狐ノ嫁入リ

さくらもみじ

【狐の嫁入り】


 年がら年じゅう引きこもりの俺が、夏祭りなんて酔狂な催しに出向こうと考えたのは、何か明確な理由があったからではない。

 身体が勝手に動いたというか、得体の知れない何かに招かれたというか。

 特に今日のような天候の日は、会いたくもない顔見知りにばったり会ってしまう危険性が高いというのに――なぜかこの場所を訪れたくなった。

 妙な心境もあったものである。

 まあ、とにもかくにも。

 俺が何を考えたところで、はたから見れば冴えない男がひとり、恋人同士で溢れ返った空間を、何かに誘われるように徘徊しているだけだった。

 左右に立ち並ぶ屋台から、雑多な食べ物の香りが漂ってくる。

 鉄板で旺盛に熱気を放っている屋台もあれば、水に氷と飲み物を浮かべて冷気を湛えている屋台もある。

 俺は手元に携えた小銭で、たこ焼きをひとパックだけ余興に買ってみた。

 特別、腹が減っているわけではない。

 たこ焼きが好物というわけでもない。

 きっと、ただ祭りらしさを楽しみたかっただけなのだろう。



 人と接するのは久方ぶりだ。

 元来、俺は人と触れ合うことが得意ではなかった。

 しかし、こうして久々に表へ出てみると、人波に酔うことも、たまには悪くないかもしれない。

 ほとんど足裏でしか存在が確認できない石畳の上を、人波をかき分けるようにして踏み締める。

 しばらく進むと視界がひらけ、目の前には神社の境内へ向かう石造りの階段が姿を現した。

 見上げれば、ちらほらと浴衣や甚平じんべい姿の男女が腰を下ろして、何かを食べたり談笑したりしている。

 それでも他の場所に比べれば、階段はまだ人口密度が低い方だった。

 石段の先に何か用事があるわけでもないが、もともと明確な目的を持って祭りへ訪れたわけでもない。

 再び人でごった返した喧騒の只中へ舞い戻るのも気が引ける。

 二者択一からの消去法で、俺はふらりと石段に足をかけた。



 階段も中腹に差しかかる頃。

 背中から射す強い陽の光に、ふと振り返る。

 遮蔽しゃへい物のないこの場所からは、あかね色に染まりつつある街並みが一望できた。

 地平の先まで余すところなく人工物に満たされている。

 俺は、言葉では表現できない感傷に浸ってしまった。

 と、そのとき。

「は……はっ……あ、あうっ!」

 どこからか切羽詰まった女性の声が聞こえたかと思うと――次の瞬間、背中に強い衝撃が走る。

「ぐ……っ」

 危うく吹っ飛ばされるところだったが、すんでのところでどうにか堪え切った。

 あわや、急斜面を真っ逆さまに転がり落ちてしまうところだ。

「っぶね……」

 落ち着いて見てみると、俺はどうやら無意識のうちに石段の真ん中に設えられた金属製の手すりを握っていたようだ。

 人間の無粋な気配りもたまには役に立つものである。

 ひとまず胸をなで下ろし、文句のひとつも言ってやろうと、俺は背後へ振り返った。

 の、だが――。

 そこにいたのは盛大に尻餅をついた女性。

 かなり急いでいたのか、着物が盛大にはだけられていた。

 ――ものの一瞬で、見事なまでに毒気を抜かれてしまう。

「も、申し訳ございません」

「いえ、俺は平気ですが……あ、そ、その」

「どうかなさいましたか?」

「言いにくいのですが、その……目のやり場に、困ります」

「え……?」

 一瞬硬直してから、恐る恐る自身の身体へ向けられてゆく彼女の瞳。

 自分の置かれた状況に気がついた彼女は、みるみるうちに顔色を変えた。

 彼女は咄嗟とっさに片腕で胸の辺りを覆ったが、それにより、今度は着物の裾で隠れていた太腿ふとももがあらわになる。

 あちらを立てればこちらが立たないとはこのことだ。

「あ……あう……あっ」

 激しく狼狽ろうばいする彼女。

 正直、叫ばれてしまうかと思った。

 女性が顔を真っ赤に染めてパニック状態に陥ったとなれば、次の行動は叫ぶ以外に思い当たらなかったからだ。

 今にも切れそうなほど張り詰めた緊張の糸。

 俺は首をすくめ、情けないことに目を閉じてしまった。

 しかし、一向に悲鳴が上がる気配はない。

 恐る恐る片目を開き、再び彼女を視界に収める。

「失礼、いたしました」

 予想外の一言。

 彼女は恥かしさを堪えるように口もとを真一文字に結びながらも、気品を感じさせる仕草で立ち上がった。

 自らのわきの下に手を当て、無駄のない所作ではだけた着物を直していく。

「はしたないところをお見せしてしまって……」

「い、いえ」

 俺は呆気に取られたが、脊髄反射的にかぶりを振る。

 事実、非常に眼福な光景だった。

 しかし、そんなことを口に出してしまったら、今度こそ本当に叫ばれてしまいかねない。

 口を突きかけた言葉を喉の奥へと飲み込み、堅く自粛じしゅくする。

「あの……」

 そんな俺をよそに、周囲をきょろきょろと見回しながら、彼女は言い出しづらそうに口をまごつかせた。

 俺はふと冷静になる。

 よく考えなくとも、彼女のような傾国傾城けいこくけいせいの美女が、この浮ついた催しを単身で訪れているとは考えにくい。

 きっと周囲のつがいたちよろしく、彼女にも連れ立った男性がいるはず。

 別に俺の方から束縛しているわけではないが、先ほどの過失を深刻に捉えすぎて、彼女としては離れるに離れられないのだろう。

 ならば、俺が取るべき行動はひとつだ。

「えっと……」

「ああ、本当にもう大丈夫ですよ。俺ならこの通り何ともないんで。じゃあ、失礼します」

 早口に言い終えると、俺は彼女に背を向ける。

 名残惜しい気持ちはあったが、相手の落ち度を笠に着るのは性に合わない。

 未練がましい思いを払拭するため、足早に階段を下りようとした。

 そのとき。

「ま、待ってください!」

 手をつかまれ、呼び止められる。

 その言葉には、どこか必死さにも似た感情がにじんでいた。

 もう振り返るつもりはなかったが――。

「まだ……何か?」

 ――俺は、鬼気迫るその声に負け、再び彼女の方へ向き直ってしまった。

「お願いします……どうか私を、救ってくださいませんか」



「それで……」

 夕日を望む石段に、ふたり並んで腰かける。

 周囲のつがいたちに擬態ぎたいしたところで、俺は話を切り出した。

「どういうことなのかな?」

 救ってほしいとは言われたものの、具体的なことは何もわからない。

 何者から救えばよいのかも、どのように救えばよいのかも曖昧あいまいなままでは、さすがに動きようがなかった。

 まずはとにかく、状況を知らなくては。

 俺の問いに、彼女は神妙な面持ちで答えた。

「私、追われているんです」

「へえ。そうだ、たこ焼き食べる?」

「あっ、信じていらっしゃらないでしょう!」

「いや、ひとまず信じないことには話が進まない。多少、非現実的なことには目をつむるよ。ただ、何か食ってた方が状況的に自然かと思ってね」

 彼女は周囲を見渡すと、俺の真意に気づいた様子で、うなずきながら差し出されたビニール袋を受け取った。

「まだ温かいと思うよ。誰かさんのおかげで、いちど宙を舞いそうになったけど」

「ご、ごめんなさい。もう謝ったことではありませんか」

 口をとがらせての上目遣い。

 不覚にも、俺は心を大きく揺さぶられた。

「わ、悪い悪い。とにかく食べなよ、俺も横から貰うからさ」

「わかりました。この串でいただくのですか?」

「うん、そうだよ。って、まさか初めて?」

「ええ。とても可愛らしい食べ物ですね」

 彼女は屈託なく笑う。

 しかし、たこ焼きを食べたことがないなんて。

 いや、口ぶりから察するかぎり、見ることすらも初めてのようだ。

 推しはかるに、彼女のよわいは二十前後。

 相当の箱入り娘なのだろうか。

「いただきますっ」

「あ、ああ……」

「はふ……ふ、ふっ……あむ……。う……? んんーっ!?」

 目を見開いて声を上げる彼女。

「そんなに美味しい?」

「んーっ! は、はっふ、んん、んーっ!」

 叫びながら、俺の脚をばしばしと叩く。

 何かを懇願こんがんするような瞳で見られ、俺はようやく気がついた。

「あ、もしかして……熱いのか」

 彼女は涙目でこくこくとうなずく。

 しかし、いちど口に入れてしまったものを第三者がどうにかすることはできない。

 やがて治まってきたのか、ばたつかせていた手足をぐったりと伸び切らせ、彼女は呟いた。

「ほとはほれほどあふくあいまへんれひたのに……」

 外はそれほど熱くありませんでしたのに、か。

 魂の抜けたような声だった。

「すまん、完全に言い忘れてたよ」

「……見た目は愛くるしいのに、悪魔のような食べ物です」

「ご、ご愁傷様。次からは半分に割って冷ますようにね」

「はい……」

「で、ずいぶん話が逸れちゃったな。追っ手とやらはどんな奴なんだ? ストーカーか何か? それとも、今日初めて会った人?」

 好色な連中に声をかけられない方が奇跡的と言える容姿だ。

 後者の可能性も十分に考えられる。

 が、彼女は俺の質問を受けて、力なくうつむいた。

「……言いにくいのですが」

 節目がちになった彼女を見て、嫌な予感が脳裏をよぎる。

「……身内か」

「はい……」

「実際に動いてるのは、雇われの手練てだれだったり?」

「そう、ですね」

 俺の頬を冷たい汗が伝っていった。

 考え得る中で最悪のシナリオを想定しなくてはならないだろう。

 彼女のおびえきった瞳を見れば、作り話でないことはすぐにわかる。

 こうして茶番を演じている間にも、追っ手は彼女との距離を着実に詰めているに違いない。

 しかし、無闇に動くことが自殺行為であることもまた明白な事実だった。

「特徴は」

「え……?」

「人数は。何でもいい、追っ手の情報はないか」

 真剣に問いただす俺の顔は、少し恐かったかもしれない。

 今さらだと認識しながらも、口の端を無理に持ち上げて笑みを作った。

「お逃げにならないのですか?」

 意外そうな彼女の顔。

 今の話を聞いてなお、俺が食い下がるとは思っていなかったのだろう。

「逃げるなら、君を連れて逃げる」

「なぜ、そこまでして私を」

「救ってくれと言ったのは君だろ?」

「でも……」

「ああもう、理由なんかどうでもいいんだよ。強いて言うなら――」

「強いて言うなら?」

「――下心だ」

 最高に恰好悪い言葉を言い放つ。

 彼女は一瞬きょとんとしたが、やがて堪え切れないといった様子で噴き出した。

「ふっ……ふふ、あはは……っ。あなた、正直な方なんですね」

「正直の前には馬鹿がつくけどな」

 目尻ににじんだ涙を人差し指ですくう彼女を見て、俺は少しだけ安堵あんどした。

 救いを求めてきたわりに、彼女は半ば諦めているように思えていたからだ。

「そもそも、君からが飛び出してきた時点で、俺はもう何があっても動じないことに決めたんだよ」

「え?」

 俺は彼女の頭上と背後を交互に指差す。

 黄金色の耳と尻尾がそこに生えていた。

「あ……出ちゃってました」

「出ちゃってました、じゃない。なに呑気に構えてるんだ。通りかかった人たちは、みんなコスプレか何かだと思ってくれてるみたいだけど……普通、そういうのは機密事項なんだろ?」

「そうですけれど……あの、あなた様は驚かないのですか?」

「驚いてほしいの?」

「いえ、そういうわけでは……ちょっと、意外だっただけです」

「とにかく、今は追っ手に関する情報をくれ。何でもいい。少しでもいい。相手はあんたと同じ、その……狐、なんだろ」

「はい」

 真っ直ぐな瞳で、彼女は自分が狐であることを認めた。

 この耳と尻尾は、やはりよくできた作り物ではなかったらしい。

「恐らく、それほど頭数は揃えてこないかと。騒ぎは起こしたくないでしょうから」

「逆を言えば少数精鋭ってことか。厄介だな」

「ええ」

「あんた……その、人型の姿は割れてるのか?」

「いえ。実は私、化けるのはこれが初めてなので。脱走した折にも、恐らく誰にも見られてはいないはずです。ただ、その……匂いまでは……」

「そうか……」

 相手は狐だ、人間などとは比較にならないほど嗅覚に優れている。

「……困ったな」

 頭を振り絞ってもいい案が出てこない。

 たとえ闇雲に逃げたとしても、執拗しつように追跡されればいずれ見つかってしまうことは確実だ。

 何か策を打たなければ。

「あの、不躾ぶしつけな申し出かもしれませんが」

 考えていると、彼女がおずおずと俺の顔色をうかがってきた。

「何か考えがあるのか? 言ってくれ、ここまで来て遠慮はなしだ」

 そもそも出会い頭が不躾ぶしつけの極みのようなものだったではないか。

 いまさら鬼が出ようと蛇が出ようと、そう簡単に俺が平静を欠くことはないだろう。

「そ、そうですか。では――」

「うん」

「――私の恋人に、なっていただけませんか?」

「……え?」

 自信は一瞬にして打ち砕かれ。

 俺はまさしく――狐につままれたような気分にさせられたのだった。


 ◆ ◆ ◆


 数分後。

 屋台と屋台の間を行き交う途方もない数の男女に紛れて、俺と彼女は歩いていた。

 多少ぎこちないかもしれないものの、手だって繋いでいる。

 彼女の細い指は、絹のように滑らかなさわり心地だった。

「こうしていると、本物の恋人みたいですね」

 繋いでいない方の手に持った綿飴を頬張りながら、彼女は俺を見上げて言った。

 偽装恋人作戦。

 平たく言えば、木を隠すなら森の中というやつだ。

 いかに追っ手の嗅覚が強いとはいっても、この人混みの中から対象を正確に識別するのは不可能に近いだろうという希望的憶測にもとづく。

 少なくとも、発案者にして同じ狐である彼女自身にはできそうもない、ということだった。

 俺も、恐らく無理だろうと思っている。

 ただでさえ滅入ってしまうほどの人混み。

 それに加え、屋台から立ちのぼる雑多な食べ物の香りも手伝ってくれているのだ。

 相手方をやり過ごすにはもってこいのシチュエーションだといえる。

「私、殿方の隣を歩くのは初めてですから……なんだか緊張してしまいます」

「おいおい、緊張するところが違うんじゃないか?」

「そ、そうですか? すみません……」

 彼女の能天気さには少し呆れたが、その方が下手に警戒心をむき出しにするよりも、大衆に融け込みやすいことは事実だった。

 こうなれば、俺も割り切って恋人ごっこを楽しんでしまうのが得策かもしれない。

「名前」

「え?」

「名前、教えてくれないか。その方が自然に話せる気がする」

「構いませんが……その、大丈夫、でしょうか」

 彼女が心配に思う気持ちはよくわかる。

 仮に追っ手の嗅覚はごまかせたとしても、聴覚までごまかすことはできないかもしれないという危惧だろう。

「――この喧騒だ。聴覚なんか、嗅覚に負けず劣らず何の役にも立たないだろうさ」

 彼女を安心させるため、俺は努めて笑顔でそう言った。

 本音を言うと、聴覚で目星をつけられるようなら、どのみち相手は規格外だ。

 嗅覚でも簡単に割り出されてしまうだろう。

 相手がどれほどの感覚器を備えているのかわからない以上、どうしたところで博打になってしまうが、今は無理に不安をあおっても仕方がない。

 そんな考えは頭の片隅に追いやって、俺は彼女の手を強く握った。

「……葛乃葉くずのは

「くずのは?」

「はい、私の名です。あまり手つかずでは不安ですので……よろしければ、葛葉くずはとお呼びください」

「わかった。葛葉、綿飴も食うのは初めてなのか?」

「はい。こちらは可愛らしい見た目を裏切らないので好感が持てますね」

「根に持ってるんだな……」

 意外と粘着質なお嬢様だった。

「この催しの食べ物は、どれも初めて見るものばかりです。あれや、それも……」

「あっちはお面な。食い物じゃなくて被り物。そっちは金魚すくい。どうしても食いたいなら止めはしないけど、多分まずいぞ」

「美味しくないのに売っているのですか?」

「普通、食用にはしないからな……鑑賞用だ」

「あ、お面の中に――」

 俺の話を聞いているのかいないのか、葛葉はお面屋台の一角を指差した。

「――戯画ぎが化された私の一族がおりますね」

 プラスチック製の狐面。

 著しくデフォルメされており、いかにも女の子が好みそうなデザインだった。

「欲しいの?」

「とても可愛らしいのです」

「そう言われちゃ敵わないな……」

 ポケットから硬貨を取り出し、原価は五十円もしないであろう狐面を五百円で購入する。

 どうやら祭りの会場には、金銭感覚を麻痺させる気体が充満しているらしい。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございますっ」

 お面を手渡すと、葛葉は目を輝かせて眺め回した。

 少女のように無垢な表情。

 目に映るもの全てが新鮮なのだろう。

「はむ」

「食うな」

「硬いです……味もしません」

「だから言っただろ、食い物じゃなくて被り物。大人しく頭に乗っけとけ」

「はい……」

 あまりにも残念そうな顔をするので、ちょっと可哀相な気持ちになった。

 葛葉は見た目に反して、かなり重度の派閥らしい。

「そう落ち込むなよ。食い物ならまた別に買ってやるから」

「金魚さんですか!」

「いや……俺の話、聞いてた?」

「あなた様の食わず嫌いかと思いましてっ」

「まあ、どうしてもって言うならすくって……あ、いや、駄目だ。葛葉、すくう用の最中もなかも食っちゃうだろ」

「はい!」

「どうしてそんなに屈託のない笑顔でうなずけるんだ……」

 呆れを通り越して、何だか俺まで笑いたい気持ちにさせられる。

 笑いの系統は間違いなく苦笑の類だったが、不思議と不愉快には感じられない。

「ほら、隣の屋台の林檎飴りんごあめ。可愛らしいのが好きなんだろ? 買ってやるから、それで我慢してくれ」

「わあ、とても素敵です……っ! 金魚さんも捨てがたいですが、ここは林檎飴さんで手を打ちましょう」

 偉そうな口振りも、その悪戯っぽい微笑みを見ると許せてしまう。

 なぜか今さらのように気恥かしくなり、俺は彼女から目を逸らして頬をかいた。

「――はいはい。姫林檎の方でいいよな」

「どちらも可愛いので、折角ですから大きい方がよいですっ」

「食い意地張らすな。悪いことは言わないから、初めて食うなら小さい方にしておけ」

 有無を言わさず姫林檎を一本、普通の林檎を一本購入。

 普通サイズをがぶりといただきながら、姫林檎の方を葛葉の口に突っ込む。

「まふっ!?」

「想像してるより食いづらいんだよな。まあ、頑張ってみ」

「ふぁにふっふひまふ!」

「だろ。あまり躊躇ためらわないで、一息にかじり取るといいよ」

「は、はひっ」

 脇目も振らず林檎飴と格闘する葛葉。

 両手で割り箸を支えているものだから、ふとした拍子にはぐれてしまいそうで――俺は無意識のうちに彼女の腰へと手を回していた。

「…………っ!」

 俺の手に気づいたのか、威勢のよかった彼女は急にしおらしくなる。

 頬を紅く染めて、飴の部分を舌先でちろちろとめ、時折こちらを控えめに見上げては、また林檎飴に目を戻す。

「ごめん、嫌だったかな」

 いくら恋人同士を装っているとはいえ、さすがに出すぎた真似だったかもしれない。

 俺は焦りつつ彼女の腰から手を離した。

「あ……っ」

「え……?」

 葛葉の表情が名残惜しそうに見えてしまったのは――俺の自惚うぬぼれだろうか。

 真意を確かめたい気持ちに駆られる。

 だが、状況がそれを許してくれなかった。

 俺の背中に絶対零度の殺気が突き刺さったのだ。

「勘づかれたか」

 冷や汗をたたえながら葛葉に耳打つ。

 小声だったため、喧騒に紛れてほとんど聞き取れなかったはずだが、彼女は確かにうなずいた。

 彼女も俺と同じように殺意を気取けどっていたのだろう。

「まだ無差別に視線を飛ばしているだけの可能性もある。ひとまず落ち着こう」

「気づいていないふりをするのがよろしいでしょうか」

「そうだな。やっこさん、挙動がおかしい連中に的を絞るつもりなのかもしれない」

 望み薄ではあるが、その線に賭けるしかなかった。

 林檎飴を頬張りながら、殺気の主がいると思しき方向の反対側へ歩を進める。

 努めて呑気な足取りで――できる限り背景の一部として祭りに融け込む。

 しかし――視線は頑として俺たちを捉えて離さなかった。

 まずい。

 こうしている間にも着実に距離を詰められている。

 追いつかれてしまうのも時間の問題だ。

 俺は居ても立ってもいられず、葛葉の手を握って駆け出した。

「身体、屈めて」

「え、えっ!?」

 返事など待っていられない。

 できるだけ上体を低くし、人波をうようにして駆け抜ける。

 まとわりつくような視線は、なおも正確に俺たちを追尾してきていた。

「く……っ」

 既に肌で感じられるほど近くまで迫られている。

 そして、悪いことは重なるもので、もうすぐ人波が途切れてしまうところまで来ていた。

 隠れみのを失えば、一巻の終わりであることは想像にかたくない。

 万事休す、か。

 悔しさにまぶたを強く閉じた、その瞬間。

 ――ぽたり、と。

 冷たい感触が鼻先を叩いた。

 周囲の人々が一斉にどよめく。

 無秩序なりにある種の均衡を保っていた人混みは、にわかにその法則を瓦解がかいさせた。

 俺は思わず顔を上げ、目を見開く。

「雨……?」

 普通に考えれば妙なことだ。

 街並みの向こうには、確かに煌々こうこうと照りつける夕日が浮かんでいる。

 これほどの晴天で、雨など降るはずがない。

「ええ。雨ですよ」

 困惑したような声を上げる俺と対象的に、葛葉は極めて冷静な口調でそう言った。

「天気雨です。どうにか間に合ったようですね」

 まるで、最初から知っていたかのような――そんな、当たり前のことを喋るときの口振りだ。

「混乱に、乗じさせていただきましょう」

 凛とした声色。

 今度は俺が葛葉に手を引かれる番だった。


 ◆ ◆ ◆


 石段を上った先に粛々しゅくしゅくと構えられた神社の軒下で、俺と葛葉は黒山の人だかりに埋もれていた。

 周囲の人口密度は、先ほどまで途轍とてつもない混雑具合に思われた屋台通りの、さらに数倍に及んでいる。

 それでもここに押しかけたのは、祭りを訪れていた人口の数割にしか満たないのだろうが。

 軒下の狭さも手伝って、辺りは寿司詰めの様相を呈していた。

「うまくけたみたいですね」

「ああ」

 事実、追っ手の視線は感じられなくなっていた。

 雨が降り始めたとき、蜘蛛の子を散らしたように駆け出した人々に紛れ込めたのは大きかったらしい。

 さらに、降りしきる雨によって匂いと音が寸断されている。

 今は近くに追っ手が潜んでいる気配も、遠くから監視されている気配もない。

 漠然とした不安も随分となりを潜めていた。

「林檎飴、落としちゃいました」

「そうか……石段でみくちゃにされたもんな」

 皆、我先にと狭い石段を駆け上がってゆくものだから、当然ながら醜い押しあいしあいになった。

 事故が起きなかったのが奇跡とすら思える。

 だが、幸い俺は石段の端を通っていたため、飴は無事だった。

「嫌じゃなければ、俺の、食いなよ」

「えっ、よろしいのですか?」

「大きいけど、半分くらい食ってあるから。ここからはそんなに難しくないはず」

「ありがとうございます……」

 渡した林檎飴を舌先で弱々しくめる葛葉。

 濡れた横髪を耳にかけ、彼女は伏し目がちに溜め息をついた。

 ようやく逃げおおせたというのに、ひどく元気がない。

 ――沈黙。

 雨の降る音と僅かな喧騒が、俺の鼓膜を静かに叩いている。

 夕日はさらに傾き、雨にけぶる街を真っ赤に染め上げていた。

 日没は近い。

「私……」

「ん?」

「私、本当はこの雨で……許嫁いいなずけのもとへとつぐはずだったのです」

「……そっか」

 突然の告白。

 しかし、不思議と衝撃は受けなかった。

 完全に予測していたわけではないが、どことなく真相を臭わせるようなやり取りが多かったからかもしれない。

「でも、私……逃げてしまいました」

「だからあのとき、階段で足を滑らせるくらい急いでいたわけだね」

 こくりとうなずき、葛葉は話を続ける。

「相手の殿方が嫌なわけではないのです。嫌なわけでは……。ただ、ほんの少し挨拶を交わしたことがあるだけで、好きになるにも嫌いになるにも、私には時間が短すぎました」

 できるだけ感情を押し殺しているのだろう。

 だが、彼女の眼には、うら悲しい色合いが確かに浮かんでいた。

「それでも私は旧家の出です。自ら望んだ結婚などできるはずもないと、そう割り切っていました。割り切っているはず、だったのに」

 眉根を寄せて目をうるませる彼女に、俺はかける言葉が見つからない。

「今頃、里は大騒ぎでしょう。お父様もお母様も、家頼けらいの者たちも……皆、弱っているに違いありません。こうなることもわかっていたのに」

 彼女の頬を、一筋の雫が伝い落ちてゆく。

 胸を絞めつけられるような感覚が俺を襲った。

「一度だけでいい……ほんの少しだけでいいから。どうしても、自分で恋をしてみたかったんです」

 雨は勢いを増し、夕日は赤みを増す。

 玄妙なコントラスト。

 不調和の世界。

「だから私、あなた様に……」

「どうして」

「え……?」

「どうして、俺なんだ」

 聞かずにはいられない。

 俺はどこからどう見ても冴えない男のはずだ。

 故郷の因習に耐えられず逃げ出した、ろくでなしの落ちこぼれの引きこもり。

 葛葉のような品行方正のお嬢様に釣り合うような男では断じてない。

 縁といえば、階段でぶつかったことだけ。

 そんな俺を相手に選ぶ理由など、何もないではないか。

 しかし――真剣に問いただす俺の瞳を真っ直ぐに見つめ返して、彼女は微笑みをたたえた。

「さあ、どうしてでしょうね。実のところ、私にもよくわかりません」

 悪戯に告げて、林檎飴をむ。

 俺だって。

 彼女の仕草、そのひとつひとつに早鐘を打つ己の心臓を、自覚していないわけではない。

 それでも、彼女の言い分には納得しかねるものがあった。

「強いて言えば、同族の勘……というやつでしょうか」

「……え?」

「不思議と同じ匂いがしたのです」

 同族。

 同じ、匂い。

 どういう意味だろうか。

 ……いや。

 よくよく考えてみれば、葛葉は深窓の令嬢、俺は引きこもりだ。

 あるいは似ている部分もあるかもしれない。

「そして、私の勘は間違っていませんでした。あなた様は私を――」

 ふわりと。

 思考の隙をうように、林檎の甘い香りが鼻腔びくうをくすぐった。

 一瞬、何が起きたのか理解できない。

 しかし、停止した思考が再び動き出しても、まだ葛葉の顔は間近にあって。

 俺は、彼女に唇を奪われたのだと悟ることができた。

「――救ってくださったのです」

「そんな……俺は何もできなかったじゃないか。雨が降らなければ、むざむざ捕まってお終いだった」

「確かにそうかもしれません。けれど、あそこまで時間を稼ぐことができたのもあなた様のおかげです。それに――」

 彼女は俺から視線を外し、夕陽に眼を細めた。

「――それに、私は楽しかった」

 薄く微笑む彼女の横顔は、夕陽に照らされて、言葉では表現できないほど美しかった。

「初めて自分の意志で誰かと出逢えた。初めて男性の隣を歩いた。初めて手を繋いだ。初めて肩を寄せた。初めて唇を重ねた。初めて――どきどきした。沢山の初めてを、あなた様は私にくださったのです」

「沢山の、初めて――」

「ええ。ですから、もう少しだけ。せめて、この魔法あめが止むまで……肩を寄せていてくださいませんか?」

 俺は何も言えず、ただ彼女の肩に手を回した。

 本音を言えば、その小さな頭を胸に抱き寄せてしまいたかった。

 だが、それは許されない。

 その一線を越えてしまえば、俺の気持ちに歯止めがきかなくなることは確実だから。

 ――いや、そんなことを考える時点で。

 俺の心は、とっくに彼女を離したくなくなってしまっていたのだと、今さらのように気づかされた。



 雨は止んだ。

 周囲には宵闇が立ち込めており、ほとんどの人は神社の軒下から撤収してしまっている。

 人がまばらになり始めた頃から、俺たちは少し高い縁側に並んで腰かけ、最後のときをただ待っていた。

「短い間でしたが……」

 葛葉は俺の肩に頭を預けてささやく。

 角度が角度のため、想像することしかできないが――彼女はきっと、俺と同じ表情をしていることだろう。

「本当にありがとうございました。このご恩は決して忘れません」

 俺は、自分の手のひらをそっと、彼女の手の甲へ重ねるように置いた。

「私はもう帰らなくては。でも、あなた様のことを想えば……どうにかやっていけそうです」

 結局、彼女は里に戻る意志を曲げなかった。

 強い責任感と、人を裏切り通すことのできない彼女の実直さが垣間見える。

 未練がないといえば嘘になるが、そんな彼女だからこそ俺は好きになることができたのだ。

 断腸の思いに耐え、笑顔で見送ることができなければ、それは彼女に対する最大の不敬だろう。

「あ、そうだ」

 俺はかばんにしまっていたを取り出す。

「これ、持っていって。とっくに冷めちゃってるけど……餞別せんべつ

 差し出したのは食べかけのたこ焼き。

 一度きょとんと首を傾げた後、彼女はぷっと噴き出した。

「色気、ないですね。でも、ありがたく頂戴しておくことにします」

 たこ焼きを受け取ると、彼女はついに、俺から体を離した。

 目尻に涙を浮かべての笑顔。

 この方が、泣き顔よりも――ずっとずっと送り出しやすい。

「では、さようなら。今日のことは、すべて忘れてください。私は今日の想い出をりどころに生きてゆきますが……あなた様にとっては、お辛いだけでしょうから」

「忘れる、か」

「ええ――狐に、化かされたように」

 そう言い残して。

 彼女は音もなく視界から消えた。

 からん、と間の抜けた顔の狐面が地面に落ちる。

 本当に忘れてほしいのなら、こんな落し物はしないだろう。

 人も狐も変わらない。

 女というのはずるい生き物だ。

「葛葉……」

 虚空に向けて呟いても、返事が返ってくることはなかった。







 ――仮に。

 もしも俺が人間だったとしたら、話はここで終わっていただろう。

 全てを忘れたことにして、センチメンタルに終幕していたことだろう。

 だが、俺はひとつだけ彼女に隠していたことがある。

 嘘をつくことだけはしなかったが、逆にすべてを語ることもしなかった。

 彼女にいらぬ警戒心を抱かせてしまう可能性があったからだ。

 足元の狐面を拾い上げる。

「それじゃあ、久方ぶりの里帰りと洒落込もうか」

 自身の頭に乗せ、俺はぽつりと呟いた。

「俺も……狐だからね」

 里の因習に嫌気がさし、ここのところは人間の世界に引きこもりっ放しではあったものの――嗅覚は、まだおとろえてはいない。

 さて、里に帰って始めようか。

 人間で言うところのロミオとジュリエットとやらを。

 彼女に関する情報は、名前を除けば皆無に近いが――なに、強い匂いを発するものは持たせてある。

 場所などすぐに割り出せるはずだ。

 取り巻きの狐たちが厄介ではあるものの、里に戻れば仲間をつのることもできよう。

 彼女は言った。

 狐に化かされたように、と。

 だが、狐に化かされるのが人間だとは限らない。

 狐とて、狐に化かされることはあるのだ。

「さて……化かされたのはどちらだろうね」

 ささやいて。

 俺はその尻尾を、鬱蒼うっそうと茂る森の闇にひるがえした。


 【了】

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狐ノ嫁入リ さくらもみじ @sakura-momiji

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