第3章 朱い夕陽と鉄の臭い

第11話 夢

 グレナは馬車に乗っていた。


 暖かくて、柔らかくて、いい匂い。


 ああ、またあの夢を見ているんだと、グレナの意識の欠片かけらは気づいた。けれど夢の中の彼女は何も知らず、ただ幸せの中にいた。


「本当に、グレナはおてんばさんなんだから……」


 やさしい手がグレナの頭を撫でていた。いい匂い。オレンジの香り。


 それはグレナの母だった。ちょっと困った顔をして、でも笑っていた。


 グレナは母の隣に座って、母に抱きついていた。オレンジは母が好んで身に付けた、母の香りだった。


 大好きなお母さま。


「私もびっくりしたわ。まさか馬車の座席の中に入って隠れているなんて」


 向かいの席では、叔母がやはり笑っていた。


 大好きな叔母さま。


「だって、私もお祖父さまに会いたかったんだもん!」


 幼いグレナは無邪気に、さらに強く母に抱きつく。


「この馬車の椅子が箱みたく開くのは、ずっと前から知ってたもの!」

「ふふ……グレナのお祖父さまも、グレナに思いがけず会えたのをとても喜んでいらしたけど」


 叔母が言ったのへ、母はちょっとにらむふりをした。


「あまりグレナを甘やかさないでちょうだい。ますますおてんばになってしまうわ」

「おてんばは、駄目?」


 グレナが母に訊くと、母は額をグレナの額にそっとつけた。


「そうね、駄目ではないけれども……おしとやかもできたほうが、『マルスさま』はもっとグレナを好きになってくださると思うわ」

「ほんと? おしとやかにすれば、『マルスさま』は私を好きになってくれる?」

「ええ」

「じゃあ私、おしとやかにする!」


 グレナはしがみついていた母から離れ、座席にきちんと座った。「これでいい?」と母と叔母に尋ねると笑顔のうなずきが二つ返ってきた。


 あれ、とグレナの欠片は思った。どうしてここに、「マルスさま」なんてものが出てくるのだろう。これまでにこの夢でそんな人物が出てきただろうか。考えてみたが、眠りの中にいるグレナの意識はぼんやりとしていてよく分からない。


「ねえねえ、次はね、アルティと一緒にお祖父さまに会いに行きたい!」

「そうね、次にお祖父さまをお訪ねするときは、私たち四人で行きましょう」


 きちんとお父さまにお許しをもらってね、と母はまたグレナの頭を撫でた。


「今日もね、アルティも誘うつもりだったの。でもお母さまたちが出かけようとするのが早くて、私、急いで隠れなきゃって」


 アルティに悪いことしちゃったと言うグレナに、叔母は声を上げて笑った。


「アルティには馬車の座席の中に隠れるなんて大冒険、無理じゃないかしら。狭くて暗くて、怖くなって泣き出してしまうかも」

「私は怖くなかったわ!」


 グレナは小さな胸を張った。


「もう……本当に、おてんばさん」


 困ったように、でも明るく楽しげに、母と叔母は笑った。


 そう、母と叔母は、笑っていた。



「あら、見て……すごい夕陽よ」


 ふと叔母が窓の方を向いて言った。


 グレナの欠片は凍りついた。始まるのだ。この夢の続きを、グレナの欠片は知っていた。目覚めたい、幸せなままで目覚めてしまいたい。意識の欠片がもがく。


 だが幼いグレナは何の疑いも抱かず、窓の外を見た。


「わぁ、真っ赤……!」

「すごい……わね、この色は……」


 森のかなたに見える西の空が朱に染まっていた。一面に何かをぶちまけたような、全てを塗り潰すかのような、朱。


 でもその時のグレナは、朱という色を知らなかった。


「真っ赤ね、こんな赤、見たことない!」


 はしゃいでいた。


 何も知らずに。


「でもこの色、まるで――」


 母がなにかを言いかけた瞬間。


 突然馬が甲高くいなないた。直後に馬車が大きく揺さぶられ、急停止する。


「きゃっ!」


 グレナは座席から転がり落ちかけて、母の腕に抱きとめられた。


 馬車の周囲で激しい物音がした。何かが思い切りぶつかる音。そして大勢の叫び声。


 何が起きたか幼いグレナには分からなかった。しかし母と叔母はさっと顔色を変えて立ち上がった。


「お姉さま! グレナを!」

「ええ……!」


 母がグレナを抱きかかえたまま、叔母が座席の蓋を開けた。中は、グレナが往路に隠れていた空洞。母はそこにグレナを入れた。


「お母さま……!」


 グレナは怖くなって、手を伸ばして母を呼んだ。行きはまったく怖くなかった、楽しかった。けれどその時は怖くて仕方がなかった。


「しっ、黙って、グレナ」


 かがみ込んだ母が低い声で囁いた。


「けして声を出してはいけません。ここでじっと、動かずにいなさい。そうすれば、大丈夫だから……」

「お母さま、怖い……」


 周囲の物音はどんどん激しくなっていた。そしていくつも絶叫が聞こえた。


「黙って。何があっても声を出さずに、動かずにいるのよ」


 母は蓋を閉めようとした。


「お母さま……!」

「……大丈夫よ、グレナ。あなたのことは、私たちが守るわ……」


 蓋が閉まった。


 幼いグレナの体はそれまで出遭ったことのない恐怖に凍りついていた。


 何が起きているのか分からない。だがとても、とても悪いことが、起きているのだけは分かった。


 物が叩き壊される大きな音がした。グレナの体が強く震える。


「何者です!」


 母の声。


「ハンナドーラとアルマドーラだな?」


 野太い男の声。


「お前たちは……!」


 叔母の声。


 そして。


 何か、とても嫌な音がした。続けてもう一度。


 母の声が聞こえた気がした。


 どさりと何かが蓋の上に落ちた。弾みでほんの少しだけ蓋がずれて、外がかすかに見えた。急に鼻を突く鉄の臭い。


 緑と白の布地が見えている。これは母のドレスだ。なら上にかぶさっているのは母? でもなぜ、母のオレンジの香りではなく、鉄の臭い?


 するとグレナが見ている間に、母のドレスの色が変わっていった。緑と白ではなくなった。


 まるでさっき窓の外に見たような色だった。


 また、とてもとても嫌な音がした。何度も。何度も。


 むせ返るような鉄の臭い。わずかに見える外はグレナの知らない色。


 声を出してはいけない。


 動いてはいけない。


 ああ。


 今起きているのは。



「ああああ――――っ!!」


 グレナは悲鳴を上げて目を見開いた。


「グレナ! グレナ!」


 呼ぶ声が突然耳に入った。アルティがグレナの体を揺さぶっていた。


「あああ、あ、ああ――っ……!」


 グレナは悲鳴を止められない。


「グレナ、大丈夫よグレナ!」


 従妹にきつく抱きしめられる。


「あ、あああ、あ……!」


 やがて悲鳴はそのまま嗚咽おえつへと変わっていった。


「大丈夫よ、グレナ、私がいるわ、大丈夫よ……」


 抱きしめられながら、グレナは激しく泣きじゃくった。


「あ……ああ、アルティ……」


 やっと、従妹の名を呼ぶ。従妹はさらにしっかりグレナを抱きしめてくれる。


「お母さまが……叔母さまが……お母さまが、お母さまが……!」


 グレナは小さな子供のように泣いていた。


「私がいるわ、グレナ、私がいるから……」


 アルティが何度も繰り返す。おまじないのように、魔法の呪文のように。グレナの耳元で囁く。


「大丈夫よ、私がいるわ……」


 そのまま長い時間がかかって、グレナの泣き声は徐々にすすり泣きに変わっていった。


「アルティ……」


 従妹の腕の中で、グレナも従妹を腕に抱いた。


「ええ、グレナ」


 従妹は応えて、額をグレナの額につけた。


 もう何度、同じ夢を見ただろう。あのあかい夢を。鉄の――血の臭いの悪夢を。


「アルティは……私が守るわ」

「グレナ」

「絶対……アルティは私が守る……」


 グレナは強くアルティを抱きしめる。アルティも強く抱き返してくれた。


「私もグレナを守るわ。グレナのことは、私が守る」


 誰からも守ってもらえない。だからお互いがお互いを守る。


 世界の中で二人きり。


 従姉妹たちは闇の中、震えながら抱き合っていた。

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