亀の恩返し

千里温男

第1話

 わしはヨタリヨタリと千尋川の河川敷を歩いておった。

そんなとこ歩きたくはなかったのじゃが、嫁が

「おじいちゃん、少しは外へ出ないとボケちゃいますよ。千尋川の河川敷公園にでも行ってらっしゃいな」と言いおってな。

わしはボケてはおらん。

ただ、どういうわけか最近ちょっと言葉がはっきりしないんじゃが…

ともかく、嫁が怖いんで、仕方なく散歩に出たというわけじゃ。

なんせ、その時、嫁はリンゴの皮をむいておってな、大きなナイフを持っておったんじゃよ。

 日曜日で天気が良かったせいかのう、中流の田島橋のあたりは人がいっぱいじゃった。

子供たちはキャアキャア騒いでおるし、若いカップルどもはいちゃいちゃしておるし、おまけに、ろくに前も見ないで歩きおって、わしにぶつかってくるのじゃ。

うるさいやら目の毒やら危ないやら癪に障るやら腹が立つやら、とてものん気に歩いてはおられん。

それで、人気(ひとけ)の無いずっと下流の大恵橋の方まで歩いて行ったのじゃ。

 大恵橋を過ぎると、もう人は、わし一人だけじゃった。

空は果てしなく青く、白い雲が浮いておって、風もほんのり吹いておったよ。

陽射しが気持ちよくてな、甲羅干しでもしたらさぞ心地よかろうと、しばし佇んでおったんじゃ。

 するとな、すすり泣きのようなものがかすかに聞こえて来るのじゃ。

どうも空耳じゃなさそうなんじゃ。

両耳の後ろに手をあてて音のする方を探って行くとな、人の背丈ほどもある草むらの中で、黒っぽい灰色のえらく大きなトカゲのようなものが両手で顔を覆ってシクシク泣いていたんじゃ。

はてこんな動物おったじゃろうかと、わしはジロジロ眺めておったよ。

気配を感じたのか、そいつがふいと顔を上げてわしを見たんじゃ。

よっぽど驚いたんじゃろう、

「キキキキ」と悲鳴を上げて逃げようとしたんじゃよ。

ところがの、丈の高い草がびっしりと生えていて、逃げることができないんじゃよ。

それで、そいつは草の根元にへたりこんで手で胸を隠して震えておるんじゃよ。

 わしはかわいそうになってな、

「怖がらんでもええ。わしは花咲か爺さんから十代目の子孫で正直爺さんという者じゃ。

なぜ泣いているのか言うてごらん、力になれるかも知れんでの」と言ってやったんじゃよ。

そうしたら、そいつがこんなことを言ったんじゃよ。

 -- 実は私は竜宮の使いのタイマイです。お使いが早く終わったので、この陽気に誘われて、ここへ寄り道したのです。

岸に上がってみますと、よくお日様が照っていて風も爽やかなので、つい甲羅干しをしたくなりました。

それで、甲羅を脱いで干しながら、傍で日光浴をしていたのです。

あまり気持ちいいのでうとうとしていますと、突然、人の気配を感じたのです。

慌てて飛び起きたものの、甲羅を着る暇も無くて草むらに逃げこんだのです。

草の隙間から見ていますと、あまり人相の良くないお爺さんが現れて、

『おお、こんな所にタイマイの甲羅が落ちておる。きっとたくさん鼈甲が取れるに違いない』

そう言って、私の甲羅を持って行ってしまったのです。私は甲羅が無ければ竜宮城に帰ることができません --

それだけ話すと、タイマイはまたシクシク泣くのじゃよ。

 わしは、タイマイをなだめなだめして、甲羅を持って行った爺さんの人相をよく聞き出したんじゃ。

そうすると、甲羅を持って行った奴は、隣の意地悪爺さんに違いないんじゃ。

わしはタイマイに、甲羅を取り戻してやるから草むらに隠れて待っておるように、と言い残して我が家へと急いだのじゃ。

 我が家に戻ると、嫁の目を盗んで一升瓶を2本持ち出して、隣の意地悪爺さんの家へ行ったんじゃ。

意地悪爺さんは、思いがけなく甲羅を拾ったんで、一儲けできると思って前祝の酒に酔っていたんじゃ。

そこへわしが2升も持って行ったもんじゃから、すっかり酔いつぶれて寝てしまったんじゃよ。

 甲羅は床の間に飾ってあったんで、捜す手間は無かったよ。

甲羅を取り戻して、それお背負ってタイマイの待っている所へ持って行ってやったんじゃがね、意外に重くて一汗かいてしまったよ。

わしが甲羅をかついで来たのを見ると、タイマイはよっぽど嬉しかったんじゃろう、草むらの中から飛び出して来ての、

まだ下ろしてもいない甲羅の中へもぐり込もうとするんじゃよ。

「これこれ」

そう言いながら、わしは甲羅を下ろしてやったんじゃ。

タイマイは、もう無我夢中で甲羅の中に潜り込んでしまいよってな、

やがて、頭、両手、両足、しっぽを出すと、わしを見上げて言いおった。

「ほんとうにありがとうございました。なんとお礼を申し上げて良いのやら…。もし、お望みなら竜宮城へご案内いたしましょう」

「いや、わしは正直じいさんじゃで、浦島太郎ではないんでな」

「でも、お礼がしたいのです。何かお望みはありませんか?」

「昔から『亀は万年』と聞いておるが、人間にはきっと無理じゃろうなあ」

「まあ、『かめまんねん』をお望みですの。そんなことでしたら、わけありませんわ」

そう言うと、タイマイはついと立ち上がって、いきなりわしにキスしおったんじゃ。

それから、

「では、いつまでもお元気で」と言い残して、千尋川を海に向かってスイスイ泳いで行ってしまったんじゃ。

 だからの、わしは、この年になっても、スルメでも煎り空豆でも『噛めまんねん』。

(おわり)

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