帰郷

菅野 樹

第1話

 雨が止む気配はない。おかげで今日のランチの営業は、なんの粗相もなく無事に終わりそうだ。シンクに溜まった皿とカップを今から相手にしなくてはと、僕はシャツの袖をまくる。その時、築四十年のビルが震えるほどの地響きと、何か倒壊するような物音がした。思わず勝手口から飛び出してみると、道を挟んで駅に近い雑居ビルに、深々と重機の爪が突き立っているところだった。思わず小さく息を吐いて、店に戻る。

 福岡市の東にあるこの町は、もう半世紀前から再開発の計画があった。「点と線」とかいう推理小説の舞台になった町で、僕が子供の頃は、まだまだ町が華やかで、反対する商店主達が多く、計画は一向に進まなかった。それが、ここ五年、町は一気に形を変えていた。

 再開発、という破壊に晒されて、この町はいまや爆心地のようだ。僕の店はかろうじて区画整理に掛からなかったけれど、昔からあった商店はとうに消えてしまった。バス通りに面した嵌め込みの硝子窓から、遠く開けた青空が見える。去年までは小さなビルや店がひしめいていたはずなのに。地方創世? この姿を見る限り、僕は口元を苦く歪めることしかできない。

 みんな、何処に行っただろう。

 あそこの通りには、商店街があった。五十メートルほどの通りを歩けば、何でも揃う場所だった。金色のフルートをショウウインドウに飾る楽器店、そういえば、妖しげなキャバレーもあった。パチンコ屋も軒を連ねていた。何処か猥雑な雰囲気もある、ごった煮みたいな町だったのだ。

 また、ばきばきと派手な音がする。工事会社に、せめて破壊行為が見えないように工事場所を囲ってくれと頼もうか。壊され、更地になっていく姿を僕は毎日眺め、その度に、そこにいた人達を思い出す。

 ――なんとも、賑やかだな。

 のんびりとした声に、驚いて振り返る。細長い店の奥、四人掛けの席に、見知った顔があった。リキオとあだ名で呼んでいた、懐かしい奴だ。もう別れて十年は過ぎているはずなのに、若やいだ顔に笑顔を浮かべている。

「何処から入った?」

 驚いて僕が言うと、リキオはにかりと笑った。

 ――しけた街だと言ってたくせに、店を継いでいるとは思わなかった。

 リキオは言い、バーボンとのたまった。些細なことで、喧嘩別れをした。理由はもう忘れてしまった。だがお互いに連絡を取り合うことは、出来なかった。

「しけた街になんのようだよ」

 僕は言い、薄く笑うと、武骨なグラスに指二本分のワイルドターキーを注いでやる。黙ってテーブルに置いて、カウンターに戻ると、愛想がないなとリキオはごちる。

――もう一度見ておきたかったんだ。

 家出同然に消えたくせに、リキオは淡々と答える。僕はふんと鼻をならした。

「この町で育った。この町に残ることを選んだ、だから、全部見て、忘れないようにする」

 僕が食器を洗いながら呟くと、キリオの声が覆い被さってくる。

――不滅の人間がいないように、町もいつか死ぬ。

 わかっている、知っている。リキオはかつての自宅があった場所を、ぼんやりと眺めているようだった。駅前で洋服屋をやっていた彼の両親は、今はもう店をたたみ、何処に移ったのか僕は知らない。

「それでも、そこで生きたい人はいる」

 僕が返すと、ああと明るい声が返ってきた。戻れてよかった、リキオの呟きが気になり姿を求めれば、彼の姿は薄くなり、奥のレンガ壁に溶け込みそうだった。掴んでいたグラスが滑り落ち、硬い音で割れた。

――此処にいてくれて、ありがとう。俺、いくから。

 そんな声と共に、リキオの姿はゆうらりと輪郭を留めなくなり、やがては消えてしまう。グラスに入ったバーボンが、差し込む陽の光に琥珀色を放っている。馬鹿野郎、と呟くとその光を目で追った。


 店を出ると、ポーチに置いたテーブル席に腰かけた。リキオと通った小学校が、道の向こうに見えていた。下校時刻になったのか、ランドセルの子供たちがそれぞれの背中を追いながら、真新しいアスファルトの道を走っていく。

 僕の知っている街は、もう記憶の彼方だけれど、今ここにある街の姿は彼らのものになる。町は、人が作るものだと思う。そこで暮らし、誰かを好きになり。己の記憶と、町の姿が結び付けば、きっと、故郷になるんだと思う。

 リキオの胸にあった故郷は、この場所だったんだろうか。ふと滲んでくる景色に、僕は目を擦る。振り返り見つめたテーブルの上で、琥珀色が滲み、さざ波のように揺れていた。


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帰郷 菅野 樹 @kannno-tatsuki

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