最終話 Kamui And Inami

 眼を開けると、いつもの天井だった。私と九零が住んでいた、あのボロアパート。間違いない。見覚えのあるシミ。少しの風で揺らぐ部屋。

 東京のボロアパート。築六十年、家賃五万円。六畳一間でトイレ付き。風呂なし。時代錯誤の寂びれた空間。

 

 私、帰ってきたんだ。

 どうやって?

 姉貴はどうなった?

 あいつは?

 

 随所にある空白の時間。体を起こしてカーテンから漏れる朝光を浴びる。心なしか朝にしては寂しいし、雑音がうるさい。隣部屋から鍋を叩く音がする。隣人の高橋さんは朝食を食べないはずなのに、焼き魚の匂いがする。

 かんかんと階段を駆け上がる音――新聞配達から帰宅するあいつの足音は、もっと優雅なはずなのに。

「鍵、どこだっけ?」

「郵便受けの中です。だから持っていこうって」

「落としたら面倒じゃん。それにお前、ナンパされるしさ」

 ドア越しからくもった声がする。人の部屋の前で、何やってんだ。

「それは関係ありません」

「あるね。お前、そういうのに引っかかって、身包みはがされて泣く女だって。鍵なんて持ってたら――」

 ドアを開けて入ってきたのは……馬鹿姉と玉緒さん?

 馬鹿姉はまるで幽霊でも見たかのような顔で私に近づいてくる。

 手には近所のスーパーのビニール袋。

 おい、せめてエコバックを使えよ。鍛錬馬鹿の世間知らずめ。

「具合はどうですか」

 玉緒さんのあどけない笑顔。服装は、動きやすそうなパンプスに、フリルのついたシャツ。化粧もしてないし、髪の毛は団子にしている。ロリコンには受けるかも。ついていかないで正解だった。

「ぼーっとする……今、何時?」

「夕方の六時。何でこんなに人が多いかね。すぐ野郎に声かけられる。せわしない街だ。よく住めるね」

 うそつけ。玉緒さんはわかるけどさ、お姉ちゃんは絶対にない。ボディラインのよくわかるタイトな黒いライダースーツにサングラスなんて、田舎の不良じゃんか。

 姉は袋からマルボロのカートンを取り出し、乱暴に開ける。そして一本を取って私に差し出す。

「ハタチ超えたろ? おめでと」

「ありがと……でも、いらない」

 その間、玉緒さんは私の右腕に巻かれた包帯を解いていた。そういや、あいつに切られたんだっけ。痛みがないから、忘れてた。

「うん。傷跡も消えたし、もうお風呂にも入れますよ」

「ありがと……私、今まで何してた? 全然憶えてない」

「時々起きて、ご飯食べたり、何か呟いたり……夢見心地でしたね」

「二人が看病してくれたの?」

 玉緒さんは軽く頷くと、今日は何が食べたいですか、なんて主婦じみたことを言ってくれた。姉貴は勝手にテレビをつけて煙草をふかしている。普段はテレビなんて見ないから何だか一気に賑やかになった。

 

 でも、あいつがいない。

 

 人、一人分、ぽっかり穴が開いた感じ。

 

 まだ夏なのに、すーすーする。隙間風が吹いてるみたい。


 せっかくお姉ちゃんと、玉緒さんがいるのにな。

 楽しく無いし、懐かしくも無い。

 

 きっと、その穴はあいつじゃないと埋められない。


 でも、お腹は鳴る。『何か食わせろ』って言いやがる。

 なんか……自分のお腹に腹が立つ。洒落じゃなく、純粋に。


「消化が良いもの……蕎麦とかできる?」

「はい。買い置きがありますよ」

 玉緒さんは楽しそうな雰囲気をかもし出し、台所に向かう。このひとの彼氏になれるなら、私は男に生まれ変わってもいいかな。

「ああ? 1RでTKO負け? 調整ミスったな……またお預けじゃん」

 姉貴はニュースでWBCタイトルマッチの速報を見てぼやいている。さながらオッチャン。絶対男に生まれ変わってもこの人とは付き合えない。

「お姉ちゃんなら、これぐらい瞬殺? てか、どこまでいける?」

「まぁ、蹴り技と魅入が許されたら、ミドル級はいけるだろうね。素手なら真打で……ヘビィー級もいけるかな」

「へー。じゃあ上半身裸っていうのが、一番の問題かぁ」

「コラ。こっちは女子での感覚」

「隠すことないって。貧相な胸だもん。男だって言い張って――いたぁっ!」

 拳骨が一発降ってきた。瞼の内側で星が光る。

 でも、おかげでしっかりしてきた。姉ちゃんの肩を掴み、文句を言う。

「こっちは病み上がりだぞ? それにここは私の部屋! 住居不法侵入!」

「人が心配して看病してやったのに、そんな態度とる? 許可なら九零――」

「流海さん!」と玉緒さんの制する声。

 ふっ……遅いね。

 そもそも私を出し抜こうなど百年早い。大方、バツが悪くなったあいつに口止めされていたんだろうが、姉貴の癖でわかったね。この人は隠し事があると他人に煙草をあげる癖がある。わかりやすくて利用しやすいから指摘しないけど。

 姉貴は胡坐をかいて頭をかいている。視線は合わせずに口を尖らせて、言い訳する言葉を選んでいるようだ。

「白状してもらおうか。あの後どうなった? 神居カムイにはどうやって来た? 咲ちゃんはどうなった? さぁさぁ、言ってもらいましょうか、お姉ちゃん?」

 正直に言う。私は腕力で勝てない分、言葉で姉貴をいじめるのが大好きだ。

「ああ、いや、まぁ、喧嘩両成敗ってことで。勝ち負けとかじゃないし……」

 しどろもどろに喋る姉貴はタユラよりも口下手なのではないだろうか。

 追い討ちをかけてみる。

「ほー。得意技の真打は決まりましたか? ちなみにあいつの芯はどこに?」

「ああ、いい感じに腹にぶち込んで……ええっと鳩尾の左下に芯があったかな」

「リバーブローですね? 私の記憶ではあいつが血を吐いていましたけど?」

「血は……うん。あれはその前、喉への貫手ぬきてのせいじゃないかな。いや、てか、肝臓は右のわき腹だよ」

「喉へ貫手ぬきてって、殺意まんまんじゃない」

 私が怒気を含んで言うと、姉はしょげて、すまんと呟いた。重い空気を変えるように玉緒さんがぱたぱたとやってきて口を挟んでくる。

「わ、私も加勢しまして……ほら、催眠術で記憶を封印するとか医療でもあるでしょう? あのように私のカムイは、カムイや人間の意識を封印できて――」

「そんなの知らない。催眠術で記憶を呼び起こすのは知ってるけど」

 きつい眼差しと口調で返すと、ううぅ、と玉緒さんも小さくなってしまう。

「ま……それは置いといて、咲ちゃんはどうなったかだ」

 私が話題を変えると、ぱっと変わってしょげていた姉が、意気揚々と得意げに喋りだした。

「それは心配するな。玉緒が責任をもってちゃんと封印した。玉緒のカムイは凄いんだぞ。封印と治療が一番の特技だ。怪我人も片っ端から治した。死人は無い。そこは大丈夫。うん」

「それは信用している。けど、あんたが威張るな」

 再度、眼と語尾を尖らせて姉に叩き返す。私の苛立ちに姉は後ずさって、それでも小さく反抗した。

「……そんなに怒らなくてもいいじゃん」

「ほー。『他人の恋路と決闘は邪魔しない』って座右の銘を掲げていたのは、どこの誰?」

「……ごめん。ほんと、ごめん。この通り」

 やっと姉は頭を下げた。

 まったく。私にだってプライドや面子はあるんだ。ぶち壊しやがって。もうあいつに合わせる顔がないじゃん。

「でもね、イナミさん」

 あくまで優しく玉緒さんが私に諭すように語りかける。

「あのままでは、確実にイナミさんは絶命していました。私は友達としてイナミさんを救いたいし、流海さんはお姉さんとしてイナミさんを助けたい……面子も大事ですが、命には代えられません。それはもう、わかりきっていますね」

 それはわかっている。

 わかってる。けど……腑に落ちない。

 私は畳に視線を落とした。そこはあいつがいつも座っていた場所。

 ふにゃふにゃしてる畳。誰も座ってない畳……。

「神居に入ったイナミさんを発見したのは、流海さんです。コトワリのカムイ――このカムイ能力は、よく知っているでしょう」

 耳を疑った。まだ寝ぼけているのかと眼をしばたたいた。

 コトワリは確か、探索性と攻撃性のいいとこ取りのカムイだって、あの母が大自慢してたはず。

「その手に入れたばかりのカムイで流海さんは、最初にあなたを探したんです。ちゃんと平穏無事かどうか確かめたくて、カムイを使ってまで会いたかったんですよ」

「あー玉緒。はずかしいから、もう止めて。この通り」

 本気で恥ずかしいのだろう。姉は顔が見えないように頭を下げた。玉緒さんも一息ついて口を噤む。

 いや、ちょっとまて。

 何で、母さんのカムイを姉が持っている?

「まさか、お姉ちゃん」浮かんだ想像を口にしようとしたとき、姉がゆっくりと立ち上がった。

 いままでの慌てようが嘘のように静かで……悲しそう。

「盛者必衰。いつか人間は落ちる。ならいっそのことピークを維持できるうちにってさ……申し込まれたとき、躊躇ったけど、断ること無いし……でも、もうとっくにピークは過ぎてたと思いたいな」

 カーテンの隙間からの光に照らされた姉は、母親の命を奪った拳を固く握り締めていた。

 

 そっか。母さんは逝ったのか。素っ気ない淡白な哀悼を心で呟いた。

 私はへーきだよ。色々あったけどさ、母さんは母さんだった。多分、墓参りに行ったら化けて出てどやされそうだから、しばらくは行かない。お休み――。


「そろそろ、彼、帰って来ますね。お蕎麦、ゆでますね」

 五分ぐらいの黙祷を終えて、玉緒さんが立ち上がる。TVはニュースが終わって、お笑いの特番が始った。

「今日も暑かったから、あいつバテたんじゃないか? 蕎麦より肉にしようよ」

「流海さん、昨日も同じこと言いましたよ。夏は暑くって当然です」

 すると玉緒さんに向かって姉はあっかべーをした。

 そして新しい煙草を咥えて、自分の家のように寝転ぶ。

「イナミ。あんたさ、ずっと寝てたから知らないだろうけれど……すっげぇむさ苦しい連中が見舞いに来てたよ。飯野って関西弁のオッサン、面白いけど声がでかいな」

「ああ、頭領だ。いい人でしょ?」

「あと半田って人と鈴木と遠藤――ああ、それから西条」

 え? 西条って、麻隅村の西条?

「お前の知り合いって妻子もちのオッサンばっかりだね。ほんとに二十代か」

 それを言うとあんたの交遊録なんて大里流関係者だけだろうが。

 ツッコミを押さえて私も寝転んだ。天井のシミを数えながら考え事をする。

 その様子が落ち込んでいるように見えたのか、姉が声をかけてくる。

「深く考えるな。拳で会話するとか、思いを乗せた一撃なんて、名の知れた武道家ですら簡単に出来ることじゃないよ。あたしだって母さんに伝えられたかどうか怪しいもん」

 姉の声に混じって、若手芸人が大爆笑をとっているネタが聞こえる。つまりそのネタで笑わせようとすることに若手芸人は成功した。笑いという反応をもってそれがみてとれる。

 私の思いは伝わったのだろうか。ありがとうとか、ごめんなさいとか色々と込めた拳は、あいつに、あいつらに、きちんと伝わったかな。

 

 きっと伝わっていない。私はそこまで強くない。

 悔しい。自分が弱いことが、ただただ悔しい。


「ま、暫くゆっくりしなよ。次があるから……あたしたちも今度は邪魔しないよ」

 そう宣言してテレビを見ようと起き上がる姉。

 私はその背中を見る。

 姉も、私の視線に気付いて振り返る。

 互いの顔を見て会話をするなんて、中学生以来かな。

「絶対?」

 私が強く聞き返すと姉は、真顔で頷いた。



「ねぇ、お姉ちゃん。あれから身長伸びた?」

「さあね。でも、小さいってよく言われるよ」

「そう……あいつは、どうなのかな」



 ◆

 

 そこは天上の月と湖底の月に挟まれた人間のうつわという世界。

 湖は己の心。

 上から照らす光は神居カムイの恩恵。

 下から照らす光は異土イドの思念。


 無数の鎖で縛られ、椅子に座らされている少年が音もなく湖面に浮んでいる。


「残念だったな。太極者たいきょくしゃになれなくて」

 湖底の月――異土イドから浮かび上がって来た少年は、鎖に縛られた少年に問う。

「しかし、太極者たいきょくしゃって何だったんだ? お前はどうしたかったんだ?」

 鎖に縛られた少年は答えない。

 ただ、静かに悠久の時を過ごすだけ。

「あなたの嫌いな。そのようなものです」

 天上の月――神居カムイから舞い降りた少年が告げる。

「数多のカムイを宿せ、異土イドも知り得る人間――そんなものを追いかけるほど『アイヌ』は疲れていた」

 鎖で縛られた少年の髪を、抄くように指を這わせる。神居カムイから来た少年は静かに、眼を伏せて言う。

「おかしなものですね。あなたの世界なのに、あなたが身動きできないなんて」

「そして世は事もなし――それを失敗という」

 そう呟いて、異土イドから来た少年は二人に背を向け、少しずつ湖底に沈んでいく。

 別れ。しかしそう長くない時間を過ごせば、いずれ再会できる。

 それを神居カムイから来た少年は知っている。神居カムイにある『図書館』で知ったから。

「よろしいのですか。ここはあなたの世界でもあるのですよ」

 はんっ、と異土イドから来た少年は鼻で笑う。

「お嬢様に言っておけ。あんたの拳は軽すぎる、そんな拳で人間は揺るがない」

 神居カムイから来た少年は、沈み行く少年の背中を見る。

 異土イドから来た少年は、輝く瞳で二人を見て、笑う。

「でも、お前は救われた。次こそはそいつを救ってやれとな」

 神居カムイから来た少年は微笑み、そして、丁寧に、敬意を払ってお辞儀をする。




 少年の目の前には、いつもの扉。

 どうやら『うつわ』に侵入している間、機械のように仕事をして、来た道を辿って、ここまで戻ってきたようで――危なっかしい、もっと気を入れろ。そんな苦言を彼女から聞かされそう。

――しっかりしなければならない。自分は彼女に贖罪しなければならないのだから。

 そのためにまず、少年は身だしなみを整える。

 

 扉を軽く叩く。

 そして、

「只今戻りました――お嬢様」

 扉の向こう側から返事が聞こえる。古ぼけた扉をゆっくりと開ける。

 すると少し、戸惑う。いつもより、人数が多い。

 煙草を吸う女の人。

 小さいのに大人びた雰囲気をもつ女の人。

 でも、いつもの、変わらない彼女もいる。

 少年がこれからも共に生きていく相手が、そこにいた。


               了



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