第11話

 「あいつに、わざと知らせたんですか?」

 「そうだ。いけなかったか?」

 「別に」

 頬に伸ばされた小田島の手を、ハルは優雅な動きでかわし、ゆっくりとモニターの並ぶ壁側に立った。

 「聡明な小田島さんに限って、そんなことないってわかってますけど。あいつと張り合おうなんて思ってるならムダですよ。貴方とあいつは俺にとって全く別の存在だ」

 「ずいぶんひどい言われようだな」

 おどけて肩をすくめた小田島にハルは見惚れるほど綺麗な笑みを向けた。

 「そうやってお前はいつもはぐらかす」

 「はぐらかされてるなんて、思ってたんですか?」

 「自分がどれだけずるいかなんて知りもしないだろ?」

 「騙そうとか、誤魔化そうとか、そんなこと考えたこともない。これが俺です」

 ハルは言いながら腕を広げた。何一つ隠し事などない、そう笑みの中で甘く囁く。

 「俺はお前が怖いよ」

 ハルと同じ仕草で小田島は腕を広げた。言葉に反してその微笑みはうっとりとしているようにも見える。

 「怖い?俺はいつも貴方のいいなりになってるじゃないですか」

 ハルは腕を下ろすとゆっくりと小田島に歩み寄りその肩に額を押し当てた。

 「心にもないことを」

 ハルを抱きしめながら小田島が呟く。こうして意のままに操られていることは痛い程わかっている。それなのに、ハルから離れることは想像さえできない。何もかも彼の手の中だ。それを客観的に認識できることが幸か不幸か、小田島にはわからなかった。小田島は小さくため息をつき、垂れ下ったままのハルの手をそっと持ち上げた。史瀬が目にしたはずの独特のうっ血。

 「どうして、こんな傷ばかり作る?」

 傷じゃないですよと、小田島に撫でられた手首に触れハルは微かに笑った。

 「時間が経てば消える物は、傷じゃない」

 「へ理屈だな。痛まないのか?痣になってる」

 「気になるほどじゃないですね」

 「どんな人間なら、お前を好きにできるんだ?」

 どんな思いから発した問いだったか。ハルは小田島の眼差しを真っ直ぐに受け止め、どういう意味かと聞き返す。

 「そのままの意味だ。お前はどんな人間が相手なら言いなりになる?」

 小田島の言葉にハルは笑う。

 「小田島さんの言いなりにも、なってるつもりですよ」

 「よく言う」

 「どんな人間か……考えたこともなかったですね。例えば俺にとって神のような存在だって言ったら、納得しますか?」

 「お前にとっての神なら、きっと全人類の支配者みたいなもんだろうな」

 「面白いですね、それ」

 ハルは僅かに首を傾げるように小田島を見た。そして甘く淀む空気を立ちきるように

 「あいつに何かしたら、殺しますよ」

 見惚れるような笑みで囁く。小田島はゆっくりとハルの髪を撫でた。

 「怖いな。そんなに彼が、好きなのか?」

 「好き?」

 小田島の手を取って、ハルは少しだけ目を細めた。

 「史瀬くんが欲しいのか?」

 小田島の胸に、微かな痛みが走る。それが嫉妬と呼ばれる感情であることは既に知っていた。手に入れた物を失う痛みではない。それは、手に入れられない物をそうと確信する痛みだった。

 「欲しい、そうですね。そうかも知れない」

 「お前が、何かを欲しがるなんて、珍しいな。抱きたいってことか?」

 「そういうのには不自由してないですよ」

 ハルは臆することなくそう応じ、小田島の手を引き寄せて指先に目を落とした。何の意味もない、そんな仕草だった。

 「たぶん、欲しいじゃ足りない。必要なんだと思います」

 「必要?」

 顔を上げたハル。僅かに傾げられた首筋の薄闇で輝くような白さに誘われ小田島はハルの首に指先で触れる。この男に、必要だとまで言わせるあの少年は何者なのだろう。

 「どうして、史瀬くんなんだ?」

 それは嫉妬と呼ばれる感情か。低く掠れる小田島の声をハルは黙って聞いた。

 「碓氷」

 焦れるような声。答えを求めるように小田島がハルの両目を覗き込む。ハルは口元だけで微かに笑った。

 「何て答えれば、納得してくれますか?」

 ハルは囁き、小田島の頬に手をかける。

 「俺は、小田島さんを納得させられるような言葉は持ってない。貴方は俺が何と言ったところで満足なんてするわけない。どんなに言葉を尽くしても、貴方にはきっと理解できないから」

 俺と、一際顰めた声でハルは柔らかく囁く。

 「史瀬の秘密です」

 耳元に囁かれた言葉は媚薬のように一瞬で全身に広がっていく。嫉妬と陶酔の眩暈の中で小田島はハルを抱く腕に力を込める。触れている間だけ、ハルは自分のものだと思えた。しかし、それさえも幻だとハルは冷酷に告げる。

 この歪みのような微笑みは、拒絶なのかあるいは軽蔑なのか。

 ハルには自分のような相手が何人もいる。その事実を、これ程碓ハルに焦がれる自分が受け入れていることを小田島は時折不思議に感じた。

 しかし、受け入れられなかったところで何も変わりはしない。責めたところでハルは何も感じないだろうし、そもそもそんな権利は自分にはないこともわかっている。そして、何より、ハルを自分だけのものにしたいという願いがどれ程無謀で分不相応なものかということも知っている。

 「これでいい」

 「小田島さん?」

 甘く輝くような飴色の髪に口づけながら小田島は囁く。

 「俺はいい。でも、お前は幸せなのか?」

 唐突な問いにハルが顔を上げる。何に例えてもその輝きには遠く及ばない稀有なまでに美しい瞳が、不思議そうにも呆れているようにも見えた。

 「何の、話です?」

 「この時間を、お前は無駄とは思わないのか?」

 「俺に飽きたってことですか?」

 「自分が、あり得ないと思うことを、お前は確かめるのが好きだな」

 小田島の言葉にハルは微かに笑った。その表情には何の意味もないのだろう。そんな空ろな笑い方だった。

 「暇つぶしにもならないだろうに。生理的な欲求でもないだろ?」

 「小田島さんが、好きだからですよ」

 「そう言われて、嬉しいと思えるのはお前を理解してない人間だけだ」

 お前はと、ハルの頬に手のひらを押し当てながら小田島はその瞳を覗き込む。そこには決して自分が映らないことを確かめようとするかのように。

 「何も欲さない、求めない、望まない。お前みたいな人間がそれでも生きることを選び続けてることが、俺には不思議なくらいだ」

 「今日はずいぶん辛辣ですね」

 ハルはまた口元だけで微笑んで小田島の指先にそっと指をかけた。

 「その時がくるまでの暇つぶしですよ。人が生きることに意味なんてない。快楽も、殺意も、愛も、みんな夢みたいなものでしょう。どうせ時が経てば、それが本当に存在したかどうか、本人にさえわからなくなる。強い感情は、その瞬間人の世界を支配できても、過去になれば衝動とか勘違いとか気の迷いとか、せいぜいそんな言葉に置き換えられて消えていく」

 ハルは小田島の手を頬から引き離すと、その手にそっと口づけた。わずかに上目遣いで微笑むハルに小田島は息を止める。

 「貴方ほどの人が、そんなことで迷ってどうするんです?」

 自分の胸の内を、全て正確に言い当てられたと小田島は感じた。ハルは何もかも知り尽くしている。そしてそれが、自分を惹きつけて離さないハルの魅力でもあることにも気づいている。

 「貴方が、一番知ってるんじゃないですか?」

 僅かに顔を傾け、ハルは微笑みに限りなく似た表情を浮かべた。

 「俺が空っぽだってこと」

 「碓氷」

 ハルは、輝かしい痛みだった。その刃に、その毒に、どこまでも深く傷つけられながら落ちていくことが誇らしくさえある。

 自分を遙かに凌駕した存在として、ハルの与える屈辱を、絶望を、苦悩をその全てを、魂の甘露のように感じていた。

 何という存在なのだろう。

 破滅は、ひれ伏したいほどの神々しさと、この世の物とは思えない美しさで人の形をとっていた。

 敵うわけがないと、小田島はずっと昔、そう悟った。まだ少年と呼ぶにふさわしい年齢のハルに。



 ハルがくれたIDとパスワードは間違いなく本人のものだった。最初は警戒して、誰でも使用できる施設内のサイトにログインする為に使ってみたが何の問題もなかった。しかもそれだけではなく、ハルのIDなら施設内のほとんどのデータへアクセスできることがわかった。資料室への出入りもハルのIDを利用すれば簡単にできた。何度目になるのか、素良はキャビネによって細かく区切られた資料室の中で、野々宮ではない、ある男の資料を探していた。それはただの思いつきだった。しかしもしその人物のデータが残っていれば、野々宮にも近づけるはずだと素良は信じていた。

 あった、素良は吐息のような声で呟き、キャビネを開けた。探していた人物の資料を開くと、すぐに顔写真が飛び込んできた。

 「もう手を引きなさい」

 突然腕を掴まれ、素良は驚いて顔を上げた。

 「彼にとって、君は……最愛の娘なんだろ?」

 小田島に掴まれた手を素良は力任せに振り払い、ファイルをキャビネに押し込んだ。

 「先に言っておく。俺は碓氷ほど君に優しくも甘くもないよ」

 小田島の冷たい眼差しに素良は背を向け部屋の外に飛び出した。これ以上ここに留まっていてはいけない。本能がそう警鐘を鳴らした。小田島はずっと、自分があの部屋に出入りしていたことを知っていたのだろう。しかし今日になって急に、それを邪魔した。その理由は、素良には一つしか思い浮かばなかった。

 以前教えられたハルの研究室の前で、素良は足を止めた。ハルはいつも不意に姿を現すが、探そうとしたことはこれまでなかった。この部屋を訪れれば、ハルに会えるのだろうか。ドアを軽くノックすると、しばらくの沈黙の後、内側からドアが開いた。

 「少し、いい?」

 どことなく緊張した面持ちの素良を、ハルは微かな笑みで部屋に迎え入れた。

 「何かわかったのか?」

 ハルはデスクに腰掛けながら素良を見た。素良はドアの傍に佇んだままそんなに、と首を横に振った。ハルはそうかとかすれた声で呟いた。

 「野々宮は、仮面の皇帝って呼ばれてるけど、神界の支配者とも呼ばれてる」

 「よく調べてるじゃないか」

 目についたタロットを手に取りながらハルは口元だけで微笑んだ。

 「意味はわかってるのか?」

 「アツィルトは神の世界って意味なんでしょ?その支配者って、どんだけ自信あるのかって思ったけど」

 「アツィルトも皇帝のカードも属性は同じ火だ。火は攻撃性の象徴でもある」

 「それだけ、危険な存在ってこと?」

 「さぁ。あるいはもっと他に意味があるのか」

 ハルの言葉に、どうして、と素良は独り言のように呟く。

 「仮面の男が、野々宮だってわかるの?」

 「つまり、同じ仮面をつければ、誰でも野々宮になれる、そう言いたいのか?」

 カードから目を上げ、ハルはゆっくりと視線を素良に向けた。頷く素良に、なるほどと呟き、再び手の中のカードへ目を落とす。

 「野々宮の周りで、いろんな人間が消えてるみたい。ドールって、女の子もそう」

 「ドールの正体なら、知ってる」

 ハルの言葉に驚いたように素良が顔を上げた。

 「文字通り、ドールは野々宮の人形だ」

 どういう意味かと眼差しで問う素良にハルは口元に湛えていた微笑を濃くした。

 「そのままの意味さ。飾りでも玩具でも道具でもある存在。つまり、野々宮にとっては人間じゃない」

 「何を、知ってるの?」

 断定的なハルの口調。まるでその目で確かめたことのあるような口ぶりに素良は言い知れない不安を覚える。

 「昔、俺がドールを殺した。そう言ったら信じるか?」

 息を止めた素良。その瞳を微かな笑みを湛えたままハルがじっと見つめる。

 冗談だ、ハルは笑って手の中のカードをデスクに置いた。

 「ドールはある日を境に姿を消した。だから殺されたとも言われてる」

 「野々宮の、娘なんじゃないの?」

 「そういう噂もあったな。ただ本当のことなんて誰も知らない。むしろ……野々宮自身が、仮面なのかも知れないな」

 「え?」

 ハルは一番上にあったカードを滑らかに裏返した。その手指の動きはまるで手品師だと素良は目前の男を黙って見つめた。

 「例えば亡霊やファントムみたいな存在が、野々宮という男を演じているのかも知れない」

 「野々宮は実在しないってこと?」

 ハルは老人がランタンを手にした陰鬱な雰囲気のカードを見つめたまま、惜しいなと呟いた。

 「碓氷?」

 「野々宮は確かに生きてるさ。一人の人間として。この世には、存在しないはずの人間なのに」

 「何を、知ってるの?」

 素良の問いに、ハルは静かに顔を上げた。

 「何か、知ってるんでしょ?」

 真っ直ぐな素良の眼差しに、ハルは軽く肩を竦め、手にしていたカードを束の一番上に戻した。

 「俺が知ってることなんてたかが知れてる」

 「だったら何を調べてるの?」

 素良は引きさがらなかった。何故、とからかうような眼差しをハルは素良に向けた。

 「そんなにむきになってる?探偵ごっこでもしたいのか?」

 「わたしには言えないようなこと?」

 「目的なんてないさ。俺はただ、自分がいるべき場所で、流されるべき方向に流されてる。ただ、それだけのことだ」

 他人事のようにハルは告げ、それよりと囁き素良の髪に指先で触れた。

 「お前はそろそろ手を引いた方がいい」

 「……どうして?」

 「個人で動いてどうこうできる集団じゃない。もう知ってるんだろ?野々宮の身辺を調べてたフリーのライターが二人、消えてる」

 「それって、脅し?」

 気丈にも自分の指を片手で掴んで引き離した少女にハルは甘い笑みを向ける。

 「心外だな」

 「やめてっ!」

 「これでも心配してるんだ」

 素良の腰を抱き寄せ、ハルは囁く。

 「離して」

 「好きな奴がいるんだろ?」

 間近に顔を覗きこまれ素良は驚いたようにハルを見上げた。

 「やめておけ。その感情は、お前たちを幸せにしない」

 「っ!」

 素良は力いっぱいハルを突き飛ばした。羞恥と恐怖。引きつった美しい少女の顔にハルは激しい感情を読み取った。

 「誰にも言わないさ。もちろん本人にも」

 俯くように視線を反らしたハル。素良は逃げるようにハルの部屋から出た。誰も知らないはずの秘密を、感情を、何故ハルは知っているのだろう。自分にさえ認められない思い。ましてや人前に出すことなど考えられない。

 何も望んではいない。何も叶わなくていい。だからせめて、その人の幸せを祈っている。ただそれだけのことも、許されないのだろうか。

 「地獄だろ?そんな感情」

 一人になった部屋でハルは誰にともなくそう呟く。引き当てたカードは悪魔。堕落した男女が快楽の鎖の下、神への冒涜を示す悪魔に繋がれている。図柄の構成は、恋人のカードによく似ている。しかし自身の感情を少しでも誤れば、人は簡単に堕ちていく。ハルはカードを元通り裏返し、そっとデスクに戻した。

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