01-12

 次の日。嘉寿は、自分の体調の悪さを自覚して、困惑していた。

 なんとなく、だるい。気のせいか、地面が傾いている気がする。のども明らかに病人のそれのように痛む。

 嘉寿はもともと体があんまり強くなかった。風邪を引けば扁桃腺が親の敵といわんばかりに痛み出す。そして、高熱がでない代わりにものすごい倦怠感に襲われるのだ。

 ここ最近は風邪など引いてなかったのに。多分、いや確実に水をかぶった状態で寒風の中を歩いたのが原因だろう。

 非常に辛い。でも、学校がある。行かなければ。休むことはできない。

 優等生でなければならない。親が心配しないように。調子がいまいちなのも悟られてはいけない。これで欠席が決まれば母親は、仕事を休んで看病してくれるかもしれない。そうなると、この部屋に入ってくる必要性があるだろう。それはまずい。

 この二年間はやってこなかった試練がついにきた。風邪は引いたが朝の時点でここまで悪いのは初めてだ。愛は常に試されるもの。乗り越えてみせる。そう意気込んだ。

 鏡に映った自分の顔は、心なしか赤い。熱もあるかもしれない。だが、病は気からというし、熱があることを自覚するとそこから一気に病人ぽくなるのは良く聞く話だ。

 負けだ。計ったら病気に負ける。

 今日、学校に行けば明日からは週末休みだ。自分を鼓舞して学校に行くことにした。

 るみなの写真に言葉をかけて、部屋を後にした。習慣とはありがたいことで部屋の鍵をかけ忘れたことに気がつく。

「ぼうっとした頭で良く気がついた。調子悪いのは気のせいだな」

 部屋の扉に向かって独り言を言う。まるで酔っぱらいのようだ。

「おはよう、嘉寿くん」

 下に降りると、台所から朝食を準備している母親が挨拶をしてしてきた。

「おはよう」

「あら、どうしたのその声?」

 ぎくりとした。

「な、なにが? 寝起きだからだと思うよ」

「そう? なんか顔も赤いみたいだし、もしかしたら風邪でも引いた?」

 ラスボスの降臨。幾度目だろうか。倒しても倒しても自然発生的に湧いてくる。そう、それはマップで遭遇する雑魚キャラのように。

「いや、そんなことないと思うよ。体に違和感は感じてないし。ぼーっともしてないし」

 大嘘を並べる。本当は、かなりつらい状況である。

「そお? お布団を薄いのに変えた方がいいのかしら」

「いやまだ油断ならない時期だからいいよ」

「調子悪かったらちゃんというのよ? 嘉寿くんは誰に似たのか変に我慢するから」

「うん。わかってるよ」

 もう小さい頃から言われ飽きていることだ。

 ラスボスは撤退。どうやらイベント戦闘だったようだ。

 いつも通りを装いつつ食卓に着く。ここで再び、自分が病人であることが嫌っていうほど自覚させられる。

 平静を装うには致命的なほどに食欲がわかない。のども痛いし、まさに試練だ。愛が試されている。

 今日は和食だ。白米に、焼き鮭に、味噌汁に、ほうれん草を薄焼き卵で巻いて輪切りしたもの。

 ほうれん草の卵巻きは、寿司の細巻きに近い太さだ。

 ラインナップを見る限り、洋食よりはのどに優しそうだ。だが、この鮭は脂がのりすぎだ。はらすという部分なのだろう。普段は喜々として食べるといってもいいくらいに好きだ。だが、今日はそのこってり具合が恨めしい。

「今日のはらすは特に脂がのってておいしいよって、魚屋さんがいってたの。好きでしょ、はらす?」

「うん、おいしそう!」

 泣きそうだ。

 箸を取り、いただきますと気合いを込めてみるが、どれから手をつけていいかわからない。

 とりあえず醤油をほうれん草にかけて時間を稼ぐ。だが、そんな時間はわずかで問題解決においてなんの役にも立たない。

 寝坊すれば、いやしたことにすれば良かったと心の底かから後悔した。やはり、頭が働いてなかったのだ。というか、休まないことばかりを考えていたためだろう。

 とりあえず、味噌汁を口にした。熱い味噌汁が喉を焼く。涙が自然と目に浮かんでくるような痛みだ。

 次に、脂たっぷりの焼き鮭に手を伸ばす。食べるまでに一拍あったが口に入れてしまえば、脂でつるんといけるだろうと、思った。しかし、魚独特の脂が口いっぱいに広がって、調子の悪い嘉寿は吐き気に襲われた。

 白米で押し込むが、米粒が当たって痛い。もうなにを食べても痛い。ほうれん草の卵巻きも推して知るべしという状況だ。

「どうしたの、嘉寿くん?」

 母親が、嘉寿の箸のすすまなさに疑問を持ったようだ。嘉寿は、おそらく熱があろう頭をフル回転させる。

「いやなんでもないよ。ちょっと、この鮭脂のり過ぎかなって。なんか逆に胸焼けしてくるくらいだなぁって」

 本人的にはナイス言い訳のつもりだった。最後の回答? と問われてもはいと頷けるものだと浮かされた頭では思った。

 というか実際、ぎとぎとなくらいに脂がのっている。普段食べてもきっときついと感じただろう。

 というか魚でこののり方はないだろう。サラダ油に漬けて焼いたのかと疑いたくなる。某紳士の国の朝食ではないのだから勘弁してほしかった。

「やっぱり? 焼いてても脂すごかったもの。残していいからね」

 よっしゃ! 心の中で快哉を叫ぶ。

「そ、そう? ごめんね。じゃあ、残すよ」

 でも表面は、穏やかに、申し訳なさそうに。

 さて一番の難敵な鮭は朝食を何事もなかったように食べきるというリングから引きずり下ろした。

 後は、ほうれん草の卵巻きと、味噌汁と、白米。

 味噌汁は、もう少し待って温度が下がればいけるだろう。具は豆腐にわかめだ。するりと入っていきそうだ。

 白米も、味噌汁の協力があればすんなりと従順に胃に収まってくれそうだ。

 問題は、ほうれん草の卵巻きだ。これは、普段から食卓に並ぶし、野菜なので残すことは許されないだろう。残していい理由も出てこない。

 このほうれん草をゆでたやつは、歯ごたえを残し、きっと咀嚼しきれずに喉に向かう羽目になるだろう。

 さらに、この卵を薄焼きにしたものはかりかりになっており、痛む喉に針千本のごとき所業を振るうだろう。

 普段でも、なんか喉に引っかかる気がする一品だ。この状態の喉で耐えられるかわからない。

 だが、無理を引っ込め己を通さなければならない場面である。それは、自分を守るために。るみなとの愛の生活を突き通すために。

 覚悟を決めて、箸を伸ばす。五つに切り分けられたそれを一つつかみ、口へと運ぶ。よく咀嚼する。特に卵が粉々になり、その苛烈さを和らげてくれるように祈りながら。

 そして、問題の嚥下。少しずつやるとじわじわと痛いので一気に飲み下す。

「!」

 声にならない、してはいけない悲鳴。

 鋭い痛みが喉に走った。

 原因は卵でもほうれん草でもない。醤油、だった。しみることしみること。時間をかけてかけようとした結果、少々かけすぎたようだ。

 こうなると、残りの四つはまるで城壁を攻めようとして、断崖絶壁を仰いでいるような気分だ。ここは、味噌汁様のお力を借りるときかもしれない。そう思った。

 だが、横には食欲旺盛な普段にも耐えられるように盛られた白米が。味噌汁は足りるだろうか。

 とりあえず、ほうれん草の卵巻きを二個同時に口に入れた。そしてよく噛み、味噌汁で流し込む。これを都合二回繰り返した。

 なんとか、ほうれん草の卵焼きは倒した。残るはおかずもないのに、そびえ立つ白米という城門だけだ。

 一瞬ふりかけも考えたが、あれも堅いかつぶしの欠片が喉に刺さると痛いので却下。味噌汁は半分に減っていた。

 牛乳というのも考えた。だが、白米との相性はいいとはいえない。牛乳がゆなるものがあるのは知っているが、今は関係ない。

 となると水か。うん、水を飲むなら自然にいけそうだ。そう思った。

 コップを食器棚から出し、水を汲みにいく。そして、何事もなかったように席に戻る。普段通りに振る舞ったつもりだが、普段通りというのは意識すればするほど異なる様相を見せる。

 だが、ラスボスからはなにもない。ほっとして、水を口に含む。

「あ、嘉寿くん」

 思わず、水を吹き出しそうになったがなんとか飲み込む。乱暴に飲み込んだので喉が痛んだ。

「な、なに?」

「ゴールデンウィーク明けの三者面談はお父さんとお母さんのどっちがいい?」

「あ、ああその話ね」

 心臓がばくばくいっている。嘉寿の通う高校は不思議なことに、三者面談が三回ある。

 一回目は、二年の終わりに大まかな進路、文系か理系にするかの選択のために行われる。

 二回目はゴールデンウィーク明けに具体的な進路調査を目的に行われる。

 ちなみに、嘉寿は今北大の理学部に照準を合わせているのだが、最終的には法学部か医学部を考えているのでそれにあわせた選択科目をしている。

 三回目は、現在の実力と行きたいところとを照らし合わせ最終的にどこを受けるか決めるためのものだ。

 その二回目が今回に当たる。

「他に話があるの?」

 言葉尻をつかむのがうまい母だ。

「い、いやなんの話か想像できなかっただけ。そ、その忘れてたんだ」

「そう? 変な嘉寿くん」

「仕事の手の空いた方でいいよ。まだ、本決まりじゃないし」

「そうなの?」

「うん。やりたいことがまだ確定してないんだ。だから、この前のはとりあえずなんだ。でも、北大には行きたいなって思ってるよ」

「じゃあ、お父さんと日程の話するわね」

 なんとなく、嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。

 そして、また城門と対峙する。白米を口に含みよく咀嚼する。それを味噌汁で流し込む。できるだけ、多くの米粒を少ない味噌汁で流し込んでいく。

 が、途中三分の二まで行ったところで味噌汁は空になっった。味噌汁も、自分も頑張った方だと思った。

 残り三分の一は苦行だった。風邪のせいで白米の味なんてわからなくなっているのに、それを水で押し込むのだ。

 気持ちが悪いといっても過言ではあるまい。冷やし粥、塩卵抜きのようなものだ。

 だが、嘉寿は戦い抜いた。真っ白に燃え尽きそうなくらいに。

 そのとき、玄関のチャイムが来客を告げ、母親が応対に出る。

「嘉寿くーん、ゆうくんが来たわよ」

「うん、今行く」

 居間においた鞄を、拾うと玄関へと急いだ。途中くらりと来たが、なんともないように振る舞った。

「ごちそうさま。行ってきます」

 玄関で待っている母に向かってそういうと、玄関を出た。

 出たところで大きなため息をついた。

「どないしたん?」

 裕哉が不思議そうに訪ねてくる。

「ああ、おはよう、ゆう。来るならもう少し早く来てくれればいいのに」

「はい、おはようさん。なんかあったんか?」

「ちょっと、朝から激しいバトルをな」

「そうなん? おばさん、怒ってるようには見えへんかったけど?」

「いや、自分と戦かったんだ」

「ふ~ん」

「いいや、この話は。早く学校行こうぜ」

 二人は、家の敷地から出て、学校へと足を向けた。

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