Side〝T〟-1 Land Of Free?

 

 少女はベンチで目を覚ます。目を開けても暗いので、手で空を探ると、とつぜん視界が開けた。

 彼女が眠っていたのは木漏れ日の下、熱気を帯びた公園の一角にあるベンチだった。大人三人が座れるアルミ製ベンチのうえに横になっていた。膝を曲げていたので太ももがあらわになっていた。黒いワンピースの裾を押さえつけて上体を起こし、地面を見る。視界を遮っていた一冊の古本が芝生のうえに落ちていた。

 

 本のタイトルは〝狂気の歴史〟とあり、ブックカバーはない。

 少女はそれを一瞥しても拾うことなく眉間を揉み「家じゃあ、なかったのか」と独りごち、黒いワンピースのポケットを探った。

 赤いマルボロ、百円ライター、A6サイズのメモ帳、ボールペンがある。メモ帳を開けると一日の出来事が一ページでくくられていた。最も新しいページを探していく。


『八月一日。真幌まほろ市に到着』

 そのページを読み進めると、途中から文字が丸くなっていった。

『大通公園でじゃがバターを食べました。美味しかったけど、一個のおイモに三百円って、なんかビミョーですね。焼きトウモロコシは丸ごと一本で、六百円だって。明日、買っていいですか?』

 

 次から少しインクの擦れた文字が荒っぽく書きなぐってある。

『いいわけないでしょうが。せっかく稼いだ有り金をすっからかんにして。猟のバイトでも探すわ。明日は東へ、狩人探し……ハンター・ハント』

 

 ここでページがかわる。八月二日は荒っぽい文字ばかりが目立った。

 少女は一旦、己の左手を見る。小指の外側が汚れていた。

 

 八月二日のページには〝バイト探し失敗、猟友会ファック〟という文句から始まり一行で別の話題にかわっていた。

『マホロジョシってとこで、なんか事件があったらしい。だからか、他所モンに冷たい。でもメディア報道が薄いんだよね。警察のお世話になるかもしれないんで。オレなりに調べてみるわ。当分、変わらないんでヨロシク』


 少女は八月三日のページから八月六日までのページを読みふけった。テレビやラジオでの報道、新聞の記事、市民の反応など事件について書かれていた。

『一切の金を使わず得たもので信憑性に欠ける』と五日のページは締めくくられていた。

 六日のページは一行だけで〝午後一時、古本拾ったが腹減った。疲れたから大通公園で寝る〟と書かれていた。残りは空白だった。


 噴水が上がり、きゃあ、と歓声が上がる。少女はそちらを見る。引率された児童らが舞い上がる水しぶきと虹を見ていた。アーチを描く虹の奥にはビルが見える。

 

 真幌の建物は高さがそろっていた。大きなビルでも六階建てぐらいで突出したものが一つ、遠くに二つ、三つ……と数えられるほどだった。ほぼ横一文字に並んでおり空もいっぺんに視界におさまった。

 

 とあるビルの壁はテレビ番組を映しており、午後四時というテロップがでかでかと映し出される。すぐに午後のワイドショーが始まった。

 

 少女はぼんやりと眺めていたが、スクリーンまで距離があり司会者の声は雑踏に紛れ、わからない。

 

 昼の太陽が急に消え、ぽつぽつと雨が降り出した。少女は児童らに混ざり駆け足で公園を出て行く。児童らを追い越す途中、マルボロを公園に落とした。

 拾わず走った。引率の女性に注意されつつ飛び出た。

 公園と外界を隔てる柵を超える。二車線道路だった。少女は歩道を走った。


 #

 十分、走っていた。雨宿りできる場所が見当たらなかった。走れども庇が無い飲食店ばかりだった。

 

 ホテルはボーイやタクシーが占拠していた。

 

 走り続けやっとで見つけた店は、二つ石段の上に扉があり、壁から引っ張り出す簡易庇が出ていた。首筋に当たる雨粒を払いつつ、少女はそこに避難した。


 手ぶらであったので、カレッジ風の木製扉の横に立つだけだった。扉には小窓があった。覗いても店内はわからないが、店員が来る音も無い。素手で首を拭き、髪をゆっくりと撫でた。

 髪の毛は肩まで伸びていた。黒いワンピースは肩と、腰のベルト部分から下がひどく濡れていた。膝下の裾を手で絞ると雑巾のように水がたれる。両手がじっとりとなり指先からも雫が落ちる。


 ぽろん、という音がした。

「いらっしゃいませ」

 背の高い、小麦色の肌をした青年が店から出て声をかけた。少女はワンピースを絞るのを止めてポケットの中からペンとメモ帳を取り出し、さらに裏地も引っ張りだす。

「サービスドリンクをやってるから。ここの夕立はやっかいだよ」とその青年はいう。開いているのか閉じているのかわからないほど細い目だった。口調は軽快だった。

 白いセダンが道をつっきり、アスファルトに溜まった水たまりから水しぶきをはねあげた。少女にはかからないまでも、二台三台と通り抜け歩道へ雨水を飛ばしていく。歩道に人はいなかった。

「無料なら……禁煙席で」

「はい。どうぞ」

 少女が店内に入ると、店内に客はまったくいない。全面フロアリングでウッドハウス調の店内は照明がついておらず、薄暗い。

 目の前にレジがあり「ここから右は喫煙席、左が禁煙席」と青年はレジ下をくぐって、カウンター内に入った。この古びたレジが置かれてある木製のカウンターテーブルは禁煙席に向かって直角に曲がっていた。少女がそれに沿って歩くと、店の壁際に小さな白いピアノがある。流れる音楽がラジオやオーディオではなく、店の奥におかれたピアノが勝手に奏でている。少女は席に座らず、上がり下がりする鍵盤を眺めていた。

「珍しいかな?」

「うん。とっても」

 青年がトレイに乗せたドリンクを持って来て、少女の背に声をかける。少女はカウンター席に座り、左にピアノ、右にドリンクを置いてもらった。

 

 ピアノが奏でる曲はクラシックの名曲ではない。和音が多く、速い。そして延々と同じフレーズを繰り返している。

 

 サービスドリンクの液体は青く、グラスの底に向かうにつれて白みを帯びていた。ストローで軽く混ぜると青と白、中間色の液体が絡まり合い、それぞれの色を保ちつつ流動した。ピアノの旋律と同じく、やがてもとの色彩に戻った。ストローで一口だけ飲むと、少女の口から「なるほど」と笑いがもれた。


 青年はカウンター席から離れ、少女の後ろ、窓際の席に座って外を眺めていた。少女も青年と同じ方向を見る。

 大きい窓ガラスの隅が曇っていた。外は雨模様だった。

「ここからボクを見つけたのかい?」

 青年は視線は外を見たままで、そうですよという。

「キミ、地元じゃないよね。関東から?」

「よくわかったね」

「俺は群馬から来たんだ。似たような空気を持ってるなって。美人だし、見とれていたら、困っていたみたいで」と言葉をきって、青年は頭を掻き少女に顔を向けた。鳶色の瞳が見えた。

「ごめん。群馬なんて田舎だろ」

「田舎かどうかなんて県名だけでは判断できない」

 少女はグラスを持ってまた一口飲む。するとまた笑いがもれた。青年は、よかったという。

 二人は窓に視線を戻す。

 ピアノは延々と曲を繰り返す。


 #

 夏の夕立がひどくなる。人は通らない。だんだんと店内より薄暗くなっていき、ぽつぽつと道路の向こうにある店が灯りをつけていく。

 少女は時計を探したが、店内に見当たらなかった。

「今、何時かな」

「午後五時、十三分ぐらい」

「よくわかるね」

 席を立ち青年は数歩、歩いて同じ曲を繰り返すピアノの前に立つ。青年の腰ほどのピアノを指さし「こいつでわかるんだ。曲がちょうど六分。店を開けたのは午前九時だから」と指を折って数を数えはじめる。


 解を出したのは少女だった。

「今日、八十二回目の演奏が始まって一分経ったわけか。人間にできる仕事じゃあないね。経済的かどうかは、疑問だけれど」

 少女はグラスをカウンターに置き、前かがみになってピアノを見る。

「他人との会話は苦手だし、自動演奏も気味の良いものではないのに……何故だろうね。落ち着くし、饒舌になる」

 青年は、でしょうねという。

「音楽は不思議なもので、飽きるまで聴き返す。一回、二回で飽きるものは、作り手もそれでよしとした曲なんだろうな。百回、千回でも飽きないものは飽きさせない。この曲がそう。魅入られた人はここでゆっくりできるし、話もしたくなる」

 青年は、ついでにお食事はどうですかと尋ねる。少女は返事をしなかった。じっとピアノを見ていた。

 同じパターンで動き、メロディも変わらない自動ピアノを、少女は見て、サービスドリンクを時折飲むだけ。


 #

 青年が注文とピアノ以外のことで口火を切ったのは、店の外が車のライトや建物から漏れた明かりなど、人工的な光であふれる頃だった。

「キミ、名前は?」

「さあ?」

「失礼だけど、いくつ?」

「さあ?」

 少女の顔は窓の外からピアノに動き、ほとんど減っていないドリンクから青年へと移していった。青年はカウンターの中でグラスを磨いていた。客はいなかった。

「冗談ではなくて」と少女はいう。

「名前も年齢も定かではないのさ。十六歳は超えているだろう……ほとんど病院で育った。もちろん戸籍はあるけれど、出生があやふやでね。ボクの性格上、あいまいな事柄は、あいまいに答えたくない。考えだしたらしつこいから」

「頭が回らない?」

 磨いたグラスを逆さにし棚に置き、青年は引き締まった腕を組み少女を見る。少女は右肘を立てて、その手に右頬を預けた。

 左手でストロー軽く動かし、歪む色彩を眺めて息を付く。色がもとに戻るのを確かめると、少女は口をゆっくりと開いた。

「この音楽は飽きないね。こちらは飽きたけど」

「メニューに加えたいけど、だめかな」

「酒に興味ないからかな、よくわからない」

 あちゃーと青年は笑った。少女は口の端を緩ませて店内を見渡しながら腕をさすった。

 青年が冷房をきりましょうかという。少女はきっぱり断って、話をふった。

「あなたの名前は?」

「俺は――です」

「うん?」

 少女が聞き返すと青年はもう一度、名前をいう。

「俺は――です。歳は二十六」

「そう……十も上か」

「見えないかな」

「うん。若いよ」

 少女は指先でドリンクのグラスをはじいて席を立つ。

 演奏を止めないピアノを眺めながら少女はいう。

「次はまともなもの……コーヒーを飲みたい。いつになるか、わからない。ずっとこの席を開けておいてほしい。いいだろう?」

「そりゃあもう。反省としてずっと開けておくよ。他のお客さま、未成年を酔わせることもしません。いつまで?」

 少女は口の端を釣り上げて、青年に向いた。

 青年の首が少し左に傾く。

「飽きるまで」

 少女は店を出た。外にはサラリーマンや学生などが歩いており、車の騒音に負けず笑い声が響いていた。


 #

 少女はメモに店の住所を書きながら、息を吐く。

 ポケットにメモとペンを押し込める。

 髪を縛る二つの紐をほどき、少女は束ね直す。

 右前髪を垂らし右目を隠すと、少女はゆっくり歩いて行った。


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