第10話

 艶のある漆黒の髪とペイルブルーのワンピースの対比は、間接照明の下でもよく映えた。西園寺は切りそろえられた綺麗なボブを無造作にかきあげた。指の先まで手入れの行き届いた綺麗な手。史瀬と目が合うと、意味ありげに微笑んで見せる。

 「碓氷はずいぶん史瀬くんにご執心みたいね」

 睫毛の長い、くっきりとした目には好奇とも嫉妬ともつかない微かな輝きが宿っている。史瀬は戸惑って沈黙した。

 少しだけ羨ましい気もするけど、そう言って西園寺は史瀬から視線を外した。

 「あの子は、史瀬くんを幸せにはしないと思う」

 「どういう意味ですか?」

 意地悪で言ってるんじゃないの、西園寺は史瀬の肩に細い指をそっとのせた。

 「碓氷は、自分自身を幸せにしない。自分を幸せにしようとか、幸せになろうとか、これまで考えたこともなかったと思う。だから、碓氷に限らずね、自分自身を幸せにできない人間は、やっぱり他人も幸せにはできないの」

 俺は、と言いかけた史瀬の唇に、西園寺は人差し指で触れる。

 「あいつに幸せにしてもらおうなんて思ってない、そうでしょ?」

 「ええ。俺とハルは、ただ共同研究者ってことになってるだけで……」

 西園寺が不意に目を見開く。どうしたのかと戸惑ったのは史瀬の方だった。

 「ハル……碓氷の前でもそう呼んでたわね」

 「何か?」

 そう、呟いた西園寺は何かを言いかけ思いとどまったように小さく笑った。

 「碓氷にとって、自分の名前は、呪いみたいなものなんですって」

 「呪い?」

 「そ。わたしも詳しいことは知らないけど、自分を嫌うのは、その名前のせいなんじゃないかって、思ったことがあるの。あの子は、何も話さないけど。名前を呼ばれるのがとにかく嫌いなのよ……変わってるでしょ?タバコ、吸ってもかまわない?」

 「どうぞ」

 細い指に挟まれた細いタバコ。西園寺は艶やかな唇からゆっくりと煙を吐いた。

 「特別な存在なのね。史瀬くんが」

 「俺が、ですか?」

 「そうでしょ?誰にも名前でなんて呼ばせなかったのよ?例え、付き合ってる相手であっても」

 それはどういう意味なのか。そう尋ねられなかったのは、西園寺の悲しげにも見える微笑みの中に、ハルに対する思いを見てしまったからなのだろう。

 「仁さんはきっと、私のことも嫌いだと思うわ」

 「どうしてですか?」

 「あなたのお父さん、坊主憎けりゃ、ってタイプじゃない?ごめんなさい、冗談よ」

 西園寺は笑いながらタバコの灰をガラスの灰皿にそっと落とした。

 「仁さんは、優しいし、誠実だし、まともな人だから。あんな場所にいてまともでいられるのって、すごいことだと私は思うけど。その分、大変な思いもしてるんだろうなって」

 少しだけ悲しそうにも見える笑み。それはどこか仁を憐れんでいるようでもあった。その理由を知りたいと史瀬は一瞬だけ思ったが、西園寺に見つめられ言葉を失う。

 「人間って、どんなことにも慣れるのよ。慣れて、どこかが少しずつ麻痺していく。精神分析なんてやってると、自分が人間を超えた存在にみたいに思えてくるの。他人の痛みや苦しみや喜び、そんなものが手に取るようにわかるようになって……それを、与えることも奪うこともある程度はできるようになってね。自分も同じ感情を持つ、同じ生き物だってことを忘れてしまいそうになる」

 西園寺は、何を言わんとしているのか。史瀬はじっと次の言葉を待った。

 「碓氷が来て、多かれ少なかれ、みんな動揺したの。自分たちは、自分は、少なくとも普通の人間より優れた人間だっていう感覚が、どこかに、無意識に根付いてた。医者みたいに、誰かを救う為の研究じゃないから、なおさらね。実験とか観察対象として、他人を見てるわけじゃない?だから無意識であっても、どこかでそんな奢りを抱いていたんだと思う。けど、碓氷がきて、まだ子どもって呼べそうなあの子が来て、何もかも変わった。碓氷に比べたら、自分は普通の人間だって、皆、そう気付かされた」

 「あいつが、天才だってことですか?」

 史瀬の言葉に、そうねと西園寺は呟いた。

 「天才、または人間の皮を被った高次元の存在、誰かがそんな風に言ってた。言いたいことはよくわかったの。碓氷は、異質だから。個性の枠を超えて、人として、異質なの。宇宙人みたいなイメージと言えばわかりやすいかしら。だけど、そんなことどうでもよくなってたの。わたしはただ、碓氷との恋が楽しかった」

 西園寺は長い睫毛を伏せ、微笑むように呟いた。

 「恋をしてたのはわたしだけで、碓氷はただわたしを見てただけだったと思うけど。甘くて、憂鬱で、気だるい時間が、私には心地よかった。誰かさんみたいに、魂ごと持ってかれる程のめり込まなかったのは、自分が女だったからだと思うの」

 西園寺は悪戯っぽく史瀬を見つめる。

 戸惑ったように視線を揺らす史瀬から西園寺は満足げに視線を反らし、ゆっくりとグラスを手に取った。

 「わたしは碓氷と優劣なんか競わない。競おうと思って、勝てる相手じゃないのもあるし……男は、わたしにとって同じ人類だけど別の生き物なの。それに、碓氷は……他人に何でも与えることができる」

 「何でも?」

 史瀬の呟きに似た問いに、西園寺は楽しそうに笑って手の中のグラスを揺らした。

 「そうよ。何でも与えられて、何でも奪える。本人もそれをよくわかってるの。悔しいけど……碓氷に弄ばれるのは心地いい。実体のある、運命って存在に翻弄されてるみたいで」

 わかる?西園寺の視線に史瀬は首を左右に振った。

 「そうでしょうね。史瀬くんからも、碓氷と同じ気配がするから……似てないのに、どうしてかしら。貴方の目を見てると、わたしは不思議と碓氷を思い出す」

 綺麗にカラーリングされた爪は、ガラスのようにキャンドルの光を映して輝く。ほっそりとした指で史瀬のあごを引き寄せた西園寺は、見入られたかのようにその瞳を覗き込んだ。

 「あなたたち、何を隠してるの?」

 え……史瀬の漏らした吐息を、西園寺は聞き逃さなかった。常人とはかけ離れた何かを、ハルも史瀬も確かに持っている。それは何なのか。傍からは決して垣間見ることのできない景色が、二人の中には広がっているのだろう。そこにあるのはきっと、同じ景色。

 「秘密があるのね。史瀬くんにも。たぶん、碓氷と同じ秘密」

 グラスを持っていたせいか、頬に滑り上がってきた西園寺の指をひどく冷たいと史瀬は感じた。

 「貴方は知らないのかしら」

 黒目がちな艶やかな西園寺の瞳が、長い睫毛の下でゆっくりと瞬く。

 「碓氷は知っている。けど貴方は知らない、あるいは気付いていない、共通の秘密。碓氷はそれに気づいて貴方に興味を持ったのかも知れない……わたしの憶測だけど」

 不意に離れた指先と大きな瞳。西園寺が身を引くと深みのある甘い香りが微かに漂った。



 青と黄の世界。

 静けさと光が、どこにも存在しない空間の中でさざめいてる。

 遠くから、赤がこちらに向ってくる。やがて青の静寂は破られ、赤と橙が、踊る影のように立ち上る。

 あれは炎だと、夢の中で史瀬は気付いた。

 ぱちぱちという火のはぜる音が聞こえる。焦げ臭い空気。

 立ち上る炎をさらに覆うように、暗い灰色をした煙が巨大な手を伸ばす。

 誰かの叫び声。

 何より恐れたその声が、どこかでこの名を呼んでいる。

 鼓動が速まり、呼吸が浅くなる。酸欠を起こした魚のように、吸えない空気を史瀬は必死に吸おうとした。

 「っ!」

 いつの間に眠っていたのか。史瀬は暗くなったアトリエで目を覚ました。

 「よく眠ってたな」

 その声に驚いて振り向けば、背後の壁にハルがもたれていた。

 「いつからいた?」

 動揺を押し隠すように、史瀬はソファに座りなおし、額を手のひらで覆った。まだ動悸が治まらない。鼻には物が燃えた後の独特な臭気が残っている気がした。

 全て夢、何もかも幻だと思っても、現実が掴み切れない。

 「怖い夢でも見たのか?」

 「ハル……」

 その気配を感じさせる間もなく、ハルは史瀬を抱きしめた。スパイシーな清涼感と微かな甘さを感じさせる香りが、風のように空気を一変させる。ハルの腕に抗おうとして、しかし史瀬にはそれができなかった。

 ハルの体温か、夢の影響か、ひどく熱いと史瀬は感じた。

 「どうした?」

 ハルの手が優しく背中を撫でている。その声もいつになく穏やかだった。

 身体が重い。ハルの身体を押して離れたいと思うのに、腕に力が入らない。

 何も答えない史瀬にハルはそれ以上何も聞かなかった。

 「雨が、降るかも知れないな」

 独り言のようにハルは呟く。僅かに顔を動かしたのが史瀬にもわかった。まだ雨音は聞こえない。室内には何の音もない。

 ハルは飽くことなく史瀬の背を撫でながら窓の外を見つめていた。真っ赤な夕焼けは僅かな時間の後、黒い雲に隠された。

 「雨の夜は好きじゃない」

 自嘲にも聞こえるハルの声に、史瀬は何故と問うように微かに顔を上げた。

 「嫌な記憶しかない」

 ハルは史瀬の背を撫でる手を止め、不意に史瀬を抱きしめた。

 雨が、とかすれたハルの声がした。

 「何もかも消し去るなら、俺は何より先に消えたい」

 「それ」

 ハルの腕を押しのけるように史瀬がその顔を見上げる。ハルはああと言って笑う。

 「俺が初めて見たお前の絵だ。『雨が何もかも消し去るなら』あの絵を見た時、気付いた。お前の絶望と俺の絶望は同じ色をしてるって」

 史瀬は今度こそハルの胸を押し、ソファに座りなおした。頭が痛いのか片手で額を覆いじっと俯く。やがてどれくらい経ってからか、ハルを見ずに史瀬が声を発した。

 「記憶がないって、本当なのか?」

 ゆっくりと顔を上げた史瀬。ハルは驚いた様子もなく、誰から聞いた?と問いかけた。

 「まぁ、いい」

 答えに詰まった史瀬から顔を背けるように、ハルは窓の方へ視線を向けた。何の感情も伺えない芸術的なほど整ったハルの横顔を史瀬はただ見つめ続けた。

 「俺はこの街で生まれて育った。けど、もう、自分の家に帰る道はわからない」

 ハルに真っ直ぐに見つめられた史瀬は息を止めた。悲しさも寂しさも、ハルは感じていないように見えた。

 「それが、絶望なのか?」

 まさか、と呆れたようにハルは少しだけ笑う。

 「言っただろ?俺とお前の絶望は、同じ色をしてるって」

 何もかも見透かしたようなハルの眼差し。俺は、と耐え切れなくなったように史瀬は視線を外した。

 「俺は絶望なんてしてない」

 低く掠れた声にハルはそうかと微かに目を細める。

 「お前がそう言うなら……それが、お前の生き方ってことなんだろうな」

 「ハル?」

 頭が痛い。締め付けられるような痛みの中で史瀬はハルを見上げた。

 「顔色が悪い。早く部屋に戻って休め」

 子どもにそうするように史瀬の頭を一度だけ撫でてハルは史瀬に背を向けた。

 「何か用があったんじゃないのか?」

 呼び止めるような史瀬の声に、肩越しに振りむいてハルは少しだけ笑う。

 「ないよ。お前の顔を見に来ただけだ」

 はぐらかすようにそう言い残し、ハルは部屋を出ていった。去り際、ハルがつけてくれた明かりが眩しくて史瀬は目を閉じた。闇から光の中へ引き上げられた時、ようやく現実を取り戻した気がした。

 ハルが言った通り、窓を打ち始めた雨。そういえば、父が亡くなった夜にも、こんな雨が降っていた。

 雨の夜が嫌いだと言ったハル。これから始まる長い時を、どこでどうやって過ごすのだろう。そして、これまで数えきれないほどあったはずの雨の夜を、どう過ごしてきたのだろう。

 何を思い、ハルは生きているのか。あるいは、どこへ向かいながら?

 呼び止めればよかった。遠くから響くような重い頭痛を感じながら史瀬はそう思った。



 雨の夜以来、ハルはアトリエを訪れなかった。どこで何をしているのか。染谷か小田島なら知っているのかも知れない。そんな考えは浮かんだが、ハルを探す理由が自分にはない気がして、漫然と三日が過ぎた。そんな時、部屋からアトリエに向かう途中、史瀬は小田島に呼び止められた。

 「これを、碓氷に返してくれ」

 「何ですか?」

 小田島は笑って史瀬の手に小さな金属片を渡した。

 掌で微かに光を反射するのは、ハルのピアスだった。そう気付いた瞬間の微かな嫌悪感を、史瀬はどう受け止めればいいのかわからなかった。ピアスを外すような、あるいは誰かが外せるような状況。ハルには日常的な隙はないと思っていた。

 「直接、返した方がいいんじゃないですか?」

 無表情の中に微かに読み取れる苛立ち。小田島はピアスを返そうとする史瀬の手を片手で包み込んだ。

 「いや。君から返してもらった方がいい」

 「どうしてですか?」

 腕を引こうとした史瀬の手を、小田島は離さなかった。

 「俺がそうしたいからだよ」

 史瀬は小田島から視線を外すと黙って腕を引いた。わかったとは言わなかった。

 「ありがとう」

 小田島はにこやかに微笑んで去っていった。残された史瀬は手の平に輝くピアスを見つめた。

 碓氷には、近づかない方がいい。そう、仕事以外では。誰ともなく、皆がそんな話をしていた。碓氷にはよくない噂が絶えないからと。

 午後、ようやくハルを見つけた史瀬は不機嫌そうにピアスをつき返した。昼下がりのカフェテリアに、ハルは一人でいた。いつか二人で座ったのと同じ席で、頬杖をついていた。窓の外を見ているのか、その背中は全てに無関心に見えた。ハルらしくない、隙だらけの、気だるげな雰囲気が史瀬には印象的だった。

 「小田島さんから預かった。あんたに返してくれって」

 ハルは不思議そうに受け取ったピアスを眺め、ああとだけ呟いた。

 「嫉妬なんかしなくていい。お前になら、されて悪い気はしないけどな」

 「そんなもんするわけないだろ?」

 「そうか。不機嫌そうに見えるのは気のせいか」

 「どうしてわざわざ俺からあんたに渡さなきゃいけないんだ」

 苛立つ史瀬にハルはうっすらと微笑んだ。

 「小田島さんは勘がいいからな」

 その言葉の意味を解せず押し黙った史瀬を見つめたまま、ハルはピアスを左耳につけた。

 その時、ハルの手首には何かで強く縛ったような、赤い痣がはっきりと残っていた。左耳の後ろ側に回された左手の掌側と、耳の前面で甲が見えた右手の、ほぼ同じような位置に、赤い線は浮き上がっていた。

 「気にするな」

 自分の視線にハルが気付いていたことに、史瀬ははっとした。

 「お前は何も気にしなくていい」

 それに、とハルは史瀬の瞳に微かに笑いかける。

 「あの人は優しい」

 「小田島さんが?」

 ああとハルは頷き、シャツの袖を伸ばすように直した。情報セキュリティ部の部長だという小田島は、史瀬から見て得体の知れない人物だった。表面的には穏やかで知的な雰囲気を漂わせている。その点では染谷とも似ているが、何かが決定的に違う。職務には忠実そうだし、極端な不正を行っているわけでもないだろう。しかし、素直に信頼していいのかといえば、どうしてもそうは思えなかった。小田島の持っている退廃的な雰囲気には、どこかハルを連想させるものがある。ハルと深い関係にあるのならそれにも納得はいくが、親しい者同士だから似ているというわけでもない。もっと深いところに、小田島はハルを隠しているようだった。論文のことだけではない。公にさらされた秘密のような、倒錯的で自虐的な空気。それが何かは史瀬にはわからなかったが、二人には何か、自分には簡単に想像のつかないような関係があるのだろう。

 「小田島さんと、付き合ってるのか?」

 そんな問いだけで理解できるはずはないと、わかっていた。それでも問わずにはいられない。ハルのピアスを小田島が持っていたこと、ハルの手首にまだ新しい痣が残っていること。史瀬にはそれが無関係とは思えなかった。

 「付き合う?」

 ハルは楽しげに史瀬を見返した。どこかでそう問われることを望んでいたかのような喜々とした表情だった。

 「どういう意味で?」

 「別に答えたくないならいい」

 「答えたくないなんて言ってない。どういう意味でお前が聞いてるのかわからなかっただけだ」

 もういい、史瀬はそういうとハルに背を向けた。歩き出した史瀬を呼び止めるように、

 「寝たのか、それが聞きたいなら、答えはイエスだ。恋人かってことなら、ノーだよ」

 ハルの声は少しだけ笑いを含んでいるようにも聞こえたが、振り向いて確かめることはしない。何かにつまずいた自分を奮い立たせるように史瀬はそのままカフェテリアを後にした。

 「また会ったね」

 「何ですか?」

 どこかから自分とハルのやり取りを見ていたのではないかと思うほどのタイミングで、小田島は史瀬の前に姿を現した。喫煙所になっているバルコニーのガラス戸を開け、身を乗り出して史瀬の腕を掴む。史瀬は咄嗟に小田島の手を振り払ったが、その拒絶は史瀬自身が驚くほど激しく、強いものだった。

 すまない、小田島は笑って両手を上げて見せた。

 「碓氷は、君のものなのか?」

 「どういう意味ですか?」

 唐突な問いに史瀬は眉間にしわを寄せた。真崎史瀬という少年がこれほど好悪の感情を露わにすることが小田島には意外で仕方なかった。小田島の知る限り、史瀬は物静かで、美しいが無機質な少年のはずだった。

 「違う、そう言ってるんだよね?いや、からかってるわけじゃない。もし碓氷が君の恋人なら、謝ろうと思っただけだ」

 「何の話ですか?」

 苛立ちを押し隠しているつもりなのだろう。けれど心理学者として様々な人間の表情を見てきた小田島には、史瀬の感じる苛立ちが手に取るようにわかった。

 「碓氷の、手首の痣でも見たんじゃないのかと思って」

 図星だなと、小田島は黙りこんだ史瀬を見返した。

 「俺の碓氷を傷つけないで下さい。君がもし俺にそう言うなら、もう碓氷にかまうのは止めてもいい」

 「そんなこと言ってません」

 「けど、君の目は俺に対する嫌悪でいっぱいだよ。俺は君に直接何もしてないのに」

 募っていく苛立ちは不安に変わる。小田島はようやく史瀬がまだ、少年と呼ばれ保護されるべき存在だったことを思い出したように、優しく笑って見せた。

 「君は、あいつをわかってない」

 史瀬は反論こそしなかったが、その目には微かな驚きと怒りが垣間見えた。

 「あいつは、そういう自分を君には見せてないんだろう。それは、碓氷にとって、君が特別な存在だからだ」

 不安は微かに溶けて戸惑いになる。どれだけ優れた頭脳を持っていようと、やはり子どもは子どもでしかない。

 史瀬はハルとは違う。小田島は不意にそんなことに思い至った。

 「誰も碓氷を傷つけることなんてできないんだ。だから君はそんな心配しなくていい。逆に、碓氷が誰かを傷つけているんだとしても、君がそういうあいつに触れることもないだろう」

 「どういう、意味ですか?」

 そうきいた強張った表情から敵意は既に消えていた。

 「踏みにじられてるのは俺たちの方さ」

 小田島は煙草をくわえ、史瀬に目を向けながら煙草に火をつけた。

 「どんなに碓氷に近づいても、支配したつもりになっても、それは碓氷が望むままを演じてるに過ぎない。碓氷は、相手を、自分の望む存在に変える。望むことだけをさせて、望むことだけを言わせる。言ってる意味がわからない、そんな顔だな」

 気を悪くした様子もない。小田島は細く長く煙を吐きながら腕を組んだ。

 「碓氷には、他人が次にすることがわかるんだ。そして、それを変えることができる。勿論相手は気付かない。無意識に自分が操作されてるなんて。俺はあいつに出会って研究を止めた。怖くなったからだ」

 「怖くなった?」

 「ああ。世の中には天才と呼ばれる存在がいる。それに、天才の中には悪魔もいる。そんなことにようやく気がついた。俺は天才でもないし、悪魔にもなれない。いつまで経っても少し賢いだけの哀れな子羊だ。碓氷に会って、それがわかったんだ。染谷先生はすごいと思うよ。あんなのを臨床の相手にしてる。俺にはとてもできない」

 小田島の表情は静かだった。悲しみも、憎しみもない。自分に対する憐れみも嘲笑も感じ取れない。それがかつては心理学の研究者だった男のプライドなのだろうかと史瀬は思った。

 「ハルは、悪魔ですか?」

 史瀬の問いに小田島は少しだけ驚いたような顔をした。

 「まぁ、俺にはそう見える。碓氷を、天使だと思ってた時期もあるし、今でもそう思いたくなる瞬間はある。けどそれも、あいつの作り出した幻だ。堕落なんて、生ぬるいもんじゃない」

 あいつは、と小田島は不意に微笑んだ。

 「例えるなら、あいつはタナトスだ」

 「タナトス?」

 「エロスは生存欲求、タナトスはその反対、自己破滅願望だ。フロイトの欲動二元論に出てくる。ギリシャ神話だと、神格化された死そのものでもある」

「ハルが?」

「ああ。破滅に向かう人間には御しがたい力……俺にとって碓氷はそんな存在だ。それに、俺以外の人間にとってもきっと似たようなもんだろう。そう感じない、君の方が特異なんだと俺は思う」

 自分の知らないハルの一面。けれど、ハルが破滅に突き進む力そのものだと言われることには妙に納得がいく。何も望まず、何も欲しがらず、けれどハルは迷うことも留まることもなくただ進み続ける。その行きつく先が決して明るいものにはなりえないだろうと、史瀬にもそんな気がする。

 引き止めて悪かった、小田島は不意にそう告げるとタバコを灰皿に押し付け史瀬の傍らをすり抜けた。

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