扉だった。

「これ、か?」

 誰もいない空間に問いかける。もちろん答えは返ってこなかった。

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