逃亡

 とうとう、と言うべきか。ついにやってしまった。いや、ついやってしまったのか。まあ、そんな言葉遊びはいいとして、俺はとうとうやってしまった。


 部屋の中央で濡れる二人の男女。


 俺はとうとう、人を殺してしまった。それも二人も。


 誰が悪いって、もちろんこの二人が悪いに決まっている。当然の結末ってやつだ。


 そうだ。俺は、あいつの言葉についカッとなって殺してしまった。

 これが、自分の娘にしもべなんざ下らない名前をつけ、あまつさえ虐待した大人の末路だ。救えないな。


 隣の彼女は俺のことを怯えた目で見ていた。荒い息で、俺のことを上目使いに見ている。

 目の前で人を二人も殺したんだ。当然だろう。だけど彼女にだけは、そんな目で見られたくなかった。そんな目で見ないでくれ。そんな目で見るな。


 あー、むしゃくしゃする。腹のなかに異物が沈殿してるみたいだ。でも、こんなのはまだ始まりにすぎない。これからもっと大変になる。

 だから、二人で助け合おう。俺はお前を見捨てるつもりはないぞ。


 俺は怯える彼女の手を無理やり引いて、家を飛び出した。



 外は灰色の空をしていた。暗雲がかかり、太陽の光を遮っている。まるで俺の心情を表しているようだ。

 ただ、俺たちの未来を表しているわけではないと思う。


 玄関を通り、道路に出る。


 あ。

 そうだよ、こんな血にまみれた姿、目撃されたら不味いよなあ。

 よし、さっさと走ってしまおう。


「ちょっと、だめっ! 待って!」


 走っている途中で、彼女が俺の手を振りほどいた。こんなところで立ち止まっていたら危険なのに、どうしたんだろうか。


「なんでこんなこと!」


 あー、うん、まあ突発的犯行? ってやつだよ。なんでって明確な理由があるとすれば、それは全部あいつらのせいだ。あいつらが俺を怒らせるから。

 本当に胸くそ悪いよな。


 しかし、それはこんないつ誰の目につくかもわからない危険地帯で訊くほどのことなのか? 彼女は人の目が気にならないのだろうか。

 もしかして、警察に捕まってもいいだなんて馬鹿な考えを起こしているのか?


「でも……殺さなくても――あぅ!?」


 腹を押さえて蹲る彼女。

 うるさいから拳を入れてやった。


 悪いけど、今はそんな言葉を聞いている暇はない。早くここから離れなくちゃいけないから。


 静かになった彼女の手を、俺はまた強く握りしめて引っ張った。さっきよりも勢いを上げて、住宅街を駆け抜ける。

 もっと遠くへ逃げなくては。

 俺たちが安心して生きていける、どこかへ。



 ◇



 時間は少し前に遡る。


 杉下すぎしたしもべの失言により、愛川あいかわるいは彼女の家庭事情を知った。

 徹底的な上下関係のもと、下僕としてこき使われ、嗜好品を所持することすら許されない毎日。気にくわなければ殴られ、気にくわなければ蹴られる。

 累はこれまで、そんな環境はフィクションにしか存在していないと信じていた。信じていたかった。だが、そんなフィクションじみた胸くその悪い環境は、すぐ身近にあったのだ。


 もともと短気な彼は、怒りを抑えることができず――その噴火力を維持したまま、累は頭に血が上った状態で廊下を歩いていった。


「なあ、考え直さないか? 私は今まで、この通り生きてこれた。これからもきっと大丈夫。なんとか生きていけるよ」


 僕は累を引き留めようとするが、彼は聞き入る様子を見せない。掴んだ腕を振り払って先を行く。


「いいや、我慢ならねぇな。杉下。お前がこれからどうなるかは関係ない。俺がむしゃくしゃするから一発ぶん殴りに行くんだ」


 横暴だ。僕は言いかけて、飲み込んだ。

 もうそんな軽口を言える雰囲気ではなかった。


 累は、僕の暗闇を本気で払おうとしている。どんな手でも使ってでも。そのことに一切の躊躇はない。

 そんな獣の目をしていた。




 もちろんのことながら、僕は累に自宅を教えようとしなかった。

 学校の正門前で二人は向き合っていた。


「杉下、自宅を教えろ」

「教えると思うか?」

「…………」


 累が鋭い眼光で僕を睨んだ。教えなければ殴ってでも聞き出しそうな雰囲気すらある。だが、僕も怯まない。


「あのなあ……お前はこれまで私とつるんできて、私の家すら知らなかったわけだ」

「……だから?」


 だから、なんだろう。僕はその先の言葉を考えていなかった。


「……つ、つまり、私たちはその程度の仲ってことなんだよ。だからもう私に関わらないでくれ。今まで通り、普通に接していくことができないのならそうしてほしい」


 僕の口から出てきたのは、全く思ってもいなかった言葉だった。僕は後悔にも似た感情に支配されたが、すぐに考え直す。

 そうだ、今の状況にはこの台詞がもっとも相応しい。

 それに、言ってしまったことは撤回できないのだ。ならば、もうなるようになれ。


 累は僕をじっと見つめた。僕も決然とした瞳で累を見る。

 沈黙が続く――先に視線を反らしたのは、累だった。

 諦めたように顔を背けて、頭を掻く。


「……わかったよ。もう金輪際お前とは関わらない」


 自分から言い出したことではあったが、その言葉を聞いた僕の胸は、大蛇にきつく締め付けられたかのように苦しくなった。


 ――これでいいんだ。悲しいなんて思ってはいけない。所詮、私は下僕。下僕に友達なんて必要ないのだ。


「じゃあ、悪かったな」

「ああ」


 累は背中を向けて去っていった。僕はその背中が見えなくなるまで見送ったが、累が僕の方を振り返ることはなかった。



 ◇



 雨が降ってきた。少し濡れたので、俺たちは橋の下で雨宿りをした。橋の下はついでに隠れ蓑にもなるし、いろいろとちょうどいい。

 なんとなく、橋の下は逃亡者と上手く結びつけられるイメージがあった。


「なんでこんなことに……」


 彼女は頭を抱え込んでいた。

 あのな、俺だって頭を抱えたいさ。だけど全部仕方がなかった。


「私、これからどうしたら……」


 それは、逃げ延びてから考えよう。大丈夫、きっと上手くいくから。俺が、君の幸せを保証しよう。


 それから、彼女は押し黙った。

 彼女を心配させまいと能天気に振る舞っているが、俺だって本当は不安でたまらないんだ。

 きっと上手くいく。さっきからその言葉が口を吐くたびに、それは現実にならないような気がした。


 重い沈黙が続く。


「……最初から殺す気だったの?」


 だが、意外なことに、沈黙を壊したのは彼女だった。

 俺は彼女の理解を得たような気分になって、少し舞い上がった。


 うーん、どうだろう。今まで殺意はあった。でもそれは怒りに近いもので、具体的にどうしてやろうってものではなかったんだ。言ったろ、突発的な反抗って。

 でも、きっといつかはこうなる運命だったんだと思う。たぶん俺は、いつかこうやって殺人を犯す運命にあったんだ。今なら確信を持って言える。自分でも思っていた以上にすんなりと事が終わったからね。もともと、荒事に向いた性分だったんだろ。


 ……と、そろそろ警察も動く頃だろうか。どうしよう。何をのんきに語っていたんだ、俺は。


 ちくしょう、こんなことになるなら……。


 いや、後悔するにはまだ早い。俺は、俺たちは逃げる。逃げ切ってみせる。

 逃げ切るためには、彼女の力を借りるしかない。これまで寄り添いあってきた彼女の力を。苦節あった。全部は乗り越えられなかったが、それでも俺たちはすべてどうにかしてきた。今回も、こんな山くらい、二人で一緒に乗り越えよう。


 少し休憩していると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。ついに嗅ぎ付けたか。おそらく誰かの通報により、自宅前にパトカーが集まるのだろう。ここにずっとはいられないか。


 俺は彼女を立たせて橋の下をあとにした。雨が俺たちの痕跡をたちまちに消してくれる。どうやら天は俺たちの味方らしい。


 ほら、見なよ。俺たちはきっと逃げ延びてみせる。君を、きっと幸せにしてみせるぞ。俺たちは運命共同体。

 そう、家族なんだ。



 ◇



 累の背中を見送り、僕は一度適当な路地に入っていった。累のあれがもし演技だったとしたら、大通りを歩いて堂々と帰宅するのは間抜けのやることだろう。


 路地を歩きながら僕は考える。あれでよかったのか、と。


 今後のことなど一切考えていない台詞だった。頭に血が上っていたのだろうか。らしくもない。

 だいたい、結局学校で顔を会わせることになるんじゃないか。そんなことも考えず、なぜ私はあんなことを口走ったのか。

 明日からどんな顔で学校へ行けばいいのだろう。


 少し歩いてから、ようやく大通りに出た。そうして、僕はまっすぐ自宅に向かった。

 いつもより遅い時刻。早く帰らないと両親の機嫌を損ねてしまうかもしれない。

 僕は少し歩行速度を上げた。




 家に入ると、話し声が聞こえてきた。家にいると神経が過敏になるので、ほぼ条件反射で肩が震える。


 誰かが言い争っているように聞こえる。

 ……両親だろうか? しかし、あの二人が自分を邪険にすることはあっても、喧嘩をしているところは見たことがない。珍しいこともあるもんだ。


 僕がそう思っていると、今しがた閉めたはずの扉が開いた。


「愛川っ!?」

「よう。お邪魔」


 累だった。何食わぬ顔をして挨拶をした。さらに、ずけずけと家に上がり込んで、僕の制止を振り払って前に進む。


 僕の声を聞き付けたのだろう。話し声がぴたりと止んだ。そして足音が近づいてくる。この足音は……。


 乱暴な足取りで廊下にやって来たのは、僕の父。不機嫌そうに顔を歪めている。

 その後ろからもさらに足音がした。


「誰だ、お前」


 僕の父が問いかける。

 累は、意外にも冷静に対応する。


しもべの友達です」


 はあ? と僕の父が顔を歪めた。



 ◇



 逃亡するのに彼女は足手まといだった。彼女は鍛えている俺と比べて脚力がないし、それより何より逃げ延びる気力がない。

 たぶん俺ひとりで逃げた方が安全率は高いだろう。だが彼女を置いていくつもりはなかった。彼女がいなくては、意味がない。


 さて。これからどこへ行こうか。遠くと一口に言ってもいろいろある。


 そうだな。国家権力の干渉が薄く、住みやすい場所……。実家を頼るべきか。いや、こうなってしまえば実家は頼れない。勘当。その二文字が頭に浮かぶ。どうだっていい。


 それにしても、こうなったのも全部あの男が悪い。いきなり家に上がり込んできて、杉下家のことを知った風な口で……。たしか「しもべの友達」だとか言っていたな。名前は……そう、愛川累といったか。気に入らない。ついカッとなって殴って、それから目の前が真っ赤になり――気づいたら二つの死体があったんだったな。仲良く寄り添って、お似合いじゃないか。ふん。


「ねえ、自首しよう。今ならまだ間に合うって……」


 まだそんな寝惚けたを言い続けるのか。

 自首。一瞬だってそんなことは考えない。そもそも警察なんかに捕まるつもりはない。


 いいか、警察は無能だ。考えてみろ。今まで虐待の事実は露見しなかったんだぞ。お国の力なんて所詮そんなもんさ。だから、心配することはない。俺たち二人なら――俺たちの愛があればなんとかなるさ。これは楽観なんかじゃ決してない。


「ぅ……」


 彼女はまた俺を怯えた目で見た。殺人者を見る目。俺の一瞬の動揺。

 ……もういいさ。慣れた。そして彼女も慣れるだろう。今まで一緒だった時間は長い。またいつもの関係に戻るさ。




 時間は流れ、空は暗闇を湛え始めた。空気が冷え込んできて、ずぶ濡れの俺たちは一時的な休息所を求め学校を訪れた。

 何も校舎に入ることはない。暗闇のなかに溶け込むことができればそれで十分だ。

 俺たちは便所の後ろの草葉に身を潜めた。


 大きなため息を吐いて、どっかりと座り込む。尻がちくちくと痛んだが、この程度のことを気にしていたらこの先を生きてなどいけない。


 気を落ち着かせていると、彼女の手を握っている手から細やかな振動が伝わってきた。嫌な予感がして、俺は彼女の方を見た。


 彼女は震えていた。寒さからか、それとも恐れからか……。


「も、もうやめようよ……」


 そう言った彼女の言葉に力はなかった。俺が聞き入れないのを知ってか、実際に力が入らないのか。おそらく後者だ。


「私、もう嫌だ……」


 とうとう彼女は泣き出した。俺は見ていられなくなって、目を背けた。こんなはずじゃなかった。俺は、彼女を泣かせる気なんてなかった。だが、現在彼女を不幸にしているのはこの俺なのだ。


 自首。唐突にそんな言葉が浮かんできた。さっきまで頑なに否定していた言葉。

 しかし自首とは、たしかまだ事件が発覚していない段階での出頭を指したはずだ。今さら出頭したところで、罪が軽くなることはない。だったら、可能な限り逃げた方がいい。

 どっかのコーチも言っていた。諦めたら……ほら、なんだっけ?


 サイレンの音が通りすぎた。彼女は肩を震わせ、苦しそうに胸を抑えた。今までの心労が積もっていたんだろう。


 大丈夫か? そう問いかけると脂汗を浮かせて、「大丈夫……。癖みたいなものだから」と言った。

 全然大丈夫そうには見えない。

 涙を流して、胸を抑えて、咳き込んで……。


「く……ぅっ」


 苦しそうな呻き声。


 俺は、混乱で頭のなかが真っ赤になった。



 ◇



 僕は、その瞬間のことをあまり記憶していない。

 累と僕の父は、口論を始めた。その事実は覚えているのだが、累が殴られて床に吸い込まれる瞬間のことはきちんと記憶できていなかった。

 ゴン、と床が鳴った。

 血が、空中を舞った。

 声が、遠く聞こえた。

 僕は、その瞬間のことをあまり記憶していない。

 金属バットが人体に振るわれる瞬間のことを記憶していない。



 ◇



 気がつくと、彼女は泣き止んでいた。雨の音だけが耳を打つ。


 落ち着いたのだろうか。

 俺は一瞬安堵するが、すぐに気がついた。


 拳が濡れている。誰かの血だ。


 ……誰の? 疑問形だが、本当は誰の血か知っていた。ただ、認めたくなかっただけなんだ。


 嫌な予感。これまでのなかでも、特大の。息が荒くなった。見たくないけど、見ないでいられない。この拳の血が誰なのか確かめて、頭に浮かんだ可能性を否定したい。


 心臓が爆音を鳴らす。これは警鐘。つまり見るなということ。だけど、確かめなくちゃ……。


 俺は視線を草葉に移した。

 彼女が血に伏していた。

 俺は、意味がわからなくなって叫んだ。たぶん、彼女の名前を。


「ぁ……ごめ……さ」


 声にならない声が、彼女の口から聞こえてきた。


 どうしてこんなことに! 俺が殴ったのか? なんで? 俺が彼女を殴る理由なんてどこにも……。そうだ、落ち着け。俺がこんなことをするはずがないだろう。だって、意味がないんだから。生涯の伴侶を殴ってどうするんだ。

 だが、じゃあこの拳の血はいったいなんなのだろう。

 いい加減現実を見ろ。どう考えても殴ったのは俺だ。いや、違う。この血は二人のものだ。あの二人を殺したときについた……。


 …………あれ、俺はいったい何を悩んでいるんだ?

 今、大切な人が大変な目に遭っているんだぞ? どうしてすぐに駆け寄ってやらない? どうして助けない? 誰がやったかなんて、今はいいじゃないか。なんで真っ先に彼女の身を案じてやらないんだ。

 もう、わけがわからない。自分のしたいことすら。

 こんなことになるなら……。


「ぅ、あ……。し、しもべ……」


 俺は、これから生涯を共にする予定だった家族の名前を口にした。

 ここで、彼女の意識が途切れたようだ。目がゆっくりと閉ざされた。


 死んだのか……? 嘘だろ?


 これから、ようやく始まるというのに。彼女を、ようやく幸せにしてやれると思ったのに……。

 眼前を、暗闇が支配した。視界に景色はある。なのになにも認識できない。脳がすべてを拒絶する。


「よぉ」


 声が――

 頬に衝撃が訪れたのを理解するより先に、視界が大きく動いた。俺の体が衝撃で後方に吹き飛ばされる。


「が……ぁっ!?」


 気づいたら空を仰いでいた。

 な、なんだ?

 上体を起こして辺りを確認する。

 どうやら俺は殴られたらしい。十メートルは吹っ飛んだんじゃないかって衝撃だったが、体感よりは進んでいなかった。突然の攻撃だったから余計に強く感じたんだろう。

 それを理解して、俺は俺を見下ろしているそいつの顔を睨んだ。そいつは俺の視線を真っ正面から受け止めて、ニヤリと笑う。


「一発返したぜ……」


 むかつく。生理的にうけつけない。あーあ。やっぱりあのとき殺しておくんだった。この情け知らずめ。


 それからそいつは地面に沈んだ杉下僕に一瞥をくれて、微笑を崩した。口元の乾いた血が、くしゃりと歪んだ顔面のせいでひび割れる。


 そいつが俺に詰め寄ってきた。やっぱり怒ってる。

 さっきぼこしたからかな。それとも彼女を傷つけたからかな。……これはきっと後者。


 自分でもよくわからない余裕に浸っていると、腹が爆発したみたいになんかなって爆発した。意味わかんねえ。

 あ、これ蹴られてるんだ! さっき俺がしたみたいに。そっか、仕返しなのか。うんうん、意識が薄くなっていく。こいつもこんな感覚に襲われたんだな。そりゃあキレるわ。


 やがて、そいつの蹴りも止んだ。だが、俺の意識が薄まっていくのは止まらない。あ、死ぬ。


 最後に、俺はほとんど真っ暗になった視界で、そいつの顔を見てみた。

 そいつは血の塊を手で拭って、忌々しげにこう呟くのだった。


「胸くそ悪ぃな……」



 ◇



 僕と累の二人が杉下家を訪れる十五分ほど前から、実は先客が来ていた。


 杉下すぎしたとおる。僕の従弟である。

 徹は僕の両親と口論していた。内容は、僕の虐待の事実と今後について。


 以前より徹は僕を実家に住まわせるつもりだった。劣悪な環境に僕を置いておくことが耐えられなかったからだ。

 しかし、どんなに徹が説得しようと、虐待を受けている僕本人は笑って断ってしまう。その笑顔を見るたび、徹は胸が痛んだ。徹は、虐待を受ける子供はどういうわけだか自分の親を庇ってしまう傾向にあるという話を聞いたことがある。僕もどうやらそのタチであるようだ。手を引っ張る準備はできているのに……僕はその手を取ろうとしない。それがもどかしかった。


 だから徹は、両親の説得を試みた。僕に言ってダメなら、この二人に働きかけようと、そう判断したのだ。

 しかし結果はこの通り。両親は僕を実家に預けるつもりはないらしい。

 愛情も注いでやれないくせに……。


「杉下先輩はうちに来てもらいます! こんなところに住んでいたら、腐ってしまう」


 徹は頭に来て、そんな過激なことを言う。


「勝手なこと言ってんじゃねえ。殺すぞ坊主!」


 僕の父も、売り言葉に買い言葉でかかってきた。

 両者の間に不穏な空気が流れ始めたとき――


「愛川っ!?」


 僕の声だった。その場の全員が凍りつく。しかし、僕の父はすぐに気を取り直し、玄関に向かった。下僕の声でいちいち硬直する主なんていない。そう考えたのだ。

 徹はその背中を追いかけた。


「誰だよ、お前」

「僕の友達です」


 そいつは真っ直ぐな瞳を僕の父に向けて言った。僕の父はたちまち不機嫌になる。


「あれ、徹くん!?」


 僕は驚きの声を上げたあと、はっと口元を抑えた。親の前で見せる姿としては相応しくなかったのだろう。その様子に、徹の憎悪がますます膨れ上がった。


「僕の父親ですか? 僕から話を聞きました。両親揃って屑のようですね」

「はあ?」


 あまりにも攻撃的な物言いに、僕の父は顔を真っ赤にした。床を大きく踏み鳴らして累と距離を詰める。

 一触即発の空気が流れ、そして――累が僕の父を殴った。


「よし、一発」


 僕と徹は絶句した。僕にとって、絶対君主である父の頬を殴るなんてことは想像すら許されないような大罪だ。そういう宗教のようなものなのだ。刷り込まれた常識は、簡単に拭い捨てることができない。

 だから、僕は目の前で起きたことを処理するのに時間がかかった。


 そんな異様な状況を察してか、僕の母がやって来た。夫の様子を見て、甲高い悲鳴を上げる。

 その態度が不快だったのか、累は袖を捲って僕の母を睨み付けた。


「おうおう。てめえ、杉下にさんざんクソッタレなことをしておいて、こんな屑が倒れてるのは信じられねぇってか?」


 ついに敬語すら忘れる。累は僕の母に詰め寄った。


「ちょっと、やめてよ! 徹くん、お願い。一緒に止めて!」


 僕は累に組み付いた。僕の腕のなかで累が暴れる。

 僕は、切羽詰まった声で累を止めるよう徹に懇願したが、その言葉は徹の耳を通り抜けた。

 このとき、徹の頭にあったのは煮えたぎるような怒り。


 累は今でも僕の両親に説教を垂れている。


 なにも知らないくせに……。そんな思いが過った。

 今まで、ずっと僕のことを気にかけてきたのは徹だけだった。徹だけが僕のことを理解してあげられていた。

 それなのに、ぽっと出の見知らぬ男が知った風な口で僕のことを語るのが許せなかった。


 知ったかぶりやがって。今まで僕が苦労していたのにも気づいてやれなかったくせに……。


 気づいたら体が動いていた。

 まず、僕が必死に組み付いている累の後頭部を掴み、壁に打ち付けた。


「徹くん、なにしてるの!?」


 それから累の体を何度も何度も蹴りつけ、意識を失わせると、今度は僕の両親に向き直った。


 今の行為で感情のたがが外れた。今なら、どんなことだって躊躇いなく実行に移すことができるだろう。累に暴行を加えたのは単なる私怨だ。こいつは確かにむかつくが、僕を守ろうとする志は一緒だ。しかしこの二人には殺さなくてはならない理由がある。


 徹は、これまでうちに溜め込んできた殺意を解放し、僕の両親にじりじりと詰め寄った。


 これが事の真相である。



 ◇



 杉下徹はその後殺人と殺人未遂の罪で警察のお世話になった。

 累に暴行を加えたのは殺人のためではなかったのだが、そのあと二人も殺しているのだから自然、殺人未遂と判断された。


 僕の両親は死んだ。当然の末路だと、累はあくまでドライに思う。


「よっ、杉下」


 累は、病室のベッドで静かに小説を読む僕に手のひらを向けた。

 僕は読んでいたページに栞を挟んでそっと小説を閉じる。


「久しぶりだな。顔面いぬ」

「それが命の恩人に向ける態度なのか?」

「知ってるか。ヒーローってのは恩を売らないんだよ」


 相変わらずの軽口。累は内心ほっとしていた。


 僕は目の前で両親を殺され、殺人者にかどわかされたあげく暴行まで受けたのだ。心身の傷は計り知れない。実のところ累は脱け殻になった僕を想像してさえいた。


「俺はヒーローだなんて一言も言ってないけどなー」


 ニヤニヤしながら累は言う。

 すると、僕がわかりやすく狼狽えた。


「あ、い、いや、そういうことじゃなくてな……あ、そうだ! そういえばひとついいか」


 僕が何かを思い出したように言った。あからさまな話題転換だったが、病人をあんまりいじるのも可哀想なので累は乗ってやることにした。


「なんだ」

「あの日、どうして私たちが学校に潜伏しているなんてわかったんだ? お前、徹のこと全然知らないだろ」


 ああ、なんだそのことか、と累は説明を始める。


「知らないからだよ」

「知らないから?」目を丸くし、可愛らしく首をかしげる。

「俺とあいつ、ほとんど接点なかったろ。お前から話は聞いていたし、顔も知ってたけど、対面したことはなかった。だから、俺はあいつが普段どういう場所にいるか知らなかったんだよ。学校以外は」

「なるほどな」

「とりあえずダメもとで学校に来てみたら、叫び声がしたんでな。見たら、お前が倒れてて徹が取り乱してた」


 それがことの顛末だった。

 つまりは悪運が強かったというだけの話。


「つかお前、大丈夫なのか? 徹に殴られて、雨に濡れて……」

「お互い様だろ。というかお前の方がよっぽどじゃないか? 頭打ちつけられたり蹴られたり」

「俺はあとでやり返したから」

「なんだそれ。殴り返したら体力回復すんの?」

「そうそう。俺の必殺ドレインパンチ~」

「ガキか」


 僕と累はひとしきり笑いあった。


「まあぶっちゃけ俺も散々だったけどな。実はけっこうヤバかったりする」

「マジか」

「うん、実はここの隣俺の病室」

「マジか!」

「マジマジよ」


 ちなみに嘘。


 僕はふう、と息をついて、頭を掻いた。立てば腰よりも長い髪が乱れる。それから申し訳なさそうな表情で謝るのだった。


「ほんと、ごめんな」

「え? なに、急に。こわい」


 累は茶化してみせたが、僕は真剣だった。


「いや、お前を巻き込んじゃってさ。怪我もさせたし……」

「えー、これって俺、なんか気の利いたこと言って慰めてあげないといけない感じ?」

「思っても口に出すなよ! 黙って私をスッキリさせろ!」

「お前は悪くないよ……なに一つも悪くない……」

「この流れで仕切りなおすなよな! しかも無駄に低い声で! 背筋がゾクゾクするわ!」


 もう何を言ってもこの先漫才にしかならなさそうなので、僕は話を切り上げ、閉じた小説を再び読み始めた。累も、僕が元気そうなのを確認できたので、そろそろ部屋から出ることにする。


「ん? 帰るのか?」

「ああ。姉貴のこともあるしな」

「ああ……」


 僕は萩原弘子の件を思い出す。


「やっぱシスコンじゃん」

「ちげーっつーの」


 部屋を出ようとした累は、僕の言葉に立ち止まってまでムキになって返した。

 僕はあくまでからかっていただけで、累のことを本当にシスコンだと思っていたわけではなかったのだが、途端に食い気味になって否定してくるあたり、案外図星なんじゃないかって思えてくる。


 僕は小説を左手に持ち替えて、累に対し手を振った。


「じゃあな」

「おう」


 あっさりした言葉を交わし、累は今度こそ部屋を出た。

 病室に取り残される僕。


 一人になった病室で、僕はこれからについて考える。


 両親は死んだ。なら、これから僕は誰に扶養してもらう?

 あるいは、一人で生きていくのを余儀なくされるかもしれない。学校だっていつも通りとはいかないだろう。もしかしたら通えなくなるかもしれない。累に言ってしまった「金輪際関わらないでくれ」という言葉。せっかく取り消せると思ったのに、これじゃあ図らずもその通りになってしまうじゃないか。


 そう。

 一寸先は闇。

 これからどうなるかなんて、誰にもわからないのだ。

 だからこそ、暗がりのなか、隣で誰かが手を握ってくれると安心するのだろう。


 なら。


 累が病室を出て数分くらい経った。

 僕はなんとはなしにベッドから降りた。


 もしもここが先を見通せないような暗闇なら。

 大切な人の顔も見えないような暗闇なら。

 今から、暗闇を共に歩いてくれる彼の下へ、自分の足で向かおうじゃないか。見えなくてもお互いを確かめ合える距離まで。


 ――しかし、一寸先は闇。

 この後、累の言ったことが嘘だと知ること、そして、隣の病室に堂々と侵入して恥をかいてしまうことを、今の僕には知る由もない。

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