第5話 鼻血

 女は、泥酔していた。目は虚ろだが、何かを見ていた。何かを掴み取ろうとしていた。

「昔、昔っていうのは八歳の時、花池っていう溜め池があったの。溜め池で釣りをしていたのかな。あの頃だから、ザリガニ釣りね。あの日は、霧雨が降っていた。でも、あたしは釣りをしたの。だって、家に居たっていいことないじゃない。両親は仕事に行っているし、テレビは兄が観ていて、あたしが好きな番組は観せてもらえなかったの。兄は、あたしに家事をしろって命令ばかりして暴力を振るった・・・。夕方になって、あたしは帰ろうと思った。近所のいじめっ子にブロックで殴られたの。顔。それで鼻血が出た。雨がジャージャー降ってきて、傘はないけれど誰かが迎えに来るなんてあるはずないし、このまま低体温になって死んでもいいと思った。あたしには帰る家なんてなかったの。食事ができる家はあったよ。でも、それだけ。あたしを心配してくれる人はいなかった。帰る家がないって本当に惨めなことね。あたしは鼻血を流しながら何分か歩き続けた。血が服に流れていった。誰も気づいてくれないから、花池の叢に入ったの。うずくまった。そうやって何時間が経ったけれど、あたしはまだ生きていた。低体温症にはならなかったのね。何て丈夫な体なの。何もすることがないから家に帰った。あの女が丁度夕食を作っていた。あの女は、感情の不感症。同性に対しては同情心を持てない病気みたいな人間だから何かを質問されることはなかった。あたしは一人で着替えをした。いつも通り終わったわ。あたしは、心の通い合う、本当の家庭が欲しいと思った。この世の中に心の通い合いというものがあるならば、欲しいのよ。あたしには過ぎた望みなの?」

 彼女は泣いた。心の通い合う本当の家庭を維持するには、ある程度の経済力がいる。僕のせいだ。僕が生活費を出せないから。彼女は、今も鼻血を流していた。

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