海霧の街

たれねこ

海霧の街

 海霧という気象現象をご存知だろうか?


 字面の通り、海で発生する霧のことである。さらに掘り下げ、気象学における広義の海霧の定義は、『暖かく湿った空気が、冷たい海面に接することで生じる霧』のことである。

 夏に東北から北海道の太平洋沖で寒流の影響で霧が発生することがある。これが広義の意での海霧の代表例である。

 しかし、冬に海霧が発生する地域がある。冬の海霧の発生条件は先ほど説明したものとは真逆で、『湿った空気が放射冷却によって冷やされることで生じる霧』なのである。これは、兵庫県の竹田城が天空の城と呼ばれる所以となっている雲海の発生条件と同じだ。

 話を戻して、冬の海霧が生まれるメカニズムを分かりやすく説明すると、水温より温度の低い空気が水面上に流れ込み、水蒸気が生じて霧が生まれるというものだ。

 夏と冬に発生する海霧の違いは、空気と水面のどちらの温度が高いかということにある。


 そして、ここからが本題。僕の住む広島県三原市は冬に海霧の発生する地域であり、その名所でもある。

 三原の海霧は風がなく、よく晴れた、冷え込んだ日の早朝に発生することが多く、条件が整うと沼田川河口や瀬戸内海に面する三原沖で湯気が立ち上るように霧がかかる。見られる季節は晩秋から冬で、秋の川の水温がまだ比較的高い時期に発生すると、川で発生する霧も加わり、街中が霧に包まれたのではないかと錯覚するほどの霧に覆われる。

 瀬戸内海国立公園に指定されている筆影山は海霧を観測、撮影するには絶好のスポットとして知られている。海霧を撮影しようとする写真愛好家は、日が登らないうちから集まってきて準備をしてカメラを構えている。

 そして発生した海霧は、冬の朝日に染まり、霧の合間に見える海も朝日を受け柔らかな光を反射させる。また、雲間から太陽光線が放射状に降り注ぐと美しさを増し、どこか神々しさすら感じる。それだけでも幻想的な風景なのは間違いない。

 しかし、まだ続きがあるのだ。その美しい濃霧の中を多数の船舶が渡航している様がまた情趣に溢れたもので、思わず時間を忘れて見入ってしまう程だ。


 しかし、僕個人のベストスポットは筆影山ではない。

 そこは僕が個人的に好きな場所で、海霧やその中を渡航する船が別段綺麗に見えるわけではない。

 その場所は、広島県南部の呉市から三原市にかけて海沿いに東西を結ぶ国道185号線の、広島市方面から三原市街に向かう片道2車線道路に道幅が広がる少し前にある小さな稲荷神社だ。

 その稲荷神社は国道沿いにあり、小さな社までの僅かな距離を小さな4つの鳥居が連なっている。さらには国道を挟んで海側、堤防の向こう側に少し大きな鳥居が建っている。

 僕は幼い頃から、その鳥居が海から社に続く神様の通り道に思えて仕方がなかった。

 けれど、後々鳥居というものは神域と俗界を区画する結界であり、一種の門のようなもので、神様の通り道ではないのだと知った。

 だけど、それを知った今でも、僕には神様の通り道なのだと強く思っている。

 事実を知ってもなお言い張るのには理由がある。

 それはまだ3歳くらいの幼いころ、両親に連れられ筆影山に初日の出を見に行ったときのことだった。自宅から筆影山の山頂付近の駐車場まで車で登り、日の出を待った。

 その日も海霧が出ていて、太陽の光が差し込みだし、次第に明るくなり霧を染めていく。父の背中越しに見たその光景は幼い僕の目を釘付けにし、少し前まで限界ギリギリだった眠気を吹き飛ばした。

 それからあまり長居することなく僕達は下山した。しかし、気持ちが高ぶった僕はまだ帰りたくないとごねて、家に帰ってからも不機嫌だった。母は同居する祖母と料理で忙しく相手にしてくれず、見かねた父が散歩に連れ出してくれた。

 父と海沿いの国道を、少し高くなった朝日に照らされた霧と海を眺めながら歩いた。そこで行き着いたのが例の稲荷神社だった。父は「ついでじゃから、初詣しよう」と言いだし、鳥居をくぐりお参りをする。僕も見様見真似で手を合わせお参りをした。

 そして、父に「家に帰るぞ」と手を引かれ、連なる鳥居をくぐる。最後の一つをくぐり終えたとき、海の方に建っている少し大きな鳥居から海霧と一緒にスーッと何かが通り、僕と父の横を通り過ぎ社の方に向かう。はっきりと見えたわけではないし、そんな感覚があっただけで、ただの勘違いかもしれない。しかし、僕は確かに正月の肌寒い空気の中で、ふわっと穏やかで温かい何かに触れたのだ。

「ねえ、今のあたたかい風みたいなのなあに?」

「風? 風なんて吹いてないじゃろ? それより早く家に帰って温かい雑煮食べような」

 父は取り合ってくれず、どこか腑に落ちない気持ちで家路についた。家に帰り、母にも神社で温かい風のようなものを感じたと話しても信じてもらえなかった。

 でも、そんな僕の話をただ一人祖母だけは信じてくれた。そして、「きっとそれは海の神様じゃ」と優しく教えてくれた。僕はその時は、神様がどんな存在か理解できていなかったが、とても嬉しい気持ちになった。


 それから僕は、度々稲荷神社に足を運んでいる。特に、秋の終わりから冬の海霧の出る季節は、あの日出会った何かにまた会える気がして、早起きして行っている。

 しかしあれ以来、僕はその何かと出会ってはいない。その正体が海の神様だというのは祖母の優しい嘘なのかもしれない。

 それでも、僕は海側に立つ少し大きな鳥居から覗く瀬戸内海の、柔らかい朝日に照らされながら沸き立つ海霧の中に、神様が隠れているのかもしれないと思いながら、目の前の光景に今後も胸を打たれ続けていくのだろう。

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