第6話 甘酸っぱ過ぎて、お姉さんにはとても言えないっ!

 感情がたかぶってしまったハルカを宥めに宥めてから、


「犬川。犬山」


 そう呼ぶと、たちまち木々の陰から男がふたりあらわれて、サトミの前に膝をついた。


「送ってあげて」

「は」


 彼らが先ほどの殺気の主だろうか。濃紺のスーツに身をかためて、それなりの雰囲気はあるが、見たところ普通の人間と変わりない。

 サトミはハルカを抱きしめて、


「ほんとは、あたしが送ってあげたいんだけど、ちょっと彼に話があるから。ごめんね」

「あの、俺──」

「うん、説明する。車で送るから、ちょっとそのへん走らない?」


 雑木林に挟まれた石段をおりていくと、朽ちかけた鳥居の脇に車が停めてあった。

 停めてあるだけで目立つ赤いスポーツカー。タダヒトは車に詳しくないが、高校教諭はあまり乗らない車だろう、とは思った。サトミは助手席に乗るよう促して、


「まー、そろそろ知っておいても、いい時期だしね」

「あのう。俺、病気ですか」

「違うよ。病気なんかじゃない」


 キーを捻ると車体が震えた。シートは座ったことのない角度で、やたらと腰が深く沈む。ほとんど寝そべっているようで、居心地が悪かった。

 ともあれ車は走りだした。


「でも、さっきも記憶がぼんやりして、何があったか、わからないんです。ハルカと喋ってたはずなのに、途中からあんまり憶えてなくて」


 うつりゆく街並みを眺めながら、タダヒトはつとめて冷静に話すようにした。


「実は俺、こういうこと、よくあるんですよ。さっきも気がついたら、ハルカが泣きながら怒ってて──そーとーマズいことを言ったと思うんですけど──あの、どうしたんですか」


 見ると、サトミはハンドルを握ったまま身悶えして苦しげに呻いていた。もう少しタダヒトの耳がよければ、


「言えないっ! 大事なファーストキスを君が憶えてないから、彼女ぶんむくれてるんだなんて、甘酸っぱ過ぎて、お姉さんにはとても言えないっ!」


 と聞こえたに違いない。

 サトミはしばらく悶えていたが、


「ゴメンね、取り乱して。何でもないのよ」


 と、頑張って表情を引き締めた。


「彼女ね、すごく心配してるのよ。君に《七人委員会》から最終勧告が出るんじゃないかって」

「最終勧告?」


 なんだかよくわからないが、言葉の響きがタダゴトじゃない。


「そ。ショックだと思うけど、君が悪いわけじゃないんだから、落ちついて聞いてね」

「落ちつくっていうか、ワケわかんな過ぎて、パニクりようもないんですけど」

「それ、自分を客観視できてるよ。とても落ちついてると思う」


 そう微笑して、


「まず、本当の自己紹介からするね」


 と、名刺を取り出した。受け取るとシンプルなデザインに縦書きで、


「内閣官房──霊的事案管理局──第三課?」

「そ。通称キツネ課──あたしの本当の所属先ね」

「キツネ課──?」


 何かの隠語だろうかと訝りながら、タダヒトは名刺の表裏を見た。読んだ通りの肩書きがあり、あとは住所も連絡先もなかった。


「あらかじめ言っておくけど、これから言うことが信じられなかったら、聞き流してもくれていいからね」

「はあ」

「まずタダヒト君みたいなケースだけど、あたし達みたいな連中からは《キツネ憑き》って呼ばれてるのね」

「──発狂してる、みたいな感じですか」

「違う違う!」


 サトミは強く否定した。


「そういうんじゃないんだってば。ただ、キツネ様が憑いてるの。いや待って、まだ納得しないで。そう、もちろん動物のキツネじゃなくて」


 そこで言葉を切り、しばし眉間にシワをよせて考えてから、


「そうね。キツネの自我をもつ何らかの存在が、自然科学では説明できない要因によって、他者の精神に寄生する能力を獲得し、本来の生存可能期間を大幅に超過して意識と記憶を保持している状態──と言えば、わかりやすい?」

「ぜんっぜん、わかんないです」

「よね。早いハナシが──言葉を選ばずに言うよ──《妖怪》ね、一般的な呼び方をすると。ちょっと引いてる?」

「少し」

「正直な反応をありがとう。でも人間の知見じゃ説明のつかない事件って、世間に知られているよりも、ずっと多くあるのよ。少なくとも、そういうのをまったく無視してると、おカミが世情不安を心配したくなる程度には」


 車が交差点で停まった。窓に映る風景は暮れて、信号灯の赤色が藍色の帳に滲んでいた。


「だから信じようと信じまいと、対策は必要なわけ」

「それがサトミさんのいる第三課?」

「だけじゃないよ。ウチは四課まであるけど文科省も専門の研究チームをもってるし、公安にも同じような調査部があるし。もっともウチら公安とは、あんまり仲がよくないんだけどね」


 信号が青になった。アクセルを踏み込みながらサトミは苦笑いをして、


「そのうちキツネ憑き、狐火などをふくむ、いわゆる《妖狐》全般を担当するのが、あたしがいる第三課って話なんだけど──信じる?」

「信じなかったかもしれません。ハルカが出した虎を見てなかったら」

「あ、あのへん見てたんだ」

「つまり、ああいうのが俺のなかにいる、ってことですか」

「白虎は安倍家に代々つかえる神獣だから、妖狐とはちょっと違うんだけどね」


 車は住宅地を抜けて、バイパス経由で国道に入り速度を上げた。車道におじぎをしているような街路灯がフロントガラスを流れていく。

 タダヒトはぼんやり夜景を見ながら、しばらく黙りこんでいた。

 なにしろ情報が多すぎる。自分に妖怪が取り憑いていて、ハルカは代々つかえる神獣を呼べて、サトミ先生は妖怪専門の調査員みたいなのが本業で──。

 なんだそれ?

 サトミも黙っていた。考える時間をくれているのだろう。

 だが、いくら時間があったところで、おいそれと受け入れられる類いの話ではないようだ。だいたい、まだ説明されてないことがいくつもある。七人委員会? 最終勧告? いったい何なんだ? 公安や文科省にも専門の部署があるようなことを言っていたが、それと関係あるのか?

 やがてタダヒトは理解するのをあきらめた。

 あきらめたが、身の安全まであきらめるわけにはいかない。当面のところ、気になるのはそこだった。


「えっと、そのうち俺を退治するんですか」

「しないよ?なんで?」

「だって、対策って」

「あー、説明不足だったね。対策って別に退治するって意味じゃなくてね」

「はあ」

「ようするに。問題が起こらなければ何もしないわけよ。ただ何かあったときのために、君たちのことを、きちんとわかっておくっていうか」

「言葉を選ばないって、言いませんでした?」

「ゴメンね、気をつかわせて。そう、《監視》しとくの。それが、あたしの仕事」


 開きなおったというわけではないだろうが、歯切れよく一語一語に力が込もっていた。目線をまっすぐ前に据え、非難も不平も逃げずに受けとめるという顔だ。

 視界のふちにそんな表情を捉えながら、タダヒトはヘッドライトが照らすアスファルトを見つめていた。


「ずっと、俺を見張ってたってことですか」

「そ。ゴメンね。ムカつくよね」

「いい気分じゃないです」

「でも、胸を張っていいと思うな。監視対象のなかでも、君はかなりの大物だから」

「そんな凄いのに憑かれてるんですか、俺」

「監視対象にはクラスがあってね、いちばん多いのが一般監視対象。その上が重要監視対象。そのまた上に特別指定監視対象」

「俺、どのへんですか」

「タダヒト君は、さらに上の激甚監視対象」

「ゲキジン?」

「ほら、台風とかでたまに言うじゃない。“激甚”災害とか」


 タダヒトはしばらく唖然としていたが、ようやく、


「そういう扱いですか、俺」


 と、あきれたように言った。

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